表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四天王  作者: シュガーイーター
ライオネル・ソウル編
14/34

襲撃前夜

もし何かミスがあれば、教えていただけたら幸いです。



2018,2,16  改行作業、加筆修正を行いました。

『――速報です。先ほど東京プラザホテルで起きた爆発による火災は鎮火されつつあります。被害者はまだ分かっておらず、爆発の起きた五階の部屋には十四名の外国人観光客が宿泊しており、現在、消息がつかめておりません。

 警察は、今回の事件をガス爆発と人為的な犯行の両方の線で捜査を進めていく方針で――』



 ホストクラブの控え室。たくさんのホスト達の着替えの入れたロッカーの多く並ぶ部屋でニュースの速報が流れる。

 部屋の中心に折りたたみ可能なテーブルが設置され、壁には女性の裸が写ったポスターや、仕事でのルールなどの書かれた張り紙が貼られている。

 煜は自分用のロッカーの前で仕事用の派手なスーツから私服へと着替えながら、テーブルの上に置いてある携帯で流していたニュースに耳を傾ける。


 間違いなく薫の仕業だ。

 外国人観光客というのは、おそらくは傭兵達。その全員の消息がつかめていないということは、十中八九、薫が全滅させたのだろう。

 あの慈悲のない男が標的とした人間を誰一人として逃がすことはまずありえない。火が完全に鎮火した後、たくさんの焼け焦げた死体が見つかることだろう。


 ――派手にやってんなぁ。


 思わずそう思ってしまう。


 あの男の動きは、喩え十八年の付き合いだとしても完全に把握しきることはない。

 もう少し静かに仕事を終えることも出来たはずだ。何故そうしなかったのかは、煜には想像出来ない。


 その時、ニュースを流し続けていた携帯電話が震えて思考を打ち切られる。

 着信名は千尋だった。


「もしもし?」

『もしもし、俺だ。今、大丈夫か?』

「構わへんよ。丁度あがるところやし」


 煜の返答に、千尋は少し驚いたようだった。


『今日は随分と早いんだな。お前にしては珍しい』

「そりゃ、明日どうせ朝早そうやし? 早く終わらせてもらったんやんか。女のコ達の悲しそうな顔を見ると心痛むわ〜」


 千尋が呆れたようにため息を漏らした。


『はいはい。それはさておいて――」

「俺の扱い酷ないか……?」

『――お前の予想通り明日は早い。午前四時に、会社前に集まってくれ。勿論、戦闘準備を整えてな』


 戦闘準備とは言っても、私服に二振りの小太刀を用意するだけで良いのだから、楽で良い。


「了解や。乗り物()はいりそうか?」

『お前は必要なさそうだが……まぁ、そうだな』


 確かに煜は四天王最速と呼ばれるほどの速度を持っていることは事実だ。

 実は、産まれながらに使える異能なのだが、それでもまだ完璧に使いこなせているわけではないのが自分でもわかる。

 それに、明日の戦闘は煜にとってこの三年の鍛錬の成果を見るためのものでもある。

 自身の嗜むカンフーがどこまで通用するのか、楽しみでならない。

 昼間の傭兵達にはある程度は通じたが、あれ以上の数がいれば、結果もまた変わってくるだろう。


「せや、ニュース見たか? あいつまた派手にやらかしてんで」


 言うと、千尋もそれをわかってか今一度盛大なため息を吐いた。

 煜達を指揮するリーダー的存在でありながら、一癖も二癖もある面々の行動のひとつひとつが彼の悩みの種なのだろう。

 主な原因を作っているのは薫だが。


『まぁ、今回は仕事なんだ。チンピラとの(いさか)いじゃない限り、手段はあいつに一任しているからな。文句は言えない』

「あの狂犬を飼い慣らすんは至難の技やな。あいつの育ての母親は、ようその手綱を握ってたわ」


 まったくだ、と千尋も呆れ混じりの笑い声を上げる。


 レイラから簡単な話を聞いただけだが、苦労はしていたらしいが、毎日が楽しそうだったと千尋の車の中で聞いた。

 薫が楽しそうにしている姿など、ここ数年全く見ていない気がする。

 最後に見たのは、おそらくあの地獄で戦い続けている間だろう。

 ただ、その姿に人間的な様相はこれっぽっちもなかったわけなのだが。


『それじゃ、そろそろ夕飯を作らないといけないからな。切るぞ』

「そんじゃ、また明日やな」


 煜はその言葉を最後に、通話を切る。

 すぐさま着替えを済ませ、その場を後にした。


 店を出て、夜であってもネオンサインの光で昼間のように明るくなっている繁華街を歩く。

 途中、何人か店の常連客とすれ違い、その度に声をかけられては他愛ない話をする。

 皆ニュースを見ているらしく、その大多数が「頑張ってくれ」という応援のものだった。

 そのひとつひとつに明るく応え、そしてその場を後にする。


 世間では、まだライオネル・ソウルは恐怖の対象ではない。

 彼らは政府に対してテロ予告を行っただけで、まだそれを実行できていない。それだけでなく、氷崎グループに襲撃を仕掛けても失敗に終わるという体たらくだ。

 そうなると、人々には特にそれに注意を向けることはしなくなってくる。

 四天王という存在がある限り、なんら危険はないと思い込んでいるのだ。


 ――ええ迷惑やな。


 ただ私利私欲で強くなっただけの者たちを、国が勝手に自衛の手段として祭り上げただけの集まりなのだ。

 それを考えると、自分達だけでなく、何も知らずに守ってくれることが当たり前だと信じて疑わない国民に対してもいい迷惑だろう。


 不意に、煜の腹から空腹を告げる健康的な音が鳴る。どこかで夕飯を買わなくてはならない。

 とは言っても、今いる繁華街での飲食店の値段は高く、今現在の煜の懐事情ではあまり外食という気分にはなれない。

 少し歩けば現実的な値段の店もあるのだが、それよりも近くにコンビニがある。そこで適当に買って食べた方が早く済む。


 その時、どこかから少女の嫌がる声が聞こえた。

 往来を歩く人々は、その声に気づいていないのか特に反応を見せない。

 それも当然だろう。その声はとても小さく、加えて繁華街という騒々しい場所ではその声はかき消されてしまうからだ。

 だが、煜だけは違った。煜はその声に弾かれたように意識を向け、周囲に視線を巡らせた。

 しかし、繁華街を歩く人々の喧騒や、客引きたちの大声の所為で場所の判別が出来ない。


 煜は足を止め、目を閉じて耳を(そばだ)てる。

 耳に入るは往来を歩く人々の声、足音、乗り物の進むエンジン音。そして――


「――めてくだ……い!」


 聞こえた。場所も大体はわかった。


 煜はすぐに声が聞こえた方へと小走りに近づいていく。

 煜の行動基準は女性だ。とにかく女性に何かあれば必ず行動する。

 加えて、基本的に女性には手を上げないという紳士的な思考も持ち合わせている。おかげで、ホストとしての女性ウケは上々。

 しかし、恋愛という点においてはなかなかその先に行かない。

 いったいなぜだろうか?


