勇気 - 二宮透花
あたしが店長さんと会ってからまだ1ヶ月も経っていない。それなのに、店長さんと会う前のあたしがどんなだったのか、今のあたしにはよく思い出せない。あたしは何を恐れていたんだろう? どうして自分から何もしなかったんだろう?
あたしがどうにもできないと思い込んでいたことを、店長さんは何でも無いことのように解決してしまう。こんな言い方をしていても、店長さんがしてくれたことをあたしが軽く考えてるわけじゃない。あたしの店長さんに対する気持ちは、感謝という言葉だけではとても言い表せない。
この気持ちは恋なんだろうか。そうだとすると、あたしのサンズイさんへの気持ちは初恋だったんだろうか。
あたしの店長さんへの気持ちは、サンズイさんへの気持ちと同じところがある。あたしはサンズイさんに色々教えてもらったり優しくしてもらえたのが嬉しかった。店長さんにも同じことを感じている。
だけど店長さんの場合は、それ以上にあたしが店長さんに何かをしてあげたいと思っている。あたしがしたことで店長さんを喜ばせたい。だからあたしはお店の仕事を頑張りたくなる。
あたしは今、毎日が楽しくて仕方がない。特にお店で働いているときが一番楽しい。まだこの仕事に慣れていないあたしには、覚えたり練習したりしなくちゃいけないことが一杯ある。あたしのそういう努力を店長さんはちゃんと見てくれている。上手くできれば褒めてくれるし、失敗すれば慰めてくれる。
帰ってきたお父さんにその日にあったことを話すのも、あたしにとって楽しい時間になった。
あたしが嬉しいと思ったことを自分のことのように喜んでくれる人がいれば、体験した時とそれを話した時の2回、その気持ちを味わうことができる。あたしは今までそんなことも知らなかった。
あたしが気付かなかったことを、お父さんに教えてもらえたこともあった。
お店の休業日に、厨房やカウンターに置いてある物を、配置換えすることになった。今お店でよく使っている物と、そうじゃない物と分けようという話だった。
その日あたしがお店に行くと、店長さんが手を痛そうにしていた。店長さんはただの突き指だと言ったけど、あたしは店長さんに休んでもらうことにした。あたしに持てないくらい重いもの以外は、店長さんの指示に従ってあたしが全て移動させた。
場所を入れ替える時は、鍋やフライパンはコンロの上に、食器は料理を並べる作業台に、必ず一度置くようにと店長さんから言われた。なかなかいい場所が決まらなかったみたいで、店長さんはあたしに何度も場所を入れ替えさせた。
次の日にお店に行くと、あたしが最後に置いた場所とは色々な物の配置が変わっていた。コップやトレイを入れる棚、掃除用具の入った棚は、あたしの手が届かない高い場所に移動していた。いつも使っている踏み台が見つからなくて、お客さんへの対応は店長さんに任せっきりだった。
あたしはそのことで店長さんに申し訳ないと思った。それに前の日に運んだことがムダだったみたいで少しがっかりもしていた。でも、あたしからその話を聞いたお父さんの意見は違っていた。
「それはたぶん、掃除や接客は自分に任せて調理に専念しろということじゃないかな」
「……そうなの?」
「それと鍋や食器をお前に動かせたのは、お前が使いやすい位置を確認するためだろうね」
そう言われて、いつもは調理のときに使っている踏み台が、今日は一度も必要じゃなかったことに気がついた。それだけじゃなく鍋や食器を動かすのも楽になっていた気がする。時間に余裕ができた分だけ、その日は丁寧な仕事ができたと思う。
あたしはプロの人と違って、料理を作るのが早くない。注文が重なった時には、焦って見た目の良くない料理を出してしまうことがある。店長さんは少しぐらい待たせてもかまわないと言うけど、あたしはあたしの料理をお客さんに気持ちよく食べて欲しい。
