「小説家になろう」は小説家のタマゴの集まりだ。なのになぜ小説の書き方ではなくサイトの傾向ばっかりグチるのか?
みなさん、お元気ですか?
横須賀のナイチンゲールことウツロです。
タイトルこそグチを批判するような物言いだが、そのつもりはなかったりする。
わたし自身グチに同意する部分もあるし、実際エッセイで書き散らかしたこともある。
たんになぜ小説の書き方について意見を交わさないの? と投げかけてみたかったのだ。
小説のサイトにもかかわらず書き方が述べられないのは、いくつか理由が考えられる。
メンドクサイ。興味がない。人称とかよく分からない。すでにあるから。
あとは意見が対立してモメるのがイヤ、などだろうか。
じっさい文章の書き方について意見をぶつけ合うのは、野球や政治を論じるのに似てると思う。
自分が正しいと信じて曲げない者同士、衝突しないワケがない。
とはいえ、野球のサイトで野球の話をしない。政治サイトで政策そっちのけで読者と投稿者の傾向を語ってばかりいたらおかしいだろう。
なので小説について少し述べたいと思う。
小説を書くにはまず人称を決める必要がある。
人称には大きく分けると一人称、二人称、三人称がある。これがなきゃ小説の形にならない。
じゃあ、人称とはなんぞや? 誰に対してやねん? と疑問がわく。
人称とは語り部だ。語り部の立ち位置を決定するもの。
すなわち物語を誰の目線で語るのか? だ。
語り部が主人公なら一人称となり、語り部が主人公に向けて話しているならば二人称(分かりやすいのは誰かにあてた手紙)、それ以外が三人称となる。
そしてこの語り部、物語を描くにおいて守らなければならないルールがある。
『語り部は読者と同じ世界にいてはならない』だ。
これは一部の例外を除き原理原則である。
『同じ世界にいてはならない』ちょっとわかりにくいかと思う。
ようは、語り部は読者を認識してはならない。読者に語りかけてはならないだ。
語り部が読者に語りかける。それはエッセイでみられる形式だ。
物語ではやってはいけない。
ではなぜやってはいけないかというと、視点がブレてしまうから。ブレるととにかく読みにくい。
特に三人称は注意をようする。ただでさえ視点が移り変わる。そこに作者の視点まで混じってしまえばワケがわからなくなる。
映像が頭に浮かんでいる作者なら問題ないだろうが、読者には無理だ。プロセスが逆。文字を映像に置き換えるのだ。かなりの確率で映像構築に失敗する。
もちろん、『同じ世界にいてはならない』には例外もある。
パッと思いつくのは主人公=作者だろう。
自分の体験した内容を文章にまとめた体験記などがこれにあたる。
あとは日記や歴史書をひもといた小説。
誰かが誰かに語りかけ、読者はあたかも自分に向けて語られているように感じるのだ。
ナレーション型もここに分類されるだろうか。
とまあ、ここまで書いたが「小説家になろう」において文章作法にこだわる意味は薄い。
わたしの小説のポイントを見てもらえれば分かるが、そんなもんこだわったところでポイントはつかないのである。
なろうで重視されるのはもっと別のところにある。いかに共感を得るかだ。
いまポイントを稼いでいる人はそのままで、これから書こうという人は小説作法なんてシチメンドクサイことなど考えず、思いの丈をぶちまけてやればいい。その方が結果はついてくる。
「読者は面白そう」に敏感である。
面白いではなく面白そうだ。
グチグチ悩んだ作品より、作者が楽しんで描いているものの方がより「面白そう」に見えるに違いないから。
ただ、中にはすでに何作も書いている人もいるだろう。
思うようにポイントがつかないと悩んでいる人も多いだろう。
自分の作品は面白くないのか? なんて弱気になったりもするだろう。
そんなときはこう考えてみてほしい。
面白くないのではなく、面白さが伝わっていないのだと。伝え方に問題があるのだと。
大丈夫。君の作品は面白い。たんに伝える技術がたりなかっただけだ。
小説作法を勉強すればいい。人称を学べばいい。
小説作法とは技術である。偉大な先人が残した財産だ。
君の面白いに手をつけず、読者に伝わりやすくする唯一の方法である。




