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記憶

 二宮がこの店に来てから初めての土曜日。今日は開店の2時間前、午前9時から二宮に来てもらった。喫茶店のメニューを幾つか復活させたいという、彼女の意見を検討するためだ。


「まず簡単に作れるものだな。前に作ったサンドイッチとか」

「準備をしておけば調理時間が短くて済むもの。カレーとかですね」

「ああ。よそうだけなら俺にもできる」

「でも、カレーと言っても色々ありますよね。どんなのがいいんでしょう」


 二宮はアゴに親指と人差し指を当てて考え込んだ。いかにも考えてますという、ユキがよくやっていたポーズだ。


「二宮が家で作ってるカレーはどうだ」

「市販のルーを使ってるので、お店のカレーとしてはどうでしょう」

「昔のレシピ帳ならあるぞ。母がこの店を経営してた時に書き溜めたものだ。見てみるか?」

「見せてもらってもいいんですか? ……あの、お母さんは今?」

「車の事故で死んだ。他の家族もだ」


 俺がこの話をすれば、二宮は俺を気遣う表情になるだろう。それに対して俺が『いいんだ。気にするな』と言う。そんな二宮とのやり取りを俺は予想していた。

 父さんやユキのことをついでのように言い足したのは、同じことをまた繰り返すのが嫌だったからだ。しかし二宮の見せた反応は俺の予想を超えた激しいものだった。


 二宮は目を見開いて俺を見た。そのまましばらく固まったように動かなかった。やがてその目に涙が浮かんだと思うとたちまち溢れ出した。やがて彼女の口が開いた。


「……う」


 二宮は声は言葉にならなかった。漏れた嗚咽を止めようとするように彼女は両手で口元を押さえた。顔を伏せた二宮の肩はよく見るとかすかに震えていた。


 このショックの受け方は普通ではない。俺の言葉が彼女自身の辛い経験を思い出させたのだろう。それ以外の理由が俺には思いつかなかった。俺は彼女の小さな肩に手を置いて、自分なら何と言って欲しいかを考えた。しかし何も思いつかなかった。


「……大丈夫です」


 二宮はくぐもった声でそう言うと店の奥へ行こうとした。その時、彼女の足が何かに当たった。足元にあった容器が倒れて掃除用の黄色いワックス液が流れ出した。慌てて容器を戻そうとした二宮の靴がこぼれたワックス液を踏んだ。


 二宮の動きが止まった。こぼれて広がっていくワックス液を見つめている。彼女の体がゆっくりと傾いた。俺は急いでその体を抱き止めた。


「あ……あ、あ、あああああ」


 悲しいような、苦しいような、訴えるというより漏れだしたような声だった。全身が細かく震えていた。俺はその震えを止めるように、彼女の体を抱きしめた。




 二宮の声が途絶えてその体から力が抜けた後も、俺は彼女の体を抱きしめ続けた。手を緩めると彼女の体は滑り落ちてしまいそうだった。二宮が自分の脚で立てるようになるのを待った。俺の体重の半分もない彼女の体を支えるのはたやすかった。


 二宮の鼓動が俺に伝わっていた。彼女の鼓動は俺の鼓動よりかなり早かった。俺は誰かを気遣うときに感じる暖かい気持ちを思い出した。

 時間が経つにつれて彼女の鼓動は早く強くなっていった。体温も最初よりかなり上がっているような気がする。俺は心配になってきた。


「二宮。大丈夫か」


 俺が声をかけると、腕の中で二宮が体を動かした。


「気が付いたのか? 二宮」


 二宮が自分で体重を支えて、俺の感じている重みが軽くなるのを待った。しかしなかなかそうはならなかった。


「あの……、降ろして」


 そう言われて初めて、俺は二宮の足が浮いていることに気付いた。すぐに腕の力を緩めると、数センチ滑り降りた彼女は自分の脚で立った。俺は彼女を近くの椅子に座らせた。


「二宮。お前も事故で大切な人を失ったのか?」


 俺の口から自然にその言葉が出た。その後で、二宮は聞いて欲しくないかもと思いついた。


「言いたくないなら言わなくていい」

「……うん。……大丈夫。あたしの妹は車に轢かれて死んだの。あたしが……」


 二宮は言葉を続けようとして、途中で口ごもった。


「詳しい話はいい。俺でもあの時のことは人に話したくない」


 俺がそう言うと二宮は俺の顔を見上げた。そこで初めて、彼女の顔は見事なほど真っ赤になっていることに気付いた。目が少し潤んでいる。俺に抱きしめられていたのが恥ずかしかったのだろう。

