第八十話 銭よ、友よ、そして黄金色の誓いよ、永遠に
1623年の夏である。
神砲衆屋敷の書斎では、樹が机に向かい、帳簿を睨みつけていた。彼女の隣には、七海が控え、静かに茶を淹れている。窓からは南国の陽光が差し込み、潮風が帳簿を優しくめくる。
「……ふうむ。利潤は順調に拡大しとるわ。生糸、鹿の皮、鮫の皮、こしょう、絹織物、香木、ぶどう酒――これらを日本の徳川家に向けて販売しとるんやけど、今年の出荷量は去年の倍近いね」
樹は筆を走らせながら言った。
彼女の声には、商人の自信が満ちている。
マカオの神砲衆は、父・弥五郎の遺志を継ぎ、東南アジアと日本の橋渡し役として繁栄を続けていた。七海は茶碗を置き、帳簿を覗き込んでうなずいた。
「朱印船貿易が活発になってきたおかげですね。二代将軍秀忠公の時代に入って、交易の許可状が増えました。スペインやポルトガルの商船も、なんとかマカオ市場に食いこもうとよくやってきていますが……。しかし神砲衆は、徳川家との繋がりが強みです」
「まったく」
七海の言葉に、樹は目を細めた。
徳川家康の死後、江戸幕府はキリシタン禁教を強化しつつ、交易の利益を独占しようとしていた。朱印船は活発にアジアを往還している。神砲衆は、その朱印船と、ときには現地の橋渡し役を行い、またときには商品を交易して、商いの幅を広げていた。
樹は帳簿の特定の品目に目を留めた。
「ただ、ね。……ここ数年。日ノ本から、硝石を送ってこい、って文は少なくなったね。火薬の原料なのに」
すると七海は目を細め、
「豊臣がほろび、戦がもはやなくなると踏んだからでしょう。大御所さま――家康公も亡くなられましたからね。硝石の需要が減ったのでしょう」
樹は天を仰ぎ、懐かしげに微笑んだ。
「父上が昔、言いよった。硝石の商いが終わるときこそ、泰平の始まりなのだ、と……。あれからもう二十年以上経つけれど」
「ついに、そのときが来たのですね」
七海は静かにうなずいた。
戦乱の道具だった硝石の交易量が減るのは、確かに泰平の証だった。
そのとき、屋敷の奥から足音が響いた。牛神丸と仁が入ってきた。二人はシャムからの帰還組で、顔には南国での商いの疲れが残っていたが、目には活気が宿っている。
「姉上、七海どの。お疲れ様です。シャムの交易は順調でした。現地の商人と、絹糸の契約も新たに結びましたよ」
牛神丸が報告すると、樹は目を輝かせた。
「それは良かった。シャムは重要やからね。……仁はどうだった?」
仁は腰の刀を軽く叩き、笑みを浮かべた。
「剣の腕も磨いてきましたよ、母上。シャムの剣士たちと稽古を重ねて、堤流の技を試しました。おばあ様の教え通り、気で相手を制する――あれは本当に有効です」
仁の言葉に、樹は優しくうなずいた。
仁は祖母・伊与から剣を学び、商いだけでなく武の道も歩んでいた。牛神丸は帳簿を覗き込み、満足げに言った。
「これで神砲衆の基盤はさらに固まる。父上の遺志通り、交易で泰平を支えていきましょう」
そのとき、屋敷の奥から、曇り顔の男が登場した。
豊臣秀頼である。いまは、藤吉郎と名乗っている。
彼はここ数年、神砲衆の仕事を手伝い、またカンナと共にいて、彼女から弥五郎の話や商いの話を聞いて学びつつ、カンナの介護役も務めていた。まず、神砲衆の客分のような存在になっている。
その秀頼は、「皆、お揃いで」と言ったうえで、
「カンナどのの容態が、いよいよ危うい。来てはくれぬか」
すると全員が顔を見合わせた。
樹は立ち上がり、静かに言った。
「行こう」
「うむ」
牛神丸はうなずいた。
シャムに向かっていた牛神丸と仁がマカオに戻ってきたのは、そもそもこれが理由だった。樹からの文を受け取ったのだ。
カンナがいよいよ危うい。なるべく早く、マカオに戻ってきてほしい、と――
屋敷の奥にある部屋では、カンナがベッドに横たわっていた。
80歳を超えた彼女の体は痩せ細り、呼吸が浅くなっていた。
樹、牛神丸、仁、七海、そして秀頼の5人が枕元に集まる。
「母上……」
牛神丸がカンナの手を取ると、彼女は薄く目を開いた。