「おっ」


 煜は不意に足を止める。

 辿り着いたのは、繁華街の裏通りへと続く人通りの少ない場所だった。チンピラが屯しているのをよく目にする。

 そこだけネオンサインの光が届いておらず、薄暗い空間が奥まで続いていく。まるで、そこだけ光が避けているかのようだった。


 煜はその闇の中へと足を進めていく。奥へと進むごとに、男の下卑た笑い声が聞こえてくる。それも、一人や二人ではない。


 ――強姦っぽいな。


 強姦など、煜が最も嫌う行いだった。お互い承諾の元に行うならまだしも、女性の承諾なしに迫るのは万死に値する。

 煜はそう考える。

 当たり前だ。男にとっては欲求の吐き口としてやりたい放題やるだろうが、女からしてみれば女にしか想像できない恐怖を体に刻みつけられることになる。

 世界中の女性にとって、強姦などをする輩はさっさと留置場にでも送られるか、最悪死んでしまえばいいと思っていることだろう。

 そして、そう思ってしまうのも、当然の帰結のような気がした。


「ホントにやめてください! ちょっと離してっ!! 警察を呼びますよっ!」


 女性の声が先ほどよりも大きく聞こえる。距離が近づいている証拠だ。

 だが、その声は思っていたよりも若い。まだ、煜とそれほど歳の離れていない少女のようにも思えた。


 曲がり角に差し掛かり、煜はそこからそっと奥の様子を窺う。


 ――五人か。


 今までよりもさらに薄暗い通りで、男たちが五人群がって下卑た笑い声を上げている。どこかの大学の学生だろう。

 そして、その中心に一人の少女がいるのが見えた。

 身長は平均的なショートカットの少女だ。胸は控えめ――というより、殆ど無いと言っても過言ではない。煜の眼で見て、AAカップだろう。

 体も細く、しかし華奢な雰囲気は微塵もない。何かスポーツでもやっているのだろうか?


 ――ヤバイ、メッチャ好みやわ。


 茶髪で顔立ちは整っており、しかし、そのパーツから日本人ではないように思える。


 少女は先ほどから腕を押さえられ、身動きが出来なくされている。必死に抵抗しているが、そこは男と女。その膂力の差は歴然だ。


 少女の正面に立つ男が、おもむろに履いているカーゴパンツのジッパーに手を伸ばす。

 それだけで、この後何が起こるのかは想像に難くない。

 いてもたってもいられず、煜は飛び出していた。憤然とした様子で、その集団に近づいていく。


「何してんねん?」


 声に反応して、男達の視線が自身に集中する。


「何してるんやって聞いてんねん。その子、嫌がってるやろ」

「テメーには関係ない。痛い目見たくなけりゃ、とっとと消えな」


 男達は豪快に笑いだす。

 対し、少女は煜に涙の浮かんだ眼差しで懇願してくる。助けてくれ――と。

 無論、そのつもりだ。


「ギャーギャー騒ぐな、やかましい。お前ら女を相手に馬鹿やっとるな。アホらし。ホンマ、女の扱いがなってへんわ」

「あァ?」


 煜の挑発に、坊主頭の男が反応を見せる。


「お前、マジで痛い目見たいのかよ?」


 男は額に青筋を浮かべて凄んでくるが、普段から薫の凄みを見ている煜にとってすれば、恐怖の念すら浮かばない。


「ぶっさい(つら)やなぁ。可哀想に。今まで女出来たことないんちゃうか? あぁ、それでこんなことを……。人生棒に振ったな」

「で、出来たことぐらいあるっ!」

「あ、そう? それはおめでとう。良かったなぁ、そんな面でも好いてくれる心の優しい子がおって」


 煜の挑発を受け、男の肩が憤りで震え出す。

 だが、それ以上の怒りを煜は抱えているのだ。自身を罵倒されての怒りなど、煜のものに比べれば軽い。

 いっそ、感情に任せてこの場にいる男達を全員殴り飛ばしてやろうかとも思ってしまうほどだ。


「おい、テメー舐めてんのか?」


 男の手が煜の胸ぐらに伸びる。

 その刹那、煜の裸拳が反射的に男の鳩尾に突き入れられる。

 ビクッ、と男の身体が震えると、その場にくずおれる。


 武術家は幾度となく訓練している技術を反射的に使ってしまうことがある。それを理性で抑え込むことが可能なら、なかなかの手練れだと言える。

 だが、鍛え始めて未だ三年しか経っていない煜には、まだ難しいことだった。


 ――薫の修行、こういう時に難儀やな……。


「すまん、反射的に拳が出たわ」


 簡素な詫びを入れておき、蹲る男を跨いで残る四人に近づく。

 男達はそれぞれ憤怒の形相でこちらに向き直る。だが、ただ一人、何か引っかかることがあるのか、煜の顔を見て考え込んでいる様子だった。

 それもすぐに振り払ったらしく、仲間達と同じように煜と対峙した。


「テメェ、いい度胸じゃねーか!」

「覚悟はできてんだろーな!?」

「お、落ち着きーや。暴力はあかん」

「どの口が言いやがる! 先に手を出したのはそっちだろ!」

「いや〜そこ言われるとぐうの音も出んわ」


 自嘲混じりの乾いた笑みが浮かぶ。


 チラリと横目で少女を見やる。少女はその場にへたり込み、呆然と目の前の状況を目に焼き付けている。


「悪いとは思ってんねんで? これホンマや」

「うるせえ! 今更泣いて謝って、遅いんだよ!!」


 男が拳を硬く握り締め、大振りの一撃を放つ。

 だが、煜はそれを簡単に躱す。そのまま男の足の進行方向に自身の足を置き、男はそれにつまづいて転んでしまう。


「せやから、落ち着けって」


 煜は再度男達を嗜めようとするが、男達は既に頭に血が上り、一人、二人と攻撃してくる輩が増えてしまった。


 ――あかんわ、これ。


 煜は肉薄する肌色の雨霰を躱しながらそう思う。

 こうなると、何を言っても耳に入るまい。

 少女を連れてこの場から退散すれば、一番平和的に解決出来そうなものだが、今転ばせた男が背後に立ち退路を塞いでしまっている。

 どうやら、逃がすつもりはないらしい。


 煜は一度、小さくため息を吐くと、仕方なしに構える。

 足を前後に、後ろ足である左足を軸に重心をかけ、右足にも少し重心をかける。更に、右足の膝を少し高くする。手は共に開手に、右手を少し突き出し、左手を掌を相手に向けつつ胸の前に。

 中式の構え。柔軟性があり、よくカンフーの自由組手でも用いられる構えだ。


 対多人数の戦闘は、煜は昼間の傭兵達が初めてだった。だが、翌日にあるライオネル・ソウルとの戦闘の為の練習だとでも思えばいい。

 そして、技術でも、威圧感でも目の前の男達が傭兵達に敵うはずもない。


 男達は煜が構えたのを見て取ると、途端に怯えたように後退る。

 全く乱れのない、よく洗練された構えに男達が気圧されたのだ。

 だが、それで穏便に事を済ませるかは別問題。これだけで、憤った男達が止まるはずがない。

 案の定、煜から見て左側の男が攻撃を仕掛けてきた。


「ウオラァッ!!」


 煜は即座に反応。突き放たれた右拳を、腰を捻ってそちらに向き直り、素早く足を踏み変える。左手で内から外へと攻撃をブロックし、同時に男の人中に突きを放つ。

 まともに煜の突きを受けた男が激痛に悶えて反撃不能になるや否や、右側に立っていた男が、どこから取り出したのかメリケンを拳にはめ、大振りの一撃を放ってきた。

 煜は特に焦る様子もなく、落ち着いて対応する。

 上体を反らして拳を躱し、ガラ空きになっている脇腹に強かな横蹴りを叩きつける。


「ぐぅっ!?」

「クソが!」


 一人、また一人と仲間が倒され、背後にいた男が煜の体を後ろから羽交い締めにし、身動きを取れなくされる。


「やれ!」

「うおおおおっ!!」


 煜の体の自由を奪っている男が合図すると、正面に立つ男が裂帛の気合いを顕に肉薄する。


 ――メンドくさッ!