失敗して落ち込んでいるあたしを見て、店長さんは助けようとしてくれた。でもお父さんの言われるまで、あたしはそのことに気付いていなかった。それどころか、あたしのした配置換えがムダだったように思えて、少しだけどがっかりしていた。
「あたし、明日は店長さんに謝らないと」
「いや、それは止めておいたほうがいい」
「でも――」
「彼なら、お前がそんな風に申し訳ないという気持ちになることを嫌がるだろう。だから鍋とかを並び替えた時に、お前のためだと説明しなかったんだ」
「だったら、どうしたらいいの? ずっと嬉しそうにしてたらいいの?」
「お前が本心から嬉しいと思っているなら、その通りだな。お前だって彼には、謝られるより喜んでもらったほうがいいだろう?」
お父さんの説明は、あたしが素直に納得できる話だった。
学校での生活も、以前に比べて穏やかな気持ちで過ごせるようになった。失敗があまり怖くなくなると、クラスメイトにも話しかけられるようになった。あたしと話してイジメに巻き込まれることを気にしていた子たちも、短い会話ならしてくれるようになった。
少し前、配布用の資料を両手に持って2人の子が教室に入ってきた時、あたしは避けきれずにその片方とぶつかった。
「ごめんなさい」
資料を落としたその子、藤沢さんに謝られたあたしは、家で何度も練習した丁寧なお辞儀を彼女に返した。藤沢さんが少し驚いた顔であたしを見ている間に、あたしは足元の資料を拾い始めた。すぐに藤沢さんも一緒になって拾い集めてくれた。
「ありがとう」
あたしは笑顔で藤沢さんにそう言った。
「ううん、こっちこそ」
藤沢さんは、ちょっとぎごちない笑顔であたしに答えた。それからあたしは、藤沢さんと挨拶を交わせるようになった。
ママと心を通じ合えた今のあたしなら、お辞儀じゃなくて、これまでどうしても言えなかった言葉で謝ることができる。でもあたしには、その言葉を最初に言いたい相手がいる。
店長さんと約束した通り、今度はあたし1人でサキちゃんと仲直りしないといけない。でもサキちゃんにいう言葉をあたしはまだ見つけていなかった。あたしは彩花が死んだことでまだ自分を許していなかった。
でもそれを理由にして、サキちゃんと話をしないのは間違っている。失敗してもいいから、サキちゃんがあたしのために苦しまないように努力する。
自分に言い訳をして何もしないあたしを、店長さんは望んでいない。そしてあたしも自分を変えたいと思っている。
「店長さん」
「ああ、二宮。今日は店を休むんじゃなかったのか?」
「店長さんに会って、勇気をもらいに来ました」
店長さんはあたしの言葉にうなずいた。
「……そうか。謝りに行くんだな。二宮がその前に会いに来てくれてほっとしたよ」
「どうしてですか?」
「俺は二宮のお母さんに酷いことを言ったからな。お前にだってお母さんが来ると言わずにわざと嫌な思いをさせた。二宮なら俺の意図を理解してくれるだろうけど、少しは嫌われても仕方ないと思っていた」
「……あたしが店長さんを嫌いになるわけないです」
「そうか、ありがとう」
「嫌われても仕方ないって思いながら、あんなことを言ったんですか?」
「俺は単純に二宮にとって良いと思ったことをした。一番大切だと思ったこと以外にも配慮するのが、俺は下手なんだ」
その言葉を聞いて、あたしは胸の奥がじ~んとした。誰かに嫌われることを気にするより、誰かを幸せにすることを店長さんは優先させた。あたしがサキちゃんにどうしたらいいのかも分かった気がした。
「……欲しかったものをもらえました。いってきます」
「二宮の気持ちが上手く伝わるといいな」
サキちゃんの家の前で彼女が帰ってくるのを待っていると、急に雨が降ってきた。傘を持っていなかったので、隣りの家の軒下に入って待ち続けた。
