第七十九話 最後の六文銭
マカオの港は、夏の陽光に灼かれていた。
ポルトガルの旗が翻る船が停泊し、異国情緒あふれる商人たちの喧騒が響く中、一人の青年が数名の仲間を引き連れて上陸した。
青年は道行く明国商人やポルトガル人に、漢字で筆談を繰り返した。
「山田弥五郎の屋敷はどこか」
と。
マカオの住民たちは怪訝な顔をしつつも、丘の上を指差した。
青年がようやく辿り着いたのは、白い壁と赤い瓦屋根が混在する、異国風の邸宅だった。
庭先では、四十歳ほどの女性が花をいじっていた。
日本人らしい、落ち着いた風貌の女性だ。彼女は青年たちをうさんくさげに見つめ、
「どなたでございましょうか。ここは神砲衆の屋敷ですが、ご用件は」
と、静かに尋ねた。
青年は丁寧に頭を下げ、
「藤吉郎と申す。蜂楽屋カンナ殿にお目通りを願いたい」
と言った。
女性は目を細め、
「藤吉郎――悪い冗談でございます。この屋敷において、その名前は……かつて日ノ本の乱世をおさめた太閤殿下のお名前です。それを知ったうえで、名乗りをあげるのですか」
女性の声には警戒心がにじんでいた。
青年は深く息を吸い、
「これがいまの私の本名だ。かつての名前は、豊臣秀頼といった」
女性の顔が強張った。
「……まことに……?」
「このようなこと、冗談では言えぬ」
女性は秀頼の顔をじっと見つめ、ため息をついた。
「……ああ、確かにその面影、殿下によく似ておられます。けれども……」
秀頼は目を伏せ、
「ここは山田弥五郎どのの屋敷であろう。父と大樹村の誓いを果たし、堤伊与、蜂楽屋カンナ、石川五右衛門、もちづきやのあかり、甲賀の次郎兵衛らと共にあまたの戦場を駆け巡り、ついに日ノ本一の商人となった」
女性は声を震わせて、
「そこまでご存じとは。まことに、まことに、若様」
「信じてほしい。大坂から逃げてきた」
「お待ちください。いま、案内を。……ああ、どうぞこちらへ」
女性は奥へと秀頼を案内した。
邸宅の内部は、明国風の家具とポルトガルの絵画が混在し、交易の富を物語っていた。
「そなたは、山田弥五郎どのの家来か」
秀頼が尋ねると、女性はうなずき、
「はい、七海と申します。縁あってこの土地で暮らしております。……あの、弥五郎さまも、堤伊与さまも、残念ながらもうこの世の方では」
「知っている。何年も前の話だが、徳川の爺から聞いた」
神砲衆は常に徳川家と繋がっていた。そのために、弥五郎や伊与の死は徳川家康にも伝わっており、その家康から、秀頼は話を聞いていたのだ。秀頼は苦笑いを浮かべ、
「まだ、爺が私に優しかったころの話だが」
「…………」
七海はどういう顔をしていいか分からずに、ただ奥へと秀頼を案内した。
屋敷の奥では、76歳になったカンナが椅子に座ったまま、窓の外の海を眺めていた。
金髪は白く染まり、碧眼は少し濁っていたが、その横顔には穏やかな気品を湛えていた。
「あれが蜂楽屋カンナか。いきなり尋ねてきて困惑するだろうな」
「いいえ、喜ぶと思いますよ。お子様もお孫様もシャムに旅立ってしまって、いまはいつも寂しそうなので」
七海はカンナの隣にそっと向かうと、耳元で秀頼の来訪を伝えた。
すると、カンナはゆっくりと振り向き、
「ああ……本当に秀頼様? ……藤吉郎さんに……よう似とる……」
と、涙ぐんだ。カンナの声は震え、遠い記憶がよみがえるようだった。秀頼の吊り上がった瞳、好奇心に満ちた表情――
秀頼の体格は巨大で、秀吉は似ていない。だがその面影は、若いころの秀吉そのものだった。カンナは立ち上がろうとし、七海に支えられながら秀頼に近づいた。
「思い出す……。津島で……あたしと、弥五郎と、伊与のところへ、よう来よったんよ。あなたのお父様が……。あの頃の藤吉郎さんは、いつも笑顔で、夢を語って……。あたしたちと一緒に、たくさんの国を駆け抜けたんよ」
「聞いている……」
秀頼は目を伏せて、それから、
