評価
閉店後、俺は自宅の居間で安西を待っていた。
「何ですか、湊河さん。大事な話って」
安西はそう言って、俺の座っているソファーの正面にある椅子に座った。
「急な話だが、お前に頼みたいことがある」
「なんでしょう?」
「その前に言っておくことがある。俺は近い内にここからいなくなる。もう戻らないと思ってくれ」
「……いきなりですね」
安西はそう言ったが、俺が言った言葉の重大さを考えれば淡白な反応だ。
「いずれ分かるとは思うが今は事情を言えない。俺の個人的な都合だ。後で知ったらお前は怒るだろうな」
「そんな説明をしておいてから、頼みごとですか?」
「そうだ。もちろん断ってくれてもいい」
そう言いながら、俺は安西が断るとは思っていなかった。
「いいでしょう。話を聞きましょう。聞いてしまったら後戻りは出来ない、とかはないですよね?」
「ああ。だが他の者には話さないで欲しい。特に二宮には」
「つまり、二宮さんに関係する頼みごとなんですね」
俺は沈黙で安西の言葉を肯定した。
「いま言った通り、俺はここからいなくなって戻ってこない。二宮はどうすると思う?」
「後を追うんじゃないですか?」
「冗談でも止めてくれ。二宮には一番来て欲しくないところだ」
「オレならかまわないんですか?」
「駄目だ。……話を戻すぞ。自分で言うのもなんだが、二宮は俺をずいぶん高く評価して、それに見合った好意も持ってくれている。俺がいなくなってもう会えないと分かったら二宮は傷つくだろう」
「そうですね」
「そうならないようにしたい」
「どうやって?」
「相談したいのはそれだ。好きな相手のほんの些細な行動で、相手に幻滅するということがあるだろう」
「二宮がですか? 彼女はそう簡単には相手の評価を変えないと思いますよ」
「だから俺は二宮にとって許せないことをする。それならどうだ?」
「例えば?」
「理不尽な暴力とかだ。二宮は暴力に嫌悪感を持っている」
「それを二宮さんに?」
「まさか。だが二宮が親しくしている人間にした方が効果は高いな」
「……湊河さんは二宮さんに嫌われるのが目的ですよね」
「そうだ」
「男より女に暴力を振るう人間の方が嫌われますよ」
「それがお前の意見か?」
「……分かりました。オレが殴られましょう」
「芝居のような物だ。お前の演技が上手ければ痛くはしない」
「それで、理不尽と言うのは?」
「お前たちのグループは、他の客に気を使って奥のパーティション内に集まっているだろう。それは二宮も知っている。そのことで逆にお前を責めるつもりだ」
「席料、ですか?」
「そうだ。前から思っていたが、お前たちはずっと奥の席を占有している。そういう時は、使っていない時間も含めた席の使用料を払うべきだろう」
今は休日の開店直後で、店内にいるのはほとんどが知り合いだ。葉山たち3人も来ている。
「それをオレが払うんですか?」
「あそこに集まるメンバーを決めているのはお前だと聞いたぞ」
「確かにそうですが」
「いやならあの席に集まるのはやめろ」
「オレはこの店のことを思ってあそこに集まっているつもりです」
「店のため? 本気で言っているのか?」
「そうです。オレたちみたいなのが大勢いたら、一般の客は入って来にくいでしょう」
「だったら、そもそもお前たちが店に来なければいい」
安西は俺をにらみつけた。俺が二宮を横目で見ると、彼女は困惑した顔で俺たちの様子を見ていた。
「そもそも、この店で席の料金なんて取ったことないでしょう」
「金額はもう俺が決めた」
「払う必要があるとは思いません」
「だったら奥の席には集まるな」
「何処に座ろうと勝手でしょう」
「ここは俺の店だ。そのルールは俺が決める」
安西はもう何も言わずにパーティションの中に入っていった。そして他のメンバーが見つめる中でそこに座った。俺は安西の後ろに立つと、低く抑えた声で言った。
「そこには座るな」
安西はやはり何も言わなかった。俺は安西の後ろ襟をつかむと、その体を引っ張り上げた。そして片手にぶら下げたままパーティションの外に出て、床に安西を投げ落とした。店内は静まり返っている。
予定では、屈辱的な扱いをされた安西が立ち上がって俺に組み付いてくる。俺はそれをあっさり振り払って再び床に転がし、最後は足で踏みつける。そうなれば周りから俺をとめようとする声が掛かるはずだ。
「やめてください! どうしたんですか?」
予想より早く声を上げたのは二宮だった。
「おかしいですよ、安西先輩」
……安西?
