第一話 聖人君子な彼氏が退屈すぎたので、刺激的な彼と遊ぶことにした。バレても彼は怒らないし平気でしょ?
春の陽気が心地よい四月の朝。通学路の桜並木は既に葉桜へと変わりつつあったが、舞い散る花びらがアスファルトを淡いピンク色に染めていた。そんな穏やかな景色の中を、俺、天道善治は少し早歩きで進んでいた。
時計の針は始業五分前を指している。高校生として決して褒められた時間ではないが、これには深いわけがあった。いや、深いというほど大層なものではないかもしれない。ただ、駅前の横断歩道で重そうな荷車を引いているおばあちゃんを見かけてしまい、気づけば家まで送り届けていたのだ。
「遅刻ギリギリだけど、おばあちゃんが無事に帰れてよかったな」
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、俺は独り言を呟く。焦る気持ちはあるものの、不思議と後悔はなかった。おばあちゃんが別れ際にくれた「ありがとうね、学生さん」という温かい笑顔を思い出すだけで、今日一日が良い日になるような気がしたからだ。
校門が見えてきたところで、予鈴のチャイムが鳴り響く。やっぱり間に合わなかったか、と苦笑しつつ、俺は昇降口へと駆け込んだ。上履きに履き替えて教室へ向かう廊下を走っていると、角からぬっと現れた人影と鉢合わせそうになる。
「おっと、危ない。……天道か。また遅刻ギリギリだな」
低い声で呼び止めたのは、生活指導を担当している鬼塚先生だった。強面で生徒たちからは恐れられている先生だが、俺は足を止めて姿勢を正し、深々と頭を下げる。
「おはようございます、鬼塚先生。申し訳ありません、少し急用がありまして」
「急用? また駅前で誰かの手伝いでもしていたのか?」
「あ、はい。おばあちゃんの荷物が重そうだったので」
言い訳がましく聞こえるかもしれないと恐縮していると、鬼塚先生の厳つい表情がふっと緩んだ。先生は俺の肩をポンと叩き、呆れたような、それでいて優しい声色で言う。
「お前という奴は……。まあいい、事情は分かった。だが次はもう少し余裕を持って行動しろよ。ほら、急げ」
「はい! ありがとうございます!」
見逃してくれた先生に感謝しつつ、俺は教室の扉を開けた。先生が俺の遅刻を見逃してくれるなんて依怙贔屓だと言われるかもしれないが、なぜか俺は昔から、先生たちに怒られることが少なかった。運がいいだけなのだろう。
教室に入ると、担任の先生が来る直前の独特なざわめきが広がっていた。俺は息を整えながら自分の席へ向かう。すると、クラスメイトたちが次々と声をかけてきた。
「よう天道、セーフだったな!」
「おはよう善治くん。また人助け?」
「今日の寝癖も芸術的だね、直してあげよっか?」
男子も女子も、みんなが笑顔で迎えてくれる。俺みたいな平凡な人間にこうして声をかけてくれるのは本当にありがたいことだ。俺も一人ひとりに「おはよう」「ありがとう」と返しながら、席に着く。
鞄を机の横にかけると、前の席に座っていた女子生徒がくるりと振り返った。
「善治、遅い」
少し不機嫌そうに頬を膨らませているのは、愛染璃々夢。中学時代からの同級生であり、高校に入ってから付き合い始めた俺の彼女だ。ミルクティー色の髪を緩く巻き、制服を今風に着崩した姿は、クラスの中でも一際目立つ可愛らしさを持っている。
「ごめんごめん、璃々夢。ちょっと途中でおばあちゃんを助けててさ」
「またぁ? 善治ってば、本当にお人好しなんだから。私よりおばあちゃんの方が大事なの?」
「そんなことないよ。璃々夢が一番大事に決まってる」
俺が正直な気持ちを伝えると、璃々夢は「ふふん」と鼻を鳴らし、満更でもなさそうな顔をした。
「まあいいや。今日の放課後なんだけどさ、私、補習になっちゃって。だから一緒に帰れないの」
「そっか、補習か。大変だね。何か手伝えることがあれば……」
「ううん、大丈夫! 先生に呼び出されただけだから。じゃあ、また明日ね」