 煜は体重を下げ、腰を捻ると同時に背後の男の脇腹に肘鉄を叩き込む。更に同時に男のつま先も踵で思い切り踏みつけた。


「ぐあっ!?」


 拘束が緩み、僅かな自由を取り戻すと、煜は背後の男に背を向けたまま体当たりを仕掛けた。

 その勢いにより、男の拘束が完全に外れ、僅かにたたらを踏んで後退る。


「死ねやぁああっ!」


 男がナイフを手に、肉薄する。


「チッ」


 鋭く舌打ちをすると、刺突を腕で円を描くように受け流した。そして、ガラ空きになった腹部に一撃を拳を放ち、同時に男の隣に立つ。

 小さく呻いた男だったが、すぐに体制を立て直そうと正面を向き、その場に煜がいなくなったことに気づいたがもう遅い。

 煜は男の膝裏を強く蹴りつけて片膝立ちにさせ、


「ホァアッ!」


 体制の低くなった男の側頭部――こめかみに拳を叩き込んでやる。

 男は悲痛な叫び声をあげ、足下に四人の男達が煜に打たれた箇所を押さえて呻いている。


 ――終わりやな。


「待てコラァッ!」


 背後からそんな絶叫が聞こえ、煜の意識を背後に向ける。

 先ほどつま先を踏みつけられた男がポケットからバタフライナイフを取り出し、肩を震わせながら構えていた。

 だが、よく薫の使うナイフ術を見ているため、明らかに素人だとわかる。


「そんなもんはしまい。素人が振り回すもんちゃうで」

「うるせえ! 死ねやぁっ!」


 男がナイフを腰に構え、そして地面を蹴る。

 煜も反射的に構える。


 だが、予想もしなかったことが目の前で起こった。

 男の手が後ろから捕まれ、その動きをピタリと止めたのだ。


 ――なっ!?


 思わずその光景に目を瞠った。


「離せ――ッ!?」


 男も後ろを振り向き、そして同じように体を硬直させた。



「――はい、そこまでだ。そこの坊やも言ってたろ? 素人がそんなもんを使うのは見てられないねぇ」



 男の動きを止めたのは、なんと女だった。

 二十歳前後という見た目の女。艶やかな唇に、シャープな輪郭。フリンジトップスに膝まである黒を基調としたロングコートを羽織り、クラッシュデニムを履いている。出るところは出て、引き締まるところは引き締まったモデル体型。昼間に会ったレイラよりは小さいがまだ豊満なバスト。

 細身で、しかし華奢では断じてない。どころか、その質で見れば薫に最も近しい。余分な筋肉をつけず、そこにいるだけで四肢を八つ裂きにされそうな威圧感。

 加えて、薫よりも背が高い。一八一センチの男の身長を超える女。長く尻まで伸びた黒髪に、茶色の切れ長の瞳。


 ――なんやこの人……!?


 その存在感が桁違いだ。今まで見てきたどの猛者よりも恐ろしく強い。それが一目でわかった。

 唯一、煜の憎悪の対象と同じ程度だろうか。


 煜は目の前の女をどこかで見た気がする。どこかはまだ思い出せない。

 そして、その口調には既視感を覚えた。


「な、なんだテメェ!」

「通りすがりの姉ちゃんだ。――アタシのことはいいんだよ。そんなことより、しばらく見てたけど、お前それでも男か? 肝っ玉がねぇな。こんなものは野暮ってもんだろ。それもブルってちゃ尚のことだぜ」


 ――薫と、同じ口調……?


 その口の悪さはまさに薫そのものだった。

 これは偶然だろうか?


「男ならやっぱ素手喧嘩(ステゴロ)だろ? ほれほれ、とっとと行ってきな」

「さっきからなんなんだテメェは! テメェからボコボコにするぞ」

「ボコボコにされてる奴にそんなこと言われてもねぇ……全く怖くないんだよねぇ」

「うるせえ!」

「さっきからそればっかじゃねぇか。他の言葉知らないのか? 小学校からやり直してこいよ」

「こっのっクソアマァ!! 上等だ!! テメェからぶっ飛ばして――」


 その瞬間、表情が鋭くなったかと思うと、女の裸拳が男の腹部に抉りこんだ。女はそのまま拳を振り抜き、男の身体が軽々と宙を舞う。


「……これは俺も目を疑うわ」


 煜は呆然と目の前の光景を眺めることしか出来なかった。

 女が拳一発で男の体を軽々と殴り飛ばせるなど、誰が思っただろうか? 味方内でもそんなことが出来るのは千尋ぐらいだろう。


「グッ……ヴォェェェッ!」


 殴り飛ばされた男は背中から勢いよく地面に叩きつけられ、胃酸を口から吐き出した。

 それを見て、呻いていた他の男達も唖然としていた。


「ほらほら、これに懲りたらとっとと失せな。アタシはどっちかが死ぬまで続けてもいいが、そこの四天王が許すかは別だ」

「し、四天王!?」

「ま、間違いない! こいつ……四天王最速だ!!」

「や、ヤベェ……逃げろ!!」

「ま、『魔王』が来るっ!」


 男達は煜が四天王だということがわかると、脇目も振らずに逃げ出した。未だ胃酸を吐き出している男を放って。


「オイコラ! 逃げんならコイツ連れてけ、ボケナス共!!」


 女はそう言うと、無慈悲にも男を蹴り飛ばし、先ほどよりも強烈に逃げ出す男達の傍らの壁にその全身を叩きつけた。


 これは夢だろうか。

 煜は唖然としたまま、それを見送ることしか出来なかった。


 女は小さく舌打ちをしながら男達の逃げていった通りを一瞥し、煜に視線を移す。


「ん? どうした、ボケっとして? 四天王ならこれぐらい普通だろ?」

「まぁ、はい。でも、それをレディがやってることに驚愕ですわ」

「レディ? ……プッ、ククッ……アハハハハハッ!! 面白いねぇ、お前」

「笑ってもらえたんなら、光栄です。ただ、その四天王ってのやめてもろてもいいです? 自分らから名乗った覚えのない呼び名なんですわ」

「ひぃ、腹いてぇ……! あぁ、わかったわかったそんな顔しなさんな。もう言わないから。……にしても、ふっ、くくく……っ!」


 煜の言葉に女が腹を抱えて笑い出した。


 煜は今まで見てきた中で、生身でこれだけ強い女は初めて見た。

 もしかしたら、煜が勝負を挑んだとしても簡単に倒されてしまうのではないだろうか。そう思わずにはいられない。

 煜にそんな風に思わせられる女など、数少ないだろう。薫の部下を省けば、恐らく片手で事足りる数しかいない。


 女は暫くの間腹を抱えて笑っていたが、ようやく落ち着いたようで顔を上げた。


「レディって……フククッ……。アタシはね、これでも三児の母ちゃんだよ。皆、もうアタシから離れて行ったけどね。……少なくともそのうちの一人は、アンタは知ってるはずだけどねぇ?」

「――まさかっ!!」

「そう、そのまさかだ。……さて、アタシはそろそろ行くかね。ダチを待たせてるんだ。お前は、その子をしっかりエスコートしてやんな。ナイト君」


 女はそう言うとひらひらと手を振り、すぐにその場から立ち去ろうとする。


「ちょ――っ!?」


 何とかして引き止めようとしたが、声をかけた瞬間に強烈な殺気をその身に叩きつけられ、思わず口ごもってしまった。

 全身の細胞が危険信号を発する。体が強張り、身動きひとつ出来ない。

 怯えているのだ。おぞましい地獄で人間の姿をした魑魅魍魎や、見ただけで寒気を覚える不気味な容姿の化物と対峙して生き抜いた筈の煜でさえ危険を感じてしまうぐらいに。

 それを思えば、薫がどんな時でも平常心を保ち続け、契約した化物の力もなしにあの人間離れした圧巻の強さも頷ける気がした。


 いったいどれだけの時間そうしていただろうか。ようやく身体が動くようになり、煜は女の立ち去った方向を呆然と見つめたまま、ポツリと呟いた。


「……あの人やったんか」


 思い出した。薫の家に置いてある写真。そこに写っていた、薫とレイラの母親ではないか。


 ――あんな若いのに、三児の母ってどういうことやねん……?