「どうして店長さんの話を最後まで聞かないんですか? いつのも安西先輩じゃないです」
ちょっと待て。今の会話を聞いていてそう思うのか? 二宮が俺に肩入れしてくれるのは嬉しいが、その態度は公正とは言えないだろう。
「そうですよ、安西さん。どうしたんですか? いきなりケンカ腰で」
「湊河さんがちょっと意外なことを言ったからって、普段の安西さんならこんなことしないでしょう」
安西グループのメンバーまで、安西に非があるようなことを言い出した。
「すみません、湊河さん。お金ならおれが代わりに払います。いくらですか?」
「いくら?」
金を払うという筋書きを考えていなかった俺は、言葉を詰まらせた。
「金額を決めたんじゃないんですか?」
「やっぱり本気でお金を取る気なんてなかったんじゃない。変だと思った」
葉山が俺に突っ込み、黒川は他のみんなに調子を合わせている。
「だいたい『店のためを思って』なんて、普段の安西さんなら絶対言わないよ」
「そう言うなよ。たまには安西も冷静じゃないときがあるさ」
俺が予期しない状況に戸惑っている間に、安西は立ち上がっていた。
「すみません、湊河さん。オレがどうかしてました。最後まで話を聞かせてください」
「ああ。……詳しい話は後でしよう」
「結局、オレが自分の株を下げただけでしたね」
「すまなかった。しかし俺のどこが悪かった?、いや、悪くなかった?」
「日頃の行いが物を言うんですよ」
「それで納得できる話か?」
「まあ、俺はあんな風になると思ってました。湊河さんもこれで理解してもらえましたよね。あんな方法じゃ無理があるって」
俺に予想できなかったことが、安西にはできていた。つまり安西の言う通り、この方法では駄目なのだ。
「あの動画を二宮に見せるというのはどうだ?」
「二宮さんの友だちにはもう見せましたよ。見せた直後はともかく、今では彼女たちも湊河さんをすっかり信用しています。それなのに、動画で二宮さんの心が離れると思うんですか?」
「……下手に考えずに、安西の意見に従った方が良さそうだな。どうするのが二宮にとって一番良いと思う?」
安西はしばらく考えて、それから俺に質問をした。
「湊河さんがここからいなくなった後、この店はどうするんですか?」
「処分するつもりだ。だがお前が継いでくれるなら任せてもいいぞ。どうせ身寄りはないんだからな」
「それなら二宮に任せませんか?」
それは俺も1度は考えていた。二宮はこの店が好きで、今の仕事にやりがいも感じている。安西や他の客も彼女の支えになってくれるだろう。だがそうすると決められなかった理由がある。
「ここにいたら俺のことを忘れるのは難しいだろう。それが二宮を縛り付けることにならないか?」
「ああ見えて、意外と二宮は気丈なところがありますよ。この前の屋上の騒ぎでも、手すりの外で船橋と激しく口論していたそうです」
その行動は俺が思っていた二宮のイメージとは違っていた。
「湊河さんが落ちるところを見た時も、悲鳴1つ上げなかったそうですよ」
「そうなのか?」
「いえ、心配していなかった訳じゃないですよ? その後で湊河さんに会ったとき、それまでとは別人のように喜んでいましたから」
「それは知っている」
「まあ、いきなり湊河さんが現れたので混乱していたってこともあるでしょう。それがまた自分から飛び降りたんですから、現実だと思えなかったのかもしれません。思い出して見ると、二宮さんは何かぼうっとした感じでした」
「そんなに気を使わなくていい。俺にとっては悪い話じゃなかった」
妹の死を思い出しただけで卒倒しそうになった頃とは、二宮もずいぶん変わったようだ。それも俺が望んだように。
今では多くの人が彼女の心を支えているんだろう。そう思うと俺の気持ちが急に軽くなった。そのことで逆に、俺がどれだけ二宮のことを気にかけていたのかに気が付いた。