しばらくしてサキちゃんが帰ってきた。傘を深く差していたので、あたしには気付いていないようだった。そのまま門から入ろうとしたサキちゃんに、あたしは後ろから近づいて声を掛けた。
「葉山さん」
振り返ったサキちゃんは、少し驚いた顔をしてから、あたしにまっすぐ向き直った。
「何か用?」
「ずっと昔のことだけど、あたしどうしても葉山さんに言いたいことがあるの」
「昔?」
「あたしと葉山さんが友だちだったころ」
「……そう。言いたければ言えば。あなたに何を言われても私は平気だから」
サキちゃんはそう言うと、あたしの次の言葉を待った。あたしはサキちゃんに頭を下げながら言った。
「ごめんなさい、サキちゃん。心配してくれてたサキちゃんに会おうとしなくて」
そう言ってから少し待ったけど、サキちゃんは何も言わなかった。
「あの時のあたしは妹の彩花を死なせた自分が許せなかった。サキちゃんといて楽しい気持ちになるのが、いけないことだと思ってた」
あたしが言葉を続けても、やっぱりサキちゃんは黙ったままだった。頭を上げてサキちゃんを見ると、彼女はあたしに背中を向けていた。そのまま玄関に入ってしまうのかと思ったけど、サキちゃんはその場を動かなかった。
「サキちゃんがあたしの事故のことをみんなに話した後で、彩花が死んだのはあたしのせいだってうわさが立った時、サキちゃんは違うと言ってくれたんでしょう? でもあたしはそのうわさが正しいと思って何も言わなかったから、サキちゃんもそれ以上は言えなかった」
その時、サキちゃんは小さな声で何かを言った。あたしには聞き取れない声だった。
「あたしに責任がなかったとは今でも思わない。でもね、それであたしが自分を責めて、辛い目に合っても仕方ないと思ったのは間違いだった。間違いだと教えてもらった。あたしがそう思ったから、周りの大切な人にも悲しい思いをさせてたの。……サキちゃん。だから、ごめんなさい」
サキちゃんはやっぱり何も言わなかった。あたしの耳には微かな雨音だけが聞こえていた。その時突然、サキちゃんの前にある玄関のドアが開いた。出てきたのは年を取った女の人だった。
「あら、サキちゃん。帰ってたの? おばあちゃん、ちょっとびっくりしたわ。……どうしたの、サキちゃん? 泣いてるの?」
サキちゃんはゆっくりとあたしに向き直った。その頬には涙が流れていた。サキちゃんの手から傘が落ちた。そしてサキちゃんはあたしを抱きしめた。
「その子、お友だちなの?」
サキちゃんはあたしを抱きしめたまま、何も言わずに頷いた。あたしもサキちゃんを抱き返した。
「あら? その子、濡れてるじゃないの。早くお家に入ってもらいなさい」
サキちゃんが貸してくれた着替えは少し大きくて、サキちゃんのおばあちゃんがサキちゃんの昔の服を出してきてくれた。サキちゃんの部屋で、あたし達はいろんな話をした。
どうしてあたしがこんな風に変われたのかを説明した。そのために、店長さんがあたしにしてくれたことも、全部じゃないけど説明した。
サキちゃんはまだ店長さんのことが少し怖いようだった。動画で見た店長さんは、後で夢に出てくるほど怖かったそうだ。どんなに怖い店長さんでも、あたしなら夢に出てきてくれたら嬉しいのに。
サキちゃんが今好きなもの、音楽や服や芸能人とかも教えてもらった。あたしが何も知らなかったので、サキちゃんは呆れた顔をして、その後少し悲しそうな顔になった。あたしもサキちゃんに料理や小物づくりの話をした。
「ごめん。好きなものが違うのって、当たり前よね」
ちょっと安心したような顔で、サキちゃんはそう言った。
サキちゃんの部屋には、前にあたしから取り上げたマスコットが飾ってあった。あたしはサキちゃんにそのマスコットを返してもらった。ちゃんと仕上げが済んでから、もう一度飾ってもらうことになった。