 都内某所――


「岸本、どうだ? 何かひとつぐらいは有益な情報は出たか?」

「駄目です。何の情報も出ませんよ」


 敦樹の詰問に、岸本はかぶりを振る。


 何故、組長の孫が狙われたのか。

 狙われる理由としては、組長の孫だからというだけで成り立っている。

 問題は、どこの組織が誘拐を企てたかだった。

 今日、朝から組総出で原因究明のために動かしていたが、結局有益な情報は得られないままだった。


「……そうか」


 敦樹が若頭になって、最初の仕事がこれほど難航するとは思ってもみなかった。しかも、それが娘の命に関わることになれば尚更だ。

 これが必死にならないわけがない。


「赤崎に連絡は?」

「駄目ですね。通話中ですよ」

「何してやがる、あの馬鹿!」

「蒼坂は動いてすらないですよ」

「どいつもこいつも……!」

「薫の野郎は四天王の仕事がありますからね。武闘派は全然動けてませんね」


 敦樹はこめかみを押さえながら苛立ちを何とか堪える。

 皆から信用がないのは仕方のないことだ。これから作っていけばいい。

 だが、この大切な時に動いてすらくれないことが腹立たしかった。

 敦樹の娘であり、何と言っても組長の孫なのだから、皆が動くのは当然だと心の片隅では思っていた。

 今でも道元が一言言えば、武闘派の三人も動かざるを得なくなる。それでもそうしないのは、自分が口だけではないという建前を示さなければならなかったからだ。


「あの三人はもういい。それよりも、他の連中は――」


 敦樹はその後も部下達に指示を出し続け、娘を襲った相手の目的、裏での繋がりなど必要な情報を探し続けた。

 だが、依然として情報は得られないままだった。




「あぁ、そうさ。おいちゃんが昼間会った連中、間違いなく君が敵対してる連中と関わりがあると思うんだが」

『――なるほど。確かに今言っていた連中のうちの一人、一番ガキの女だが、あいつらから訊いている情報と一致する。間違いなく、奴らのボスだ』


 通話相手の薫が断言する。


「あんな子供が? そいつはまた」

『特におかしい話なんかじゃねぇよ。事実、少年兵のくせに大尉なんていう階級になってる奴も知ってる』


 赤崎はすっかり暗くなった夜の街を、携帯を片手に歩いていく。車一台分の狭い路地で、時折野良猫が塀の上を歩くのが見える。


 赤崎の手の甲には、少しだけ赤い染みが出来ていた。

 今まで、赤崎は敦樹の指示通りに情報を得ようと動き回っていた。

 実際、目の前でその事件が起きたのを見ていた身としては、動かないわけにはいかない。それが赤崎のいる組織のボスの血縁者となれば尚更だ。


 そして、その時現場にいた薫とレイラのことを思い出した。

 確か、薫達が敵対している組織。それこそが乙葉を襲い、寿司屋で反撃にあった集団の所属している組織だったはず。

 そして、その者達に共通しているのが、獅子を模した装飾品を身につけていることだ。

 そこまでを思い出し、取り敢えず日中その者達を探して歩き回ってみた。裏通りや、建物の中など入れる場所は出来る限り回った。


 そして、昼間のファストフード店での騒動である。

 少し離れた場所で昼食として注文しておき、その会話に耳を傾けていた。

 すぐに接触しなかったのは、人違いだったら悪い、という良心と、少女以外の者達が装飾品を身につけていなかったために確証がなかったからだ。

 接触しようと思ったのは、四天王とレイラの名前が出たからだ。

 そして、いざ戦ってみるとその弱いこと。赤崎ですら呆れてしまうほどに。

 だが、逃げられたのは痛かった。スカーフを巻いていた少女だけでも事務所に連れていければ良かったのだが、そこは赤崎の詰めが甘かった。


 そして、それから数時間後の先ほど。

 新たに装飾品をつけた三人を見つけ、声をかけてみた。簡単な事情を話し、そして詰問してみたところ攻撃されてしまった。

 仕方なしに全員を半殺しにし、改めて事情聴取を行ったのだ。

 しかし、誰も乙葉を狙う理由は分かっておらず、それどころか繋がりも何もわかってはいなかった。

 途方に暮れたところにニュースの報道を見て、薫に連絡したのだった。


「そうか。あぁ、そうそう。さっきニュースでホテルが爆発した事件を見たんだけどねえ、あれ、君だろ? 誰か敵がいたんだろ? 皆殺しかい?」

『当然だろう』

「おっかないねえ」

『こっちの台詞だ。あんた、相手の骨砕いたろ?』

「砕いちゃあいないよ。折っただけ」


 ひえぇ、と特に感情のこもっていない声が聞こえる。


 薫の行いと赤崎の行い。どちらの方が恐ろしいか、と問われれば、ほとんどが薫を選ぶことだろう。

 流石の赤崎でも、傭兵を相手にするなんて恐ろしいことをやってのける自信はない。しかも、すぐにでも殺せるのにもかかわらずに殺さず遊ぶなどというのは狂気の沙汰でしかない。

 それでも涼しい顔でやってのけるのが、通話相手だ。人知れず寒気を覚える。


「もう君だけでも全滅させることが出来るんじゃないの?」

『やろうと思えばな』


 やっぱり、と口にしつつ、赤崎の顔にはいつもの笑みではなく、強張った笑みが浮かんでいた。


「明日、あの連中を叩くのかい?」

『そうだが?』

「だったらさ、ついでにお嬢が狙われた理由も探ってほしいもんだ」


 言うと、電話の向こうで薫が笑った。


『おいおい、お嬢の問題を「ついで」で済ますとかマジかよ。若頭(カシラ)がうるさくなるぜ』

「いいんだよ。今いないんだし」

『そうかよ。まぁ、元よりそのつもりだ。他にも、連中から手に入れたい情報もあるからな。ついでに探っておくさ』

「君も言っちまってるよ。それじゃ、任せたから」

『あぁ』


 赤崎はそこで通話を切る。

 そして、歩く速度を上げ、曲がり角を曲がる。


 先ほどからたくさんの人々の靴音が聞こえる。だが、目に入る箇所には人っ子一人見当たらない。

 人とすれ違わない。確かに普段から人通りの少ない通りなのだが、その割には背後からたくさんの足音だけが絶え間なく聞こえ続けている。


 ――さっきの連中を半殺しにしたのが悪かったかねえ。


 足音が自分の後に続く。尾行されていることは明らかだ。


 赤崎が不意に足を止める。正面の道が男達の集団によって阻まれているからだ。

 全員に共通しているのは獅子を模した装飾品。

 尾行していた足音も近くで止まる。振り返ると、こちらもまた道一杯に男達が広がって道を塞いでいる。中には、数人女性も見受けられる。

 全員まだ若い。まだ二十代ほどだろう。

 そんな若い身空でありながら、赤崎に勝負を挑むのは無謀でしかない。

 皆、蒼坂や薫ほどの強さを持ち合わせているのならまだしも、そんな存在は一人もいないのはこの筋で生きていて培われる観察眼ですぐにわかった。


 ――やれやれ、本当に最近の若いのは血気盛んだねぇ。


 車一台分しか入れない通りだが、人が暴れるなら充分なスペースだろう。

 今まで喧嘩で自分の力を示してきた赤崎だったが、これほどの大人数を相手にするのは流石に初めてだ。

 今までも数で勝負を挑まれたことはあるが、それでも六人かそこらだ。だが、今回はざっと見ただけでも三十人はいる。


「まったく、骨が折れそうだ」


 赤崎は足を肩幅に開き、拳を硬く握り締める。相変わらずヘラヘラとした笑いは止めないが、それでもその眼には剣呑な光が宿っている。


「お前か。俺たちの仲間をボコったのは」

「いい歳して何してくれてんだおっさん」

「それ、そっくりそのまま返すよ。若い癖に、何バカなことをやってるのか。若気の至りってやつかい? やれやれ。どれだけ危ない橋渡ってんのかわかってんのかねえ」

「はぁ? オッさん、今の状況わかってるぅ?」


 一人の女が嘲るような声をあげる。だが、それにも赤崎は嗤って返すだけだ。


「わかってるよお。いや〜流石のおいちゃんもこれは大変そうだ」


 それを聞き、赤崎を取り囲む男達がニヤニヤと笑いながら武器を手に取る。

 金属バットにメリケン。ナイフに警棒と多岐に渡る。

 確か、彼らはテロリストのはずだ。そんな彼らが何故拳銃を使わないのだろうか?

