悪意 - 二宮透花
背広の人が部屋を出てからしばらくして、別の人が部屋に入ってきた。最初に入った部屋にいた若い男の人で、両腕に畳んだ毛布とビニール袋を抱えていた。毛布は部屋の隅にあったマットの上に置き、それからビニール袋だけを持ってあたしたちの前に来た。
差し出されたビニール袋を私が受け取ろうとすると、その前に男の人はわざと袋から手を離して床に落とした。あたしが床から袋を拾う時、男の人の遠慮のない視線を感じていた。
コンビニのロゴが印刷してある袋で、中を見るとお茶のペットボトルとサンドイッチが入っていた。小延さんがサンドイッチ1つで足りるなら2人分だった。
「大人をなめてんじゃねえぞ」
男の人はあたしをにらむように見て言った。
「なめていません」
「こんなとこまで来ておいて、名前は言いたくない? 何様だお前」
名前を知られたくないというのは絶対じゃない。あたしたちが言わなくても名前を知られる場合がある。行方不明になった人はその写真がよく出回る。ここであたしたちに会った人がその写真を見れば名前は知られてしまう。
ここの人たちは、たとえ知っていてもあたしの名前を外に漏らせない。あたしがネットで調べた限り、本人の告白以外で臓器提供者の名前が確認された例はなかった。
でもあたしはこの計画に文字通り命をかけている。たとえわずかでも、失敗する可能性は減らしたい。
「そのことはもう、責任者の方とお話しました」
「責任者の方? 生意気な口きいてんじゃねえぞ!」
「いいかげんにしておけ、センセイ」
扉の外から声が聞こえた。センセイというのは先生なのか、それともこの人の名前なのか。少なくとも学校の先生じゃないと思った。注意を受けたセンセイは、忌々しそうな表情で部屋の外へ出て行った。
ペットボトルのお茶が温くなるくらいの時間が経ってから、また部屋の扉が開いた。顔を出したのはセンセイと呼ばれていた人だった。
「聞きたい話がある。出て来い。女の方だけだ」
あたしは心配そうな顔をした小延さんに笑みを見せると、扉から部屋の外へ出た。通路にはセンセイしかいなかった。
センセイの顔には親しみを全く感じない笑みが浮かんでいた。その顔はあたしをいじめていた人たちを思い出させた。弱いものを傷つけて楽しむ人の顔だった。あたしは自分が緊張しているのを感じた。
普通なら絶対について行ってはダメな相手だけど、今のあたしにそれを選ぶことはできなかった。
「こっちだ」
そう言うとセンセイは、あたしたちがこの部屋に来た時とは反対の方向に廊下を進んだ。その先の壁に他の部屋と違う形の扉があった。センセイがその扉を開けると、中は階段のある部屋だった。
階段といっても歩き難いほど色々な物が置いてあって、物置として使われているように見えた。ここが目的地なんだとしたら、あたしはセンセイの個人的な用件で呼ばれたということになる。
あたしは全身の血が引いていくのを感じていた。できれば避けたかったことだけど、あたしは2回死なないといけないらしい。
あたしが計画を立てた時、自分に起こるだろうと覚悟したことが2つあった。法律を守らない人たちの所に行くなら、死ぬことだけじゃなく、それと同じくらい辛いこともあると知っていた。
それでもあの悪夢を見たときのあたしと比べたら、あたしには立ち向かう気力が残っていた。あたしの手や足はあたしの意思で動いていた。あたしがその中に入ると、あたしの後ろで音を立てて扉が閉まった。
「何だ、その目は? おれはな、女やガキにそんな面をされるのが大嫌いなんだ。女のガキならなおさらだ」
センセイはあたしを憎々しげに見た。
「岩さんもどうかしてる。何でこんなガキに気を使うんだよ。死ぬ理由が自分たちと同じだって? 冗談じゃねえよ。どうせクソみたいな奴に騙されて来たんだろ」
「違います」
あたしは反射的に答えた。答えた後で、言われたことへの怒りが生まれた。
「違わねえよ。お前みたいなガキをこんなところに来させた奴だろ」