 今になって気付いたが、抱いている時に鼓動が早くなっていったのはそのためだった。変な考えが無かったことは断言できるが、放っておくと彼女との関係を悪くしてしまうかもしれない。


「二宮。俺にも兄弟がいたんだ」

「……いた?」

「父さんや母さんと一緒に……、ああ、そんな顔はしないでくれ」


 悲しみが羞恥心に勝ったのか、彼女の顔の火照りは急に治まっていた。


「ユキと俺は仲が良かった。赤ん坊の頃はよく抱っこをしてやっていた。もう少し大きくなってからも、背負ったり肩車をしたりとスキンシップは多かった。二宮と初めて会った時に、俺はそのユキによく似てると思った」

「……ユキ?」

「ああ、俺はいつもそう呼んでいた。見た目もそうだが、二宮とユキは一緒にいて感じる雰囲気も似てる。だから俺は、二宮とも上手くやれるんじゃないかと思っている」


 二宮は俺を確かめるかのようにじっと見た。


「……そうなんですか。わかりました。よろしくお願いします」


 俺が二宮を抱きしめたのは肉親を思うような気持ちからだった。それは二宮にも納得してもらえたようだ。

 もしかすると自分で思っている以上に、俺は二宮にユキの面影を重ねているのかもしれない。誰かの気持ちがこれほど気になったのは、あの事故から初めてだった。




 開店後に顔を出した安西に、俺と二宮で決めたメニューの材料を調達してもらうことにした。俺が紙に食材のリストを書き出している時、二宮が俺の手元をじっと見つめていた。


「何か足りないものがあったか?」

「いえ、そういうことじゃなくて。特徴的な字だなと思って」

「確かに湊河さんの字は特徴的ですね」

「俺の字は下手だが、読めないことはないだろう」

「いえ! 違います。そういう意味じゃありません」


 リストを受け取った安西が出かけていった後、二宮は何か考え込んでいる様子だった。


「ちょっと待っててください」


 そう言うと、二宮は倉庫の方へ行った。戻ってきた彼女の手には保護フィルムに挟まれた一枚の紙があった。そこに書かれた文字を見て俺はようやく思い出した。


「あの時の子か」

「そうです。ありがとうございました」

「いや。礼を言う必要はない。二宮を助けたのは俺じゃないんだ」

「え? ……でも――」

「あの時に救急車を呼んだのは別の人だ。俺はたまたまそこにいただけだ」

「でも、……この字は店長さんの字ですよね」


 俺はあの時に何をしたのかを説明した。


「わざわざ病院へ? ……でも、その時はもう夜でしたよね。生まれるのを待ってからあたしのいる病院へ行って?」

「まあ、そうだ」

「そんなにすぐに生まれたんですか」

「そうだな。3時間くらいだったかな」

「3時間も!?」

「短いだろう。ユキの時は半日ぐらいかかった」

「それって、救急車を呼ぶよりずっと大変ですよね」

「別に何か用事があったわけじゃないからな。俺が勝手に気になってしたことだ」

「あたしには嬉しかったんです。……今の話を聞いてもっと嬉しくなりました」


 二宮はそう言うとフィルムに挟んだ紙を大切そうに撫でた。そして俺にもう一度笑顔を見せた。さっき抱きしめてから、俺は二宮の態度にはぎごちなさを感じていた。だが今は彼女からすっかり緊張感が消えていた。




 俺がリストに書いた食材が多すぎた。一度戻ってきた安西は、買ってきた物を店に置くともう一度出かけていった。その食材を確認している間に二宮は俺と何度か肩が触れた。昨日までと違って、彼女はそれを全く気にしなかった。