 そんな素朴な疑問が脳裏をよぎったが、そんなことはどうでもよかった。使わないのならこちらにとっては都合がいい。


「ほら、来な。気をつけるこった。おいちゃん、結構強いよぉ」


 赤崎は余裕綽々と周囲を取り囲む若人達を相手に指をくいくいっと動かす。


 泰然と待ち構えていると、ようやく一人が金属バットを振り上げながら間合いを詰める。

 その動きは明らかに素人だ。喧嘩慣れをしているといった体でもなく、少し訓練を受けているという程度のものだろう。

 そして、その男が動いたのを合図に、周囲を取り囲む皆が間欠泉さながらに駆け出してきた。


 ――どれだけ遊べるかねえ?


 赤崎は周囲を取り囲む集団を睥睨し、そう思うのだった。


 それからおよそ二十分が経過した頃、その通りに救急車とパトカーが何台も集まってきた。その周囲に住んでいるらしい住民も野次馬として集まってきており、人通りの少ない通りに珍しく活気があった。

 そこにはたくさんのライオネル・ソウルの下っ端達が倒れており、その中の男達は皆どこかから出血しており、更に腕や足がおかしな方向に折れ曲がってしまっている。それに反して女は皆昏倒しているだけのものだった。

 その集団の中に赤崎の姿はなく、赤崎へと繋がる物的証拠は何ひとつ残ってはいなかった。




「誰との電話だったの?」


 仕事も終え、その旨を篠原に伝えたついでに、和希の家で共に高級食材を使った夕飯をご馳走になった。

 和希は様々な会社の重役や政治家などから千尋と同じほど気に入られており、時折高級食材が送られてくるのだという。

 それに大層ご満悦な様子での帰り道にレイラが切り出した。

 レイラは赤崎のことも知っており、特に隠し立てする必要がないために正直に答える。


「赤崎って男だ。ほら、昨日会っただろう?」

「あー……あぁ! あの背の高い男か」

「そうだ。仕事の話さ。それも、ついで感覚で終えられる簡単な、な。それよりも、明日は忙しくなる。帰ったらすぐに寝るとしようか」


 先ほど、和希から作戦開始の時間を聞いた。朝が苦手な薫にとってみれば、苦痛を与えられるようなものだがそれに文句を言っても仕方がない。


「えぇ〜もう寝るの!? 明日が早いからって――」

「俺みたいに朝が苦手な奴からすれば、早く寝た方が目覚めがいいんだよ」


 そうは言っても、薫に目覚めの良かった試しなど一度たりともないのだが。


「でも……ウィルともっと話したいし」

「――明日の朝食をミックスサンドにしてやる、と言ったら?」

「さーて。帰ったらすぐに寝るよ!」

「良い子でよろしい」


 基本的に食欲旺盛なレイラには好物を交渉材料に入れると簡単に流されてくれる。

 薫にとって扱いやすいことこの上ない。しかも、少し誘惑すればコロッと掛かってくれるために尚更だった。


 そのまま二人は家に帰り着くと、すぐに就寝の準備に取り掛かった。

 レイラは昨日と同じようにキャミソールと下着という薄着になっており、やはりそれが彼女の寝間着のようだった。正直、目のやり場に困って仕方がない。

 薫はスウェットに黒のタンクトップという格好をしており、普段以上に腕や胸元の傷が目に入る。


 タンクトップに着替える際、薫の右肩から肘にかけて――昼間にはなかった――爪のような形をしたトライバルタトゥーが現れていた。

 だが、それも瞬きほどの一瞬だけで、すぐにその紋様は消えてしまった。

 理由を知っている薫はそれを気にした素振りも見せず、和室に布団を敷き、書斎にこもって武器の準備に取り掛かった。

 ガバメントにM4カービン。マガジンとクレイモアに各種手榴弾。そして、妖刀である。


 薫は妖刀を手に取り、刀身を外気にさらす。

 禍々しく、しかし見ていてとても美しく見える黒刃。その刃に欠けが無いかを入念にチェックし、鞘に戻す。

 妖刀を脇に置き、今度はベルトを取り出した。よく見ると、小指ほどの長さの細長い針が等間隔に取り付けられており、それを流し目に不備が無いかの確認を行う。


「これぐらいか」


 薫は今一度、周りに散らばる装備を睥睨する。

 よくこれほどの量の武器を集めたものだ。薫自身嘆息してしまう。

 幼い頃から闇の道に進んできたからこそ、必要だった様々な武器を収集した記憶も今は懐かしく感じる。

 しかも、これで全てではない。特訓スペースである地下室にもたくさんの武器が置かれている。


 その数々の武器を簡潔に思い出しつつ、そろそろ布団に潜り込もうかと思い始める。

 時刻はもうすぐ午後八時。眠るにはまだ早いが、全く眠れていない薫にはすぐにでも眠りにつくことができるだろう。

 薫は立ち上がろうとして足に力を込める。


 が、その時だ。ビクッと全身を竦ませ、その挙動を止めた。

 一瞬の緊張と、殺気。鋭く細められた隻眼から光が消えた。

 しかし、フッと笑みをこぼすと、流れるような動作で妖刀に伸ばしていた手を止め、ゆっくりと背後に視線を向ける。


「やられた。今回ばかりは完敗だ」


 そこには一人の女が立っていた。

 長く伸ばした金髪に、黒と紫を基調とした着物。スレンダーな身体つきだが、その内から滲み出る彼女の存在感は凄まじく、威厳を感じさせるその佇まいによりなかなかの手練れのように感じられる。