璃々夢はひらひらと手を振って前を向いた。その横顔には、どこか落ち着かないような、浮ついた色が浮かんでいるように見えたが、俺は深く考えないことにした。彼女が補習だと言うなら、それを信じて応援するだけだ。
◇ ◇ ◇
昼休み。購買部は戦場のような賑わいを見せているが、俺は自宅から持参した弁当箱を広げていた。母子家庭で育った俺にとって、弁当作りは日課であり趣味のようなものだ。
「いただきまーす」
璃々夢が俺の机をくっつけて、箸を伸ばしてくる。彼女は購買で買ったパンとサラダを広げているが、いつものように俺のおかずをつまみ食いするのがお決まりのパターンだった。
「ん、今日の卵焼き、ちょっと甘め?」
「うん。璃々夢が先週、甘いのが食べたいって言ってたから」
「ふーん。覚えてたんだ。……まあ、美味しいけどさ」
璃々夢は卵焼きを口に放り込みながら、どこか退屈そうに窓の外を眺めた。
「ねえ善治。私たち、付き合ってもう一年だよね」
「そうだね。早いものだなぁ」
「……なんかさ、平和すぎない? 喧嘩もしないし、善治は私が何言っても怒らないし。刺激がないっていうか」
箸先で唐揚げをつつきながら、彼女は不満を漏らす。俺は苦笑いを浮かべて、お茶を一口すすった。
「ごめんね。俺、怒るようなことがあまりなくて。璃々夢が楽しそうにしてくれていれば、それで満足しちゃうんだ」
「そこがダメなの! たまには『他の男と喋るな』とか束縛したり、もっと強引に迫ったりとかないわけ? 善治って本当に仏様みたいで、彼氏って感じがしないんだよね」
彼女の言葉は棘を含んでいたが、俺にはその気持ちも分からなくはなかった。十代の恋愛には、ドラマのような起伏が必要なのかもしれない。けれど、俺の性分として、大切な人に怒りの感情を向けることなど想像もできなかった。
「努力はしてみるよ。でも、璃々夢を怖がらせたくはないからなぁ」
「はぁ……。そういうとこ。ま、いいけど」
璃々夢はつまらなそうに溜息をつき、スマホを取り出して誰かとメッセージのやり取りを始めた。画面を見てニヤニヤと笑う彼女の様子に、少しだけ胸が痛む。俺では彼女を心から満足させてあげられないのだろうか。
その時、教室の入り口付近がざわついた。女子生徒たちの黄色い声が上がる。
「あ、皇くんだ!」
「今日もかっこいい……!」
現れたのは、隣のクラスの皇 帝雅。長身に整った顔立ち、文武両道で実家は大財閥という、文字通りの完璧超人だ。「学園の帝王」なんて大層なあだ名で呼ばれている彼だが、なぜか俺とは入学当初から気が合い、よくこうして昼休みに顔を出してくる。
帝雅は群がる女子たちを一瞥もせず、真っ直ぐに俺の席へと歩いてきた。その冷徹な瞳が、一瞬だけスマホをいじる璃々夢に向けられ、氷のような冷たさを帯びたのを俺は見逃さなかった。
「善治。昼食中か」
「よう、帝雅。帝雅も食べる? 今日は唐揚げが美味しくできたんだ」
「……お前が作ったものなら、毒が入っていても喜んで食べるが。今日は遠慮しておこう」
帝雅は俺に向き直ると、先ほどの冷徹さが嘘のように穏やかな表情になった。周囲の女子たちが「皇くんが笑った!?」と騒いでいるが、彼は気にする素振りもない。
「放課後、時間はあるか? 生徒会室の備品整理を手伝ってほしいのだが」
「あ、ごめん。今日は放課後、商店街の精肉店のおじさんに頼まれごとをしててさ。配達の手伝いをする約束なんだ」
「そうか。お前は相変わらずだな」
帝雅は呆れたように肩をすくめたが、その瞳には親愛の色が滲んでいた。
「天道善治。お前のその献身性は美徳だが、利用しようとする輩もいる。……特に、身近な人間には気をつけろよ」
意味深な言葉を残して、帝雅は璃々夢をもう一度だけ冷ややかに見下ろし、教室を出て行った。璃々夢はスマホに夢中で、帝雅が来ていたことすら気づいていないようだった。
「身近な人間、か……」
帝雅は心配性だ。俺なんかのことを、いつも気にかけてくれている。彼のような素晴らしい親友を持てて、俺は本当に幸せ者だと思う。
◇ ◇ ◇