「安西先輩って、店長さんのお友達なんですか?」

「安西は俺にとって最初の客だ。友達かどうかはあいつに聞かないとわからないな」


 振り返ってみれば、もう一年以上のつき合いになるのか。


「店長さんはどう思ってるんですか?」

「そうだな。……少なくとも俺にとっては友人だな。二宮に言われるまで気付かなかった」


 だがそうなると、俺が犯人を殺したときに安西が何か不利益を被らないか心配だ。友人に人殺しがいると聞いたら、少なくとも印象は良くないだろう。

 ……だとすると、人殺しの店で働いていたという経歴はどうなる? 二宮の人生に悪影響はないのか。


「二宮。この店を辞める気はないか?」

「え?」


 二宮は一瞬驚いた顔を見せて、やがてその表情がみるみる曇っていった。


「あの……、あたし、何か?」

「いや! ……急に辞められたら困るなと思ったんだ。二宮にも事情はあるだろうが、そういうことがあるなら早めに言ってくれ」

「ああ、そういうことですか! だったら大丈夫です」


 二宮に笑みが戻った。俺も安心した。たまたまバイトしていた店の店長が人を殺して自殺したというだけだ。彼女が自分から話をしなければ、他人が気にしたりはしないだろう。


「安西の話だったな。あいつが来るようになってから客がどんどん増えていった。不味いコーヒーしか出さない店だから、なぜ増えたのか未だにわからない」

「安西先輩は知ってるんですか?」

「一度尋ねてみたが、『店長の人徳ですよ』としか言わなかった」


 何か言いたくない事情があるなら、無理に聞こうとは思わない。


「わかる気がします」

「そうか?」

「あたしがここにいるのも、店長さんの人徳です」

「……そうか」


 ほかの客はともかく二宮は俺に親しみを感じてくれているようだ。そんな二宮と話をしていると俺の気持ちは少し暖かくなる。


「この店のお客さんって、お互いに仲が良いですよね。その中心が安西先輩なのかなって思います」

「そうだな。たまに騒々しい客が来ることもあるが、安西が上手く治めてくれている」

「それって、この前のあたしたちみたいに……ですか?」


 二宮は申し訳なさそうな顔をした。


「いや。騒々しい客というのはあの程度のものじゃない。気にするな」

「……はい」

「安西だってそんなに敵対的じゃなかった。いつものあいつならもっと辛辣な話し方だ。いつも見せている動画だって、最後まで見せなかった」


 そう言うと、ようやく二宮は安心した表情になった。


「気になっていたんですけど、あれって、何の動画なんですか? 誰かがケンカしている動画って聞きましたけど」

「安西が見せたやつか? 直接見たことはないんだ。俺がケンカをした時に、誰かがそれを撮った動画みたいだな」

「ケンカ!? 店長さんが? 大丈夫だったんですか?」

「3ヶ月ほど入院した。この傷もその時だ」


 そういって俺は自分の頬の傷に触れた。二宮は絶句していたが、やがてその顔色が青くなった。


「ケガで3ヶ月って、死に掛けたんじゃないですか!」

「いや。重症であって重体じゃない。治りにくいところが壊れたんだ。リハビリも込みだ」


 事件のあった当時は重体と報道したメディアもあったが、実際には命の危険とまではいかなかった。二宮には俺の話がすぐには理解できなかったようだ。少し考えた後で、彼女は顔を引き締め直して言った。


「重症でもダメです! それにわざと重症になれるんですか? 運が良かっただけじゃないんですか!」

「それからは、そんな大きなケンカはしていない。それに今の俺なら、同じ状況でもケガをせずに済ませられる」

「本当ですか? そうは言っても、店長さんの話し方だと相手を説得できずに怒らせちゃうんじゃないですか?」

「ケガをせずに済ませるっていうのは、その前に相手を無力化するってことだ。あの頃は俺もまだ未熟だったからな」

「それじゃダメです! 相手が刃物とか持ってたらどうするんですか」

「どう対応するかは相手次第だな。だが、もう素手で刃を握ったりはしない」

「素手? ……えっ!」


 二宮は俺の右手をつかむと、手のひらを凝視した。


「握ったのは左手だ」


 あわてて左手につかみ替え、また手のひらを凝視した。


「もう治ってるよ。中途半端に握るとまずいが、思い切り握れば切れるのは皮膚だけだ」

「なんて無茶するんですか!」


 俺を見上げた二宮は涙ぐんでいた。彼女をかなり心配させてしまったようだ。このような話は彼女に言うべきではなかった。


「あ~。……悪かったな」

「あたしに謝っても。……悪かったって、もしかして冗談だったんですか?」

「冗談? ……ああ、そうだな」


 怒るかと思ったが、二宮は逆に安心したような表情になった。


「そうなんですか。あっ」


 二宮は強く握っていた俺の手をあわてて放した。


「あたし、そういう冗談がよくわからなくて」


 二宮の顔は少し赤らんでいた。そのまだ涙で潤んだ目を見ると俺は彼女に対して申し訳ない気持ちになった。安西たちと違って二宮には、この類のことは話さないようにしよう。

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