「牛神丸。……樹……仁……七海……秀頼さま……みんな、来てくれたんね……」
カンナの声は弱々しかったが、優しさに満ちていた。彼女はゆっくりと視線を巡らせ、一人ひとりの顔を確かめた。息子、娘、孫、忠実な家臣、そしてかつての主君の息子――皆がここにいる。
それだけで、彼女の心は満たされるようだった。
「ご懸念だったシャムの商いは順調です。牛神丸と仁がやってくれましたよ」
樹が報告すると、カンナはかすかにうなずいた。
「良かった。あんたたちが、弥五郎の遺志を継いでくれて。……あたしは嬉しい……」
仁がカンナの手を握り、声を震わせた。
「剣の稽古も続けています。おばあ様の堤流を、絶対に途絶えさせません」
「……そうね……」
カンナは仁の大きな瞳を見て、微笑んだ。
「仁、あんたは優しい子やね。剣だけじゃなく、心も強うなって」
七海が涙を拭きながら言った。
「カンナ様。神砲衆は今も繁栄しています。日ノ本との交易も、シャムやマニラとの繋がりも、すべて順調です」
「七海、あんたも、よく頑張ってくれた……」
最後に、カンナの視線が秀頼に止まった。
秀頼は静かに頭を下げた。
「カンナどの。私がここにいられるのも、あなたのおかげです。大坂の乱から逃げてきて、父の面影を追いながら、ここで生きてきました」
カンナの目が潤んだ。
「秀頼さま。あなたが生きてここに来てくれただけで、あたしは……みんなは、報われたんよ。豊臣の血が、こうして繋がってる……。弥五郎も、藤吉郎さんも、きっと天から見とる……」
カンナはかたくなに、豊臣秀頼のことを『秀頼さま』と呼び続けた。藤吉郎、と呼んだことはなかった。彼女にとって、藤吉郎は豊臣秀吉ただひとりなのだろう。
カンナの息が浅くなった。
彼女はゆっくりと手を挙げ、皆に視線を配る。
「みんな、あたしはもう、弥五郎たちのところへ行く。あたしが死んだら、屋敷の裏にある丘の上――弥五郎と伊与がおるところ。その隣にある大きな樹の下に埋めてくれんね。……神砲衆は、あんたたちの好きにして構わん……。
それに、仁……秀頼さま……」
仁と秀頼が近づいた。
「おばあ様、ここに」
「私も」
「あんたたちにはあんたたちの人生がある。好きに生きてほしい。ただ、ひとつだけ覚えておいて。……何十年……何百年と続いた乱世を終わらせるために立ち上がったふたりが、この世におったことを」
カンナの声は弱々しかったが、力強かった。彼女の目には、戦国時代の記憶がよみがえっているようだった。
「弥五郎も藤吉郎さんも、ただ生きていくだけならそれだけでよかったのに。いくらかの銭を儲けて、あとは世を捨てて贅沢に生きることさえきっとできたのに。そういうことができるひとたちだったのに。それを、……それをせんかった。
最後まで、ただ自分の考える夢と正義と泰平を求める心を貫き、一生をまっとうした。そういう人がおったことを心にとどめて、これから生き抜いていってほしい。
人間は、ただ自分のためだけじゃない、なにかもっと大きなもののために戦い抜くものだと……」
「……心得ました」
「私も」
仁と秀頼がうなずく。
するとカンナは、微笑んで、
「それで安堵。……それと、勝手なお願いやけれど、あんたたちはこれから、できれば仲良くやっていってほしい。どんな人生を歩んだとしても、友がいることは……仲間がいることは、きっと本当に、素晴らしいことやと思うけん」
カンナの頼みはひどく凡庸だった。しかし、八十年以上の生をまっとうし、長い戦いを切り抜けた女性の結論だけに、一種の説得力があった。
「あたしも、きっと来世になっても、そのまた来世になっても、仲間を忘れんから……一緒に、戦国の時代を、駆け抜けた……」
カンナの目はもはや焦点が合っていなかった。
ただ、救いを求めるように――あるいは、何者かから差し伸べられた手を握り返そうとするように、両手を天空に向かって伸ばした。
その手の中には、六文銭が握られている。
かつて秀頼が持ってきた渡し賃の銭だ。