放課後のチャイムが鳴ると、璃々夢は「じゃ、補習行ってくるね!」と慌ただしく教室を飛び出していった。俺は彼女の後ろ姿を見送り、自分も鞄を持って商店街へと向かった。
精肉店のおじさんの手伝いは、思ったよりも時間がかかった。配達先で話し込んだり、途中で泣いている子供をあやしたりしていたせいで、すっかり日が暮れてしまった。
「ありがとうな、善治くん! これ、余ったコロッケ。持ってってくれ!」
「ありがとうございます! 母さんも喜びます」
揚げたてのコロッケが入った紙袋を手に、俺は家路を急いだ。商店街を抜け、駅前の繁華街を通るルートだ。夕方のラッシュアワーでごった返す人混みの中、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。
ミルクティー色の巻き髪に、着崩した制服。璃々夢だ。
補習が終わったのだろうか。声をかけようとして、俺は足を止めた。彼女の隣に、見知らぬ男がいたからだ。
隣の高校の制服を着た、茶髪でピアスの男。サッカー部のバッグを持っている。璃々夢はその男の腕に自分の腕を絡ませ、今まで俺に見せたことがないような、とろけるような笑顔を向けていた。
「ねー鋭一くん、次はどこ行くのー?」
「んー? ホテル直行でもいいけど、その前になんか食う?」
「えー、お腹すいてなーい。それより早くイチャイチャしたい」
「ははっ、璃々夢ちゃん積極的~。彼氏くんはいいの? 善治だっけ?」
心臓が早鐘を打つ。聞きたくない会話が、雑踏の音を突き抜けて耳に届く。俺は咄嗟に電柱の影に身を隠した。
「あー、あいつ? いいのいいの。どうせ怒んないし」
璃々夢の声には、罪悪感の欠片もなかった。
「ていうか、善治ってば本当に退屈なんだもん。『璃々夢が楽しければいい』とか言ってさ、悟り開いてるの? って感じ。キスする時もお伺い立ててくるし、マジでないわー」
「うわ、だっさ。男として終わってんな」
「でしょー? だから鋭一くんみたいな強引な人がいいの。刺激的で、ドキドキさせてくれる人じゃなきゃ」
男、蛇穴鋭一と呼ばれた彼は、ニヤついた顔で璃々夢の腰に手を回し、そのまま路地裏のラブホテル街へと足を向けた。
「じゃあ、たっぷり刺激を与えてやりますか」
「んふふ、期待してるね♡」
二人の姿がネオンの明かりの中に消えていく。俺はそれを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
手の中のコロッケが、熱を失っていくように感じる。胸の奥が鉛のように重く、息をするのも苦しい。
怒り? いや、違う。湧き上がってきたのは、どうしようもない無力感と悲しみだった。
俺が退屈だから。俺が彼女をドキドキさせてあげられなかったから。だから彼女は、他の男に走ったのだ。
彼女が笑顔でいられるなら、それが俺の隣でなくても、俺はそれを受け入れるべきなのだろうか。
「……璃々夢が、選んだことなら」
震える声で呟き、俺は涙をこらえるように唇を噛み締めた。これ以上ここにいてはいけない。惨めになるだけだ。俺は逃げるように、その場から背を向けた。
だが、俺は気づいていなかった。
俺たちの様子を見下ろす雑居ビルの屋上に、一人の男が立っていたことを。
夜風に制服の裾をはためかせ、眼下の喧騒を睥睨するその姿は、まさに帝王。
皇 帝雅は、スマホを耳に当てながら、地獄の底から響くような声で言った。
「……ああ、確認した。間違いない」
彼の瞳は、先ほど璃々夢たちが消えた方向を射抜くように見つめている。その目には、慈悲など微塵も存在しない、絶対零度の殺意が宿っていた。
「僕の神を泣かせた罪は、万死に値する。……徹底的にやれ。手加減は無用だ」
電話を切った帝雅は、遠ざかっていく俺の背中を見つめ、痛ましげに目を細めた。そして、誓うように呟く。
「善治、君は泣かなくていい。君を傷つける世界など、僕がすべて壊してやる」
街の灯りが、不穏に明滅していた。それは、明日から始まる嵐の前触れのように見えた。