「いろいろとあったが、大坂城は徳川軍によって陥落し、多くの家来が死に、民も悲惨な目に遭った。まったく自分はろくでもない君主だ」
と、自虐した。
秀頼の語りは、大坂夏の陣の惨状を鮮やかに描き出した。
城内は炎に包まれ、家臣たちは次々と討たれ、民衆は凄まじい乱取りの犠牲となった。
「母と、真田信繁の手引きによって私と子供だけは助かって、逃げた。それから豊後国にいる縁戚の者に我が子を預け、このマカオにやってきたのだ」
「……ごめんね、秀頼様。もう少しゆっくり、大きな声でしゃべってくれんかね。本当に近ごろ、耳が遠なって……」
カンナがそう言ったので、七海が再び同じことをカンナの耳元で話した。カンナは何度もうなずき、
「けっきょく、豊臣はそうなってしもうたかね。全部弥五郎の言うた通りになった……」
「徳川の爺も、我々に気を遣っていたところは多かった。だが結果として、こうなってしまった。私がこうして生きているのは無様としか言えないが、せめて神砲衆のあなたにこのことを伝えるべきだと思ってやってきた」
カンナはゆっくりと立ち上がり、
「ありがとう。……あなたがそうして生きて、やってきてくれただけであたしは嬉しい。きっと、弥五郎も藤吉郎さんも嬉しい……。あたしたちの戦いは、こんな形で繋がってるんやね。あなたが生きてるってだけで、すべてが報われる気がする」
それからカンナは、弥五郎と伊与が眠る墓に秀頼を案内した。
マカオの丘の上に小さな墓所があり、海風が吹き抜ける。
「あかりも、10年前に亡くなったって聞いた……」
墓どころに向かって歩きながら、カンナは語った。
「レオンも玉香も病でのうなった。あたしの知っとるひとは、もうみんなおらんくなった……仲の良かったひとは……。でも、あなたが来てくれた。まるで、みんながあなたを送ってくれたみたい」
秀頼は無言だった。
やがてカンナたちは墓前に立った。
風が優しく吹き、まるで過去の魂が語りかけてくるようだった。
秀頼はそっと手を合わせた。
「弥五郎どのと、一度だけ会った日のことは覚えている。私の母と、なにか難しい話をしていた。……そしてそのとき、弥五郎どのはこう言ったのだ。
――必ず生き延びてくださいませ。亡きお父上のために。
この言葉があったからこそ私は、生き延びる決意をした。無様な落ち武者となろうとも、父には遠く及ばぬ不肖の子と呼ばれようとも……生きていれば、なにかがあるのだと信じて」
「強くなりんさい、秀頼さま」
カンナは、穏やかな声で言った。
彼女の碧眼には、遠い戦国の記憶が宿っているようだった。
「生きてさえいれば、強くありさえすれば、きっと未来は開ける。弥五郎も、藤吉郎さんも、そうやって強くなって生きてきた。そして幸せを手に入れたんやけん。あたしたちの人生は、血と涙で満ちていたけど、最後に繋がった。あなたがここにいることが、その証よ」
秀頼は顔を伏せていたが、やがて大きくうなずいて、そしてふところから取り出したものをカンナに渡した。
六文銭だった。
「逃げるときに持ってきた銭だが、もはやこれだけしか残っていない。私と共に逃げていた真田信繁も、薩摩で逝ってしまったが、その真田からもらった銭だ。……真田の末期に六文銭とは、天も雅なはからいをしてくれる、と真田は笑っていたが」
「六文銭。あの世へと向かう三途の川の渡し賃」
カンナは、娘のように微笑んでその六文銭を受け取った。
「これが、蜂楽屋カンナの。……あたしたちの神砲衆の最後の儲けよ。……ねえ、弥五郎」
カンナは弥五郎の墓を見上げた。風が強く吹き、まるで弥五郎がその場に二本の足で力強く立っているようだった。
暑い風が吹いていた。
やがて、
「しばらく、マカオにて過ごしたい」
と秀頼は言った。
カンナの瞳に映る海を見つめながら。
「聞かせてくれまいか。わが父と、弥五郎どのの人生を」
「もちろん」
カンナは、また笑った。
涙を拭い、優しい声で。
「喉が枯れるまで聞かせちゃるけん。あたしたちの、戦国商人立志伝を!」