「みんな! ……みんな……これ……銭ば、忘れとらんね? あたしが、ちゃあんと、持ってきたけん」
「おばあ様――」
仁が、声をかけたその瞬間である。
「……よおし……行こうかぁ……!!」
カンナは、歓びの声をあげた。
それが末期の雄叫びであることは、誰の目にも明らかだった。
最後の言葉は。
驚くほど力強く、明るいものだった。
蜂楽屋カンナはその瞬間、一生を終えた。部屋に静寂が訪れ、皆が息を飲む。七海が涙をこぼし、樹が膝を突いた。牛神丸は目を閉じ、仁と秀頼は互いに視線を交わした。
生き抜いた。
カンナは、その人生を最後まで生き抜いたのだ。
天空に穴が空いたような感覚を、その場にいた誰もが覚えていた。六文銭を握りしめ、はるか彼方の世界へ、彼女の魂は飛び去っていった。その果てに待っている、愛する者たちのところへ。
カンナの葬儀は静かに行われた。
埋葬は屋敷の裏の丘の上。
弥五郎と伊与の墓の隣、大きな樹の下にカンナの墓が作られた。
海風が吹き抜け。
墓石に潮の香りが染み込む。
牛神丸は弥五郎たちの墓前にて、姉の樹とともに、皆を集めて言った。
「父上たちの遺志に従い、神砲衆は俺たちで続けていく。我らの利益のため、そして今後も徳川家と繋がり、日ノ本に誤りが起きないか見守り続けるために。
……だが、仁。……お前は好きに生きて構わん。母上が末期に言われたように、お前にはお前の人生がある。俺と姉上はマカオで生き続けるが、お前はお前が望むのならどこまでも行ける。
お前は剣の腕も立つし、商いの手腕にも長けてきた。世界のどこでも通じるはずだ。マカオやシャムに縛られることはない。行きたいところがあるなら、どこにでも行っていい」
「……叔父上」
仁が、腰に手をやる。
かつて堤伊与が使っていた関孫六の刀が下がっていた。
すると牛神丸は、算盤を仁に渡した。
「これもお前のものにしろ。母上の――蜂楽屋カンナの算盤だ」
「……はい」
仁は算盤を大切に受け取ると、目を輝かせた。
すると豊臣秀頼が一歩、前に出て、皆に視線を配った。
「先日、豊後の親戚から文が届いたのだ。私の子供のことは親戚がなんとかしてくれる。……むしろ私が戻ってきたら日ノ本にまた乱がおきるから戻ってくるな、という文面だった」
秀頼は苦笑し、続けた。
「江戸の爺――家康公は、私がマカオに逃げたことも、私の子供が豊後にいることも百も承知で、あえて逃がしてくれたのだ、という。……あの方は最後に、弥五郎どのと我が父、秀吉との約束を果たしたのだ。……まぎれもなく、優しいお方だった。
……まったく、強い。……父も、爺も、弥五郎どのも」
「しかしその強さは一日にしてならず、だったと聞く」
牛神丸が、落ち着いた声で言った。
すると秀頼は牛神丸の方を向き、言った。
「私も強くなれるかな。これからでも」
「遅すぎる、ということはない」
牛神丸の言葉に、秀頼はうなずいた。
「うむ。……仁どの。あなたはこれから、どこに行かれる?」
仁は庭の大きな樹を見上げ、答えた。
「さて。……まあ、まずは勝手知ったるシャムへ参ります。それからあとは、風の吹くまま。しかし必ず、この世のためになにかをしとうございますな。我が祖父、山田弥五郎俊明のように」
秀頼の目が輝いた。
「同じ心持ち。私も、我が父、豊臣秀吉のごとくありたい。……どうであろう、よろしければ、あなたの旅にこの二代目藤吉郎も加えてはくれぬか」
仁は秀頼の顔を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「荒野の果てで、尽きるかもしれませぬぞ」
「露として消えるも、また上出来」
秀頼の言葉に、仁は大きくうなずいた。
「旅に出よう。俺たちふたりで。海の果てまでも」
大きな樹の下で、二人はがっちりと手を結んだ。
はるか天空から、黄金にも似た太陽の陽射しが、ふたりを、神砲衆の屋敷を、そして弥五郎と伊与とカンナの墓場を照らしていた。
マカオの風が、種のように二人を運び、未来へと導くように吹き抜けていった。
次回が最終回です。最後までよろしくお願いします。




