第七十七話 永遠なる夢幻の中へ
目を覚ましたのは、ちょうど午後八時だった。
不思議なことだが、時計もないのに、そのことがはっきりと分かった。心と感覚が研ぎ澄まされていた。伊与が、カンナが、家族が、横になったままの俺のかたわらで、なにか叫び声をあげている。
褒美だ。
俺は直感した。
天が――あるいは神だか仏だか、なにか人間を超越した存在が、この俺に褒美を与えてくれたのだ。
そう。
死の間際に、家族や仲間と話をするだけの時間を。
「伊与、カンナ」
俺はくちびるを開いた。
口中はぱさぱさで、渇ききっている。
そのとき、ふと、甘いものを感じた。
カンナだ。甘露を口に含めたうえで、俺に口移しで水を与えてくれたのだ。
「カンナ」
「あんた、よう戻ってきたね。みんな、みんなで心配しよったとよ? もう、二度と会えんのやないかって――」
「良かったな。また俊明は意識を取り戻したぞ」
カンナと伊与は、安堵したように笑みを浮かべていた。
俺も、わずかに笑ったが、しかしすぐに首を左右に動かして、
「もう、これが最後だ」
「なんがね。弥五郎――」
「俺の命はもう、残り少ない」
「俊明! お前、なにを……」
「気付いているだろう。もう、俺はこの世を去ると――」
ひとつ、せき込んだ。
カンナが泣きわめきだした。あんたなんば言うとね、ここで先に死ぬとか、あたしを置いていくとか許さんよ、好かん、好かん、好かん、もう――どうして……嘘やろう……これからもっと、何年でも一緒にいられるのに、いたいのに、と言葉を紡ぎ続ける。
伊与は目を見開き、眉間にしわを寄せ、こぶしを震わせている。カンナと違い涙を流してはいない。泣く姿を周囲に見せまいとしているように。――ああ、彼女は武士だ。侍になれたんだ、と思った。幼いころから夢見ていた、強い、誰よりも強い侍に。
「五右衛門が言っていた」
俺は、かすれ声を出した。
「種は尽きまじ。俺もまた、新しい世界でまた別の生命として生きる。そこでまた、みんなと巡り合う。必ずそうなる。……」
誰かが「そんな」と言った。娘の樹だった。牛神丸がひざを突いている。仁が「おじい様」と言った。レオンが、玉香が、七海が、誰もが俺を包み込むように取り囲み、山田弥五郎の終焉を惜しみ、そして見送ろうとしてくれている。
俺はなんて幸せ者なんだ。
心から、そう思う。
愛する女性に、子に、孫に、仲間に、囲まれながら、人生を終えることができる。これほどの幸福が他にあるだろうか。ない。断言していい。……
枯れ切ったはずの双眸から、一筋の涙がこぼれ出た。
前世ではこれが叶わなかった。家族や仲間に囲まれて死ぬ。
それだけのことが、昔の俺にはできなかった。それがこの乱世の中ではできた。
「それだけのこと。……」
それだけのことを実現するために、なんて長い血路を歩んできたことだろう。長い長い、真っ暗な冬の時代をただまっしぐらに歩み続けてきた。泰平と幸福という春を求めて。
「樹。牛神丸。……仁……」
俺は子孫たちの名前をそれぞれ呼んでから――
少し、考えたあとで、
「敵も味方も、すべては同じ人間である。そのことを踏まえて、強くたくましく、そして優しく生きていけ」
「おじい様」
「俺は太閤と長い友であり、信長公を主に抱き、また多くの大名や武将や商人と交わりあい、あるいは敵として戦いぬいてきた。だからこそ分かるが、彼ら彼女らは、いずれも人間だった。強いところもあれば弱いところもある、ひとりの人間だった」
信長、秀吉、家康。
三英傑と呼ばれる彼らにさえ、それぞれの長所と短所があった。
他にも、乱世で出会った仲間たち、敵たち……。戦国の世だからこそ、多くの人間たちはその個性を剥きだしにして生き続け、流星群のように俺の前へと現れては消えていった。
心に弱さを抱えた若い時代の織田家の仲間たちが、桶狭間山の頂に向かって挑みかかり、勝利を得た日を覚えている。
あるいは大胆不敵にして、暴虐の限りを尽くしていた熱田の銭巫女や、俺に対して怨恨の情を抱いていたあの未来が、哀しみと弱さを抱えていたことも知っている。
「だからこそ、仲良くなろうと思えばきっと誰とでもなれる。敵になって戦ったとしても、必ず勝つことができるだろう。……それが俺なりに、弥五郎として俊明として生きた人生の中で得た教訓だ。
どれも人間のすることだ。どんな場所でも、いかなる国でも、遠い過去であろうと未来であろうと、なにもかもが、強く、あるいは弱い人間のなすことだ。そのことだけをよく覚えて、お前たちはお前たちなりの未来へと進んでほしい。
……。
…………」
「俊明」
「弥五郎!」
伊与とカンナが声をかけてくる。
だが、もう俺には半身を起こす力さえなかったのだ。
「伊与。カンナ。……ありがとう」
ふたりに向けて、その言葉を向けた。
「また会おうな」
その瞬間だ。
遠い、はるかに遠い星空の彼方から雷鳴が聞こえた。
呼んでいる。誰かの声だ。五右衛門か、次郎兵衛か、それとも……。
藤吉郎?
……藤吉郎さん、あなたなんですか。
なんでまた、そんなところにいるんです。
ああ、また上総介さまから奇妙な主命をくだされてきたんですね。
待っていてくださいよ。
俺がまた作るか買うか、やってみせますから。
なにがご入用です? 兵糧ですか? 鉄砲ですか? あるいは……
――いや、弥五郎。
藤吉郎さんの声が聞こえた。
――もう、我らに武器はいらんぞ。
その言葉を聞いた瞬間、俺は、思い切り笑った。
強く、活力に満ちた笑顔。俺だって――
俺だって、死ぬ間際に、笑うことができるんだ。
手を伸ばす。
すると友は、確かに俺の右手を力強く握ってくれた。
肉体が風となり、やがて雷光へと変化する。
俺はただ、俺になって、俺という無形となって、雲を貫き天空の果てにある星座に溶け込んでいった。
1599年(慶長4年)8月18日、午後8時42分。
この瞬間をもって、戦国時代の商人弥五郎、こと山田俊明の生命は完全に終焉を迎えた。
次回の投稿は来年、1月9日の夜になります。
来年1月中に最終回を迎えます。
立志伝も、あと少し。