「あたしが自分で決めてここに来たんです」
「だから何だ? そいつのせいでお前がここに来たってことに変わりねえよ。知らなかったって言い訳するヤツなのか。懐いたお前を上手く利用しただけだ。クソ野郎だよ」
わざと怒らせようとしていることは分かっていた。それでもその言葉であたしの怒りは恐怖を超えた。
「あの人のことなんて何も知らないくせに」
「知らなくても分かるんだよ。お前、寂しいヤツだったんだろ」
「……」
「ほ~ら。当たりだ。ちょっと親切にされたからって、のぼせ上ってんだからな」
「あの人がどれだけ……」
「お前が思ってるあの人ってのは、お前の頭ン中だけの存在だ。下心もないのに親切にするヤツなんているかよ」
「違う」
「他人に死んでもいいって思わせるようなヤツなら極悪人だ。お前が苦しむように仕掛けてから、たっぷり恩を売れるように助けたんじゃねえのか。どうだ? 思い当たるんじゃねえのか?」
あたしはその暴言を許せなかった。あたしは店長さんとの思い出を次々と頭に思い浮かべて、その全てで今聞いた男の言葉を否定した。
店長さんとの思い出はあたしに力を与えてくれた。恐怖で麻痺していた頭が少しずつ冷静になっていった。あたしは目の前の男について考えた。
人は他人がどんな風に行動するかを自分を基準にして考える。つまりセンセイは、さっき自分で言ったようなことをする人だ。あたしはセンセイに店長さんを侮辱されたと思った。でもこんな人の言葉にそんな価値はない。
あたしはセンセイを否定した。相手をどこか認める気持ちがあるから、その人に何かをされると心が痛む。でもあたしはセンセイの言うこともすることも、欠片ほども価値を認めない。
センセイは猛獣のようなものだ。噛まれれば痛いし死んでしまうかもしれない。そのことは怖いけど、襲われてもあたしにとって本当に大切なものが傷つくことはない。
昔のあたしだったら、暴力に怯えて動けなくなってしまっただろう。でも今のあたしは死を覚悟してここに来ている。あたしの心に店長さんがいる限り、大人しく従うつもりはない。
「まずお前の名前を言ってもらおうか」
「いやです」
あたしの言葉にセンセイは驚いた顔をした。
「この状況でそんな口がきけるのか。これから自分がどうなるか、本当に分からねえほどガキなのか?」
センセイはあたしへのいらだちを隠せないでいた。相手を自分の思い通りにできないことが許せないんだろう。
「どうやら色々勉強してもらわねえとダメみてえだな。おれの勉強はきっついぞ。『責任者の方』と違って甘くねえからな」
いくら脅しても、センセイに傷つけられるのは体だけだ。そしてその体が死ぬことまで、あたしはもう受け入れている。あたしは冷静さを失わなかった。
「つまりこれは、あなたが勝手にしてることなんですね」
「おれを『あなた』なんて呼ぶんじゃねえよ。くそガキが。そんなに痛い目にあいたいのか?」
「いいんですか、『商品』を傷つけても。責任者の方に怒られるんじゃないですか?」
「商品ってのは客に売れるとこだけだ。売れない部分だけで楽しめる方法はいくらでもあるんだよ! ガキには分かんねえんだろうな」
「じゃあ、その売れるはずの部分がダメになったら困るんですね。例えばあたしが自分でこの目を潰したら――」
「いちいち、うるせえんだよ!」
センセイはあたしの髪をつかんで、あたしの体を床に押し倒した。そしてあたしの顔を強くつかむと、覗きこむようにあたしの目を見た。
「おれが知るかよ。頭のおかしいガキが勝手にやったことだ」
あたしはその行動に恐怖と吐き気がするような不快感を感じた。それでもまだ冷静な自分がいた。そしてこれからどうするべきかを考えた。
これ以上センセイ怒らせるとあたしを殺すかもしれない。センセイならその死体を勝手に捨るかもしれない。そうなったら店長さんを守れない。店長さんのためだったら、あたしはどんなものでも犠牲にできる。
センセイの手があたしの胸元をつかんだ。