 長身で、目測でも一七〇前半であるレイラよりも高く、深紅の瞳が真っ直ぐに薫を捉えている。

 だが、その表情には、いたずらの成功した子供のように無邪気な笑みがあった。


「クハハ! まだまだだのぅ、我が主よ! 致し方あるまい。(われ)が強力すぎるが故なぁ!」

「はいはい、そうだな」


 卒然と現れた彼女にも特に驚いた様子も見せず、普段通りの態度で応答する。しかし、普段人々と対峙している時に比べると、幾分かその表情が優しい。

 薫にとって彼女のこの態度には慣れたもので、高慢な態度にもいちいち腹をたてることもない。

 しかし、彼女はそれに不満なようですぐさま突っかかってくる。


「ムッ、なんだその態度は! 吾が誰だかわかっておろぅ?」

「曲がりなりにも主をやってるんだ。知らねぇ方がおかしい」

「ならばよい。……して、薫よ。あのおなごは何者か? 昨日からずっとおるではないか」

「妹だ。血の繋がりはないがな」

「ほぅ? 貴様に妹がいたとはのぅ。――して、あのおなごは吾が視える人間(・・・・・)か? 貴様の幼馴染とでもいう彼奴(あやつ)らと同じ類の人間か?」

「後者だ。あまり驚かせてやるなよ」

「むぅ? あのおなご、妖怪の類は不得手か?」

「妖怪については明言しかねるが、物の怪の類に関しては大の苦手だったな。怪奇現象が起きた暁には大絶叫。果てには気絶する始末だ」


 それを聞くと、彼女はニヤリと不敵に微笑んだ。まるで新しいおもちゃを見つけたとでも言いたげに。


九老(くろう)。ここには何をしに? お前が裏から降りてくるとは珍し……くもないか」


 九老と呼ばれた女は、どこから取り出したのか、その手に二人分の(さかづき)と一升瓶があった。銘柄は吟醸酒だ。


「無論、貴様と杯を交わすためよ。昨晩は出来なんだ故な」


 九老は足下に転がっている銃火器を掻き分け、自分が座れるぐらいのスペースを作りあぐらを組む。


「無論、無碍にはせぬな? 吾にも頼みたいことがあろぅ?」


 九老の確信としたその様子に、薫も断れない。事実、その通りであるために願ってもないことだった。


 薫は九老から吟醸酒と杯を受け取り、その栓を開けて杯に注ぐ。

 目の前にいる女は、毎日夜も更けた頃合いになるとどこから手に入れたのか酒を持ってふらりと現れる。

 九老は薫の所有している裏山に暮らしており、時には薫自身から出向くこともある。

 だが、先ほど彼女が言ったように、先日はレイラと篠原がいたために酒を酌み交わすことも出来ず、暇を持て余していたのだろう。


「うむ……美味よな」

「こうして共に酒を飲む仲になってどれほど経ったか」

「…………ふむぅ、ざっと二年ほどよ」

「二年か。時が経つのは速いものだ」

「なかなか楽しい立ち合いもしたのぅ。そうか、もう二年経ったか。鬼である吾(・・・・・)でもそう思うのだ。貴様ら人間にとっても余程であろう?」


 九老の言動に薫は首肯で応える。


 九老は人間ではない。本人が言う通り、鬼である。それも、源頼光(みなもとのらいこう)と頼光四天王によって倒された鬼の生き残りとして知られるあの茨木童子だ。

 片腕を斬られた、と伝承が残っているが、その後自身の手で取り戻したらしく、今も両腕は健在だった。


「身体の調子はどうだ? マモン達に作らせて、ここ最近は定期検査が――」


 薫の心配の言葉を九老は手で制した。


「案ずるな。息災だ。それより、此度の戦は大層な博打に打って出たな」


 おそらく、傭兵集団との戦闘のことを言っているのだろう。

 まさに、傭兵達との戦いは彼女の言う通りかなりの博打だった。人間心理をある程度認識している薫でも、絶対ではない。予想外の出来事も起こる可能性はあったのだ。

 しかし、そこは軍人や暗殺者として動き回った薫の面目躍如である。起こり得るだろうと思われる事柄のいくつかはもちろん懸念していた。

 傭兵達は潜伏先が気取られたことを悟り、潜伏先を東京プラザホテルに変えた。

 その可能性も無きにしも(あら)ずと考えてはいた。しかし、護衛対象がいることにより、あまり攻めに回る事は出来なかったのが実情であった。

 最終的に和希に護衛を任せたことにより襲撃を可能にし、そして全滅させることに成功した。


「あらゆる可能性を模索し、それによって生じる事柄を数パターンの方法で対処法を用意する。こんなものは基本だ。誇れるものではない」


 無感情に、淡々と言葉を紡ぐ。


「謙遜だのぅ」

「どうかな? 何にせよ、最終的に奴らは全滅。もし、祖国(アメリカ)にいるであろう家族が何か騒ぎ出せば、個人で動き、親兄弟、必要ならそのペットまで排除する。そのために、奴らのタグは全て回収してある。――まぁ、これはいらねぇな」


 薫はダグラスのタグを一瞥し、デスク横にあるゴミ箱に放り入れた。


 ダグラスは自分の口から家族はいない、と明言したのだ。完璧に信じるわけではないが、潔く己の首を差し出したあの男の様子から、嘘をついているとは思えなかった。


「まぁ良いわ。それより、今は話すことがあるのだろう?」


 九老はぐいっと吟醸酒を呷り、なくなった杯に吟醸酒を注ぐ。そして、もう一度酒に口をつけると、話せ、と念を押してくる。

 薫も同じように酒を呷り、口を開いた。


「頼みと言っても、改るものでも、お前が思っているような血気盛んなものでもねぇよ。単なる物探しだ」


 言うと、つまらなそうに舌打ちをする。


 鬼とは本来、酒と戦を好む種族だ。そんな存在にものを頼むのなら戦が常套である。

 しかし、今回戦う相手は実力としては下の下。加えて九老の姿を視認することができる輩はなかなかいないだろう。……薫が手を加えれば別だが、それはいい。

 それにより、彼女に戦を頼むというのは少々気が引ける。

 もし、それを頼んだところで、それはそれで不服そうになるのは目に見えている。


「吾に物探しをしろと? そのようなつまらんことを、何故吾がせねばならん。それこそ、貴様の下僕に命ずれば良いはず」

「もちろん、そのつもりだ。まぁ、俺の下僕ではないがな」

「なれば、それでよいではないか」

「探し物は早々に見つけるに限る。数が多いに越したことはない」

「吾がそんなつまらぬことをすると思うたか?」

「思っちゃいねぇさ。だから、頼まれてくれりゃ、懐かしの手合わせと行こう。無論、コイツ(・・・)の力も使わせてもらう」


 自身の水月の位置を指で軽く叩く。


「それなら、前以上にお前とも対抗出来るはずだ」


 九老は未だ納得していないらしく、杯の中の酒がなくなったことを悟ると、一升瓶を手に持ち、そのまま飲み始めた。


「それだけではつまらん。無論、吾と拮抗しうる――否、圧倒しうる力ではあろぅ。吾が言いたいのはそういうことではない」

「勿論、仕事がすぐに済めば俺らが行う戦闘に参戦することは認めよう」


 薫の提案に尚も九老は首を縦に振らない。むしろ、何か悪いことを考えているらしい。ニマと不気味な笑みを浮かべた。


「そうよなぁ……下にいるおなご、奴の(はらわた)を食らわせよ。それなら――」


 直後、薫は左眼を開眼。瞳の色がワインレッドに輝き、次第に黒く濁っていく。流れる動作で傍らに置いていた妖刀を手に取り、必殺の一閃を繰り出した。

 洗練された見事なまでの一太刀。狙いは首。常人なら認識するよりも前にその首は落とされただろう。

 だが、九老は驚いた様子もなく、あろうことか肉薄する黒刃を無造作に掴んでみせた。


「――その眼よ。全くもって度し難い眼をしておる。生きる希望を持っておらぬ、絶望の眼。喩え家族が罵られようと表では憤ってみせる。なれど、その眼には何も映ってはおらぬ」


 九老は妖刀を掴んだまま、ゆっくりと顔を近づける。そして、薫の眼を覗き込んでくる。


 彼女が一体何を思っているのか、それは薫には理解することができない。だが、ひとつわかったことがあるとすれば、


「――試したな。この俺を(・・・・)

「半分は本気だったがのぅ。貴様のそれは、人間がしてはならん眼よ。貴様、何を見た? これまでの短い生の中で、何を見てきた?」

「人間がしてはならない眼だと? だったら、奴との同化(・・・・・)が進んでる証明だろうよ!」

「クハッ、同化? そのつもりならとうの昔にその肉体は奴のものとなっておろぅ! それを必死に堪えておるのはどこのどいつよ? 貴様も元はそのつもりで奴と契約したのであろぅ? 何故(なにゆえ)()を拒み続ける?」

「己の死を求めんがため」

「な――」


 刀を掴む手が緩み、薫はゆっくりと妖刀を鞘に戻す。


 瞬間、九老が腹を抱えて笑い出した。


「クフッ、クハハハッ!! 面白い! (おの)が死を求むため? 読めるぞ。同化さえしてしまえば、確かに貴様を殺しうるものは限りなく少なくなろう! それでは、何故己から死を乞わぬ? ただで死ぬのは御免だと? 強欲なものよ!」


 九老は笑いながら持っていた一升瓶を薫に寄越す。それを九老と同じようにそのまま口をつけ、胃の中にアルコールを流し込む。


 薫の脳裏には、化物との契約の際に見た光景が映し出されていた。

 薫の嫌いな人間の思考や、悪意である。

 人間を嫌いになった要因としては、普段千尋達に伝えてある子供の我が儘に違いはない。

 そして、それが確固たるものになったのはその契約だった。



「――ウィル?」



 扉の向こうからレイラの声が聞こえてきた。

 どうやら、気付かないうちにレイラが階段を登ってきていたらしい。流石の薫も注意力が散漫だった証明だ。


「入るよ?」

「あぁ」


 薫は返事を返しつつ、左眼を閉眼する。杯を九老に投げ渡し、足下のガバメントを拾ってスライドを一度取り外した。

 扉が内側に開く。それと同じタイミングで外したスライドを取り付けた。


「銃の整備?」

「あぁ。愚図られたら難儀だからな」


 今の行動によって傷がついていないかを軽く確認し、レイラに視線を向ける。


「どうした? 眠れねぇのか?」

「ちょっと凄い音がしたから。何かあったのかなって思って」


 どうやら、先ほど九老に斬りかかった時に床を思い切り踏み鳴らしていたらしい。


 肝心の九老は今はレイラの背後で吟醸酒を呷っている。どこから取り出したのか、肴としてピーナッツを口に放り込んでいる。


「そこのM67破片手榴弾(アップル)を落としてな。咄嗟に掴んだせいで身体を打ち付けちまっただけだ。――あぁ、心配するな。明日の戦闘に支障はねぇよ」

「それならいいんだけど」


 言うと、レイラは書斎をじっくりと見回す。


 思えば、呼びに来るのにひょっこりと顔を出したぐらいで、レイラがこの部屋に入るのは初めてだった。

 物珍しげに特に面白くもない室内を物色していく。

 その中で、九老も視界に入ったはずだが、レイラには見えていないらしくそのまま物色を続けていく。


「さぁ、そろそろ寝ろ。俺はもう少し準備をしてから降りる」

「わかった。おやすみ(グッナイ)!」

「あぁ、おやすみ(グッナイ)


 レイラの元気そうな声にいつも通りの冷めた表情に僅かな笑みを浮かべながら同じ言葉を返した。


 レイラの気配が完全に一階まで降りたタイミングで扉を閉める。

 九老は一升瓶に入った酒を飲み干したらしく、中を覗き込んでもの惜しげに肩を落とした。すると袖口から煙管を取り出し、桃色の煙を漂わせながら、それを肺一杯に吸い込み、吐いた。


「どうやら、本当に吾が見えぬようだ」


 退屈そうな声音を聞き、薫は再び左眼を開眼した。

 誰もが恐怖で身を竦ませそうなほど禍々しく、それでいて凄烈な殺気を向ける。目の温度が氷点を下回り、凍てつく眼光が九老を見据える。

 それを見て、九老は桃色の煙を燻らせながら不敵な笑みを浮かべた。


「そう殺気立つな。食いはしない。少し驚かせるまでよ」

「…………」

「そうは言っても信じぬよなぁ? さて、どうしたものか」


 九老は少し考え込むように顎に手をやる。

 その間に薫はそっと左眼を閉じる。


 鬼とは、本来嘘を嫌う種族だ。そのために滅多なことでは嘘をつかない。

 それをよく知っているため、鬼の言葉は信用に足る。


「いいだろう。お前の言葉を信じよう」

「見る目があるのぅ。長としては満点だ」

「四十点の間違いだろう。他者を信ずるべからず」

「それは貴様の辞世の句だろぅて」


 まぁな、と薫は笑みをこぼしてみせる。


「最終確認だ。九老、お前はパティン達とある探し物をしてほしい。物は追って説明する。早く終われば戦闘の途中参戦も認める。まぁ、人間なんぞ何人相手取ろうとも、俺一人で事足りるがな。千人だろうが万人だろうが相手になってやるさ」


 銃のチェックを済ませ、薫は立ち上がる。

 それで話は終わりにしようとドアノブに手を伸ばした時、九老がポツリと言葉を漏らした。


「ふむ。改めて貴様が奴に染まってきておるのが実感した」

「なに?」


 気づいておらんのか、と九老は苦々しく呟いた。


「貴様、ここ半年で傲慢な言葉を宣う回数が増えたのは自覚しておるか?」


 その数瞬後、九老は目を瞠った。薫自身、自分がどんな顔をしているのかわからない。そもそも、そんな自覚などしていなかった。

 薫は嗤っていた。隻眼を禍々しく赤黒く輝かせ、本人の意図しない力によって、その表情が作り出されていたのだった。




 午前二時半――


 和室にポップな曲調のメロディが流れる。レイラが設定していた携帯のアラームである。


「……うるさい」


 レイラは寝ぼけ眼で携帯に手を伸ばし、アラームを止める。

 ようやく静かになると、睡眠欲の赴くままに再び眠りにつこうとする。


 いくらレイラが朝に強いとはいえ、普段ならまだ眠っている時間である。そんな時間に起きる際、睡眠欲が勝ってしまうのは仕方のないことだろう。


 だが、そこでおかしなことに気がついた。

 今、レイラがいるのは薫の家である。それも、薫がよく就寝の部屋として使っているらしい和室だ。

 眠る前の光景を思い出してみる。なかなか薫が二階から降りて来ず、後ろ髪引かれる思いで就寝についた。


 薫が家から出て行く前までの習慣が心残りだったのだ。就寝前の額へのおやすみのキス。そんな家族のスキンシップがレイラにとって至福のひと時である。

 それにも関わらず、日本に来てからまだ一度もそれをしてもらっていないことに少なからず不満があった。


 それから幾分か経った頃。浅い眠りについていたレイラの額に何か温かいものが触れる感覚があった。

 うっすらと眼を開けると、丁度薫の顔が離れていき、隣に敷かれた布団に潜り込んで行くのがわかった。


 ――してもらえた。


 それだけで、レイラの胸中ではいっぱいの幸福感が広がっていったのを覚えている。

 だが、その薫の寝息が全く聞こえないのだ。それどころか、人の気配が微塵も感じられない。

 暗殺者として必死に戦って来たレイラにとって――それ以前に、薫と同じように合気道を徹底的に母親から叩き込まれたレイラにとって、空間把握能力はお手の物。そこに何人人がいるのか、得物はなにを持っているのか、といったことは手に取るようにわかる。

 そんな彼女の頭に、今この部屋に自分以外には誰もいないと告げられている。

 そんなわけがない。そう思いながら重い瞼を上げ、隣の布団を見やる。


「いない……?」


 布団はもぬけの殻だった。

 レイラは自分の体を引きずるようにして隣の布団に手をやる。


 ――冷たい……。


 どうやら、薫が起きてから随分と時間が経っているらしい。そこに薫の体温は感じられず、ただ無機質な布の感触があるだけだ。


「どこに行ったんだろ……?」


 レイラは目をこすりながら上体を起こし、未だ暗い室内を一望する。

 和室には押し入れや鍵のかかった小さな箱がひとつあるだけの物寂しい雰囲気になっており、あまり生活感が感じられない。


 レイラは立ち上がり、リビングに続く襖を開く。


「……ここにもいない」


 落胆と寂しさの入り混じった声音で呟く。

 そうしても薫がひょっこりと姿を現すわけもなく、居た堪れない気持ちになってしまう。


 ふと視線をテーブルに向けると、そこにはミックスサンドの山が置かれており、それに気づいた瞬間、レイラの腹が健康的な音を鳴らした。


「言ってた通りだ!」


 レイラは思わずテーブルに飛びつき、ミックスサンドをひとつひとつ頬張っていく。

 様々な具材の味が引き立ち、しかし、どれも他の具材の味を損なわないようバランスよく、緻密に計算された味付けがされている。美味しい。


「……ん?」


 その時、ミックスサンドの山の乗った皿の傍らに、一枚の紙が置かれていることに気づいた。


『起きたのなら顔を洗って、戦闘準備を整え、着替えを済ませておけ。飯は言っていたようにミックスサンドだ。得物はなにを使うかは知らないが、銃を使うなら整備を怠るな。俺は下で運動をしてから戻る。それまで好きにしてろ』


 英語で走り書きされた必要最低限の指示のメモだ。それを見ると、そういうところは昔と何ひとつ変わらないのだと実感させられる。


 レイラはメモを読んでいるうちに、ミックスサンドの山をぺろりと平らげてしまい、言われた通りに顔を洗いに行く。

 戻ってくると、デニムパンツにタンクトップという普段通りの格好になり、カバンの中からジュニア・コルトを取り出した。

 装弾数は六発。弾薬は.25ACP弾である。

 薫が家を去る時、手渡された薫のお古の拳銃だった。

 以来、レイラの使用拳銃は主にこれで、もうひとつ薫がレイラのために買ったオートマチック拳銃があるのだが結局一度も使われていない。ただし、整備はいつも怠らずに行なっている。

 弾薬をベルトにつけたウエストポーチに入れ、次に刀袋に納められた日本刀を手に取る。

 昨日の戦闘で大分と雑に使ったのだが、ありがたいことに不備などは見当たらない。


 その時、レイラの携帯がポップな曲調のメロディを流した。メールだ。


「誰からだろ?」


 日本刀を鞘に納め、刀袋に入れると小首を傾げつつ携帯を手に取る。

 レイラの交友関係といえば故郷の街にいる碌でなしばかりであり、それ以外の交友関係などはない。

 時間の関係上と交友関係の問題でその線を思ったのだが、それは間違いだった。


 送信者は、William(ウィリアム)。つまり、薫だ。

 何故これだけ近くにいながらメールを送って来たのだろうか?

 何か忘れ物があり、それを持って来てほしいというような内容だろう、と予想する。

 だが、改めて考えるとそれは不自然だ。

 もし、レイラの予想通りの内容だったならば、起きているのかどうかもわからない同居人にメールするよりも、自分で取りに来る方が手っ取り早いはずだ。

 だが、何よりもレイラの注意を引いたのは件名である。

 件名には、虹城九老(こうじょうくろう)とだけ書いてあった。


「ニジシロ……キュウロウ? 絶対違う気がする!」


 レイラは思い切ってメールを開く。

 だが、本文には何も書かれておらず、ただ動画が添付されているだけだ。

 時間は二分三十秒。

 レイラは動画を見ようとタップしようとした時、独りでにシークバーが動き始めた。


「!?」


 レイラは驚く間も無く、映像には地味な着物を見に纏い、それでも動きやすい程度に着崩された姿で足を組む女が映し出された。

 長身だ。少なくとも、レイラよりは高い。風でも吹いているのか、着物の裾や金髪がゆらゆらと揺れている。

 そして、背景には何やら見覚えのある棚が置かれてあった。


『――こうして相見えるは初めてよのぅ? 貴様の名は聞いておるわ。れいら(レイラ)えい(A)しゃどう(シャドウ)


 映像の中の女はゆらゆらと椅子を前後に揺り動かしながら画面越しに対してにんまりとした笑みを見せる。どうやら、映像の手前側にテーブルがあるらしく、それに足を乗せている。椅子の軋む音が、揺れ動く椅子と同じタイミングで聞こえる。


『まったく、奴といい貴様といい、貴様らは憎悪を持たずにいられんのか? よく臭っておるわ』

「な、なんの話……? っていうか、この人誰?」

『吾のことは既に伝えているはずだがのぅ? 憎悪に関してはそれはそれ、貴様自身が理解していよぅ?』


 女がつまらなそうに嘯く。

 実際、映像に映った彼女が言うところも理解はしている。幼い頃、世界に対して憎悪心を向けていたからだ。

 今でこそ少しは落ち着いてはいるが、その憎悪の対象はすげ変わりつつもしっかりと内でくすぶっている。


「なんでこの人がそんなことを……?」

『簡単なことよ。先も言ったが、臭っておるのよ。吾らは元々それを感じることは出来ぬ。が、長く生きておるとそういう事もわかるようになってきた』


 それを聞いて、レイラはギョッとした。会話が成立しているのだ。

 思わずシークバーを確認する。だが、シークバーは正常で一分を少し超えたところだった。


 ――この人の思惑通りに話が進んでるだけ?


 もしそうだとすれば、完全に彼女の掌の上で転がされていることになる。そう思うと、少しムッとした。


『おうおう、疑問に思っておる。何故貴様の思惑がわかるのか、そう思っておるのだろう? 聞いてはおらんが、答え合わせと行こう。後ろを見てみぃ(・・・・・・・)!』


 それを訊き、レイラは思わず身を竦ませた。静かになった空間に、椅子の軋む音が鳴る。それが、映像内のものなのか、それとも現実に起きていることなのかの判別が難しくなってくる。

 鳥肌が立つ。嫌な汗がじわりと浮かび、呼吸も少し荒くなってくる。


 ――震えが……止まらない!


 映像の中の女は愉快そうに双眸を細め、声を潜めて笑っている。それだけを見ると、いたずらの成功した子供のようにも思えたが、いかんせん怪奇現象が苦手なレイラにとっては嫌な冗談にしか思えない。


 レイラはようやく意を決し、ゆっくりと背後を振り返る。

 冗談であってほしい。自然とその思いが声になり、口の中で小さく反芻される。


 だが、現実は非情だった。


 背後のテーブル。その先ほどまで自分が座っていたのとは逆側の椅子が独りでに揺れ動いていた。


 甲高い絶叫が迸る。自分でもそんな声が出せたのか、とも思ったがその思いは一瞬で霧散した。

 怪奇現象である。レイラが嫌いな怪奇現象が目の前で起こっているのだ。

 レイラは大慌てで和室に逃げ込み、布団の中に滑り込んでガタガタと震える。

 携帯からはあの女の笑い声が聞こえ、その途端『あ痛っ!』という女の呻く声が聞こえた。

 レイラはひいっと涙声で小さく悲鳴を漏らす。


 だが、次の瞬間に聞こえた声によってレイラは助け舟が出されたような気がした。


「こんなことだろうと思ったぜ」

『殴ることはなかろぅ!』

「ぬかせ。あまり驚かせてやるなと言ったはずだが?」

『貴様が面白い反応をすると言うからよ』

「言わなけりゃよかったな」


 レイラは恐る恐る布団から顔だけ出すと、その声は聞き間違いではなく薫がそこにいた。

 揺れ動いていた椅子は動いてはおらず、だが薫の視線はそこに向けられている。

 それにも気づかずに、思わずレイラは布団から飛び出し、薫の足に飛びついていた。


「何だってこんな日に――うおっ!?」

「ウィィィィルゥゥゥゥッ!! ゆ、幽霊がぁぁあっ!」


 涙目で泣きついたレイラに、薫は相変わらずだ、と零した。


「落ち着け、大丈夫だ。前向きに考えろよ。ここにいればこんなことも稀にあるから、直に慣れて幽霊の類も怖くなくなるかもってな」

「幽霊はダメェッ!」

「ガキかお前は!?」

『キャハハハハハッ!』

「まだ聞こえるぅぅっ!」


 変わらず本気で泣きついているレイラに、薫は嘆息を漏らし傍らにしゃがみ込む。


「落ち着け。幽霊じゃない。お前に見えないだけで、実際そこにいる。ほら、触れてみろ」


 そう言うと、薫は優しくレイラの手を取り、そこにいるのであろう女に手を持っていく。

 が――


 そこに感触はなく、手は空をかいただけ。


「やっぱり幽霊だぁぁっ!!」

「お前避けるなよ!?」

『その方が面白かろぅ? 第一、隠形しているに等しい者を触れようなどと馬鹿な真似をさせるわけがなかろぅ』

「あぁ、確かに。まぁ、お前の場合は隠形だけではないが。ともかく、パティン達に会ってきてくれ。奴らに指示は出してある。レイラ、お前はいいから落ち着け! 時間が刻一刻と迫ってるんだ!」


 薫が必死に落ち着かせようと声をかけ続け、ようやく落ち着いた頃には、もう集合時間の五分前になってしまっていた。

 二人は完全に遅刻したのである。


「……ウィル、ごめんなさい」

「……謝る必要はない。それよりも、行こう」


 その声音は何処か諦観を帯びていたのは、気のせいだったろうか……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