第七十六話 まだ何者でもなかった遠き日々、そして
俺はマカオの屋敷に落ち着くと、すぐに机に向かった。
徳川家康への文を書くためだ。
手が震えるが、筆を握り、ゆっくりと文字を綴る。
窓から差し込む陽光が、紙を優しく照らす。外では、孫の仁がなにやら庭で声をあげている。
あの少年の面影が剣次おじさんにそっくりで、心がざわつくが、いまは集中しなければ――
と思ったそのときだ。
牛神丸が部屋に入ってきた。
息子は肩幅が広く、髭をたくわえたたくましい男に成長している。マカオの陽灼けした肌が、商人の苦労を物語る。
「父上、俺はいま、マレー半島にあるパタニ王国と商いをしております。パタニ王国も日ノ本と友好、交易を望んでおります。ぜひ、このことを徳川様にお伝えください」
牛神丸の声は自信に満ちている。
俺はうなずき、机の上の文を指さした。
「分かった、ちょうどいま文を書いているから、そのことも書いておこう。……牛神丸、よくぞここまで育ってくれた。今後、徳川家と諸外国との商いはお前が中心になってやれ」
「お任せあれ。父上はもう、寝ていても構いませんよ」
「言ってくれる……」
俺は苦笑したが、息子の強気な発言がじつは嬉しかった。牛神丸は俺の血を継ぎ、商才を発揮している。マカオで揉まれ、交易の道を切り開いている姿が誇らしい。
「徳川家は今後、必ず諸外国との交易に大進出をしてくる。朱印船貿易というやつだ。お前はマカオとパタニだけでなく、シャム、カンボジア、マニラなどにいまから進出して、より深く繋がりを作っておけ。こうすることで日ノ本のため、徳川のため、そして神砲衆のために利潤を得ていくのだ」
ここまで言うと、俺は軽い頭痛を感じて目を閉じた。体が熱い。微熱がまたぶり返したようだ。牛神丸の顔が心配げに近づく。
「父上。……お休みくだされ」
「ああ。……あとはカンナとよく話してくれ。商いのことについては、俺よりも母さんのほうがよほど識見に富む。何事も万事、手抜かりなきように……」
ひとやすみ――
と思ったら、もう夜中になっていた。
妙な時間に覚醒したものだ。年寄りの身体は不便でいけない。
しかし、目が妙に冴えているものだから、俺は油に火をともして、手紙をこのまま書くことにした。
文の内容は、約束の話だ。
俺は家康に、東南アジアの交易利権を優先的に与える。
その代わり、豊臣宗家とその家臣団、そして日本の泰平を任せる。
1599年のいま、日本は徳川家康の台頭が始まっているはずだ。俺の未来知識では、来年、1600年には関ヶ原の戦いが起こり、家康が勝利して天下を握る。文には、そんな史実を踏まえつつ、警告と信頼を込めて書いた。
「徳川殿、弥五郎です。マカオに無事到着いたしました。約束通り、東南アジア交易の利権を徳川家に優先してお渡しします。マカオ、パタニ、シャム、カンボジア、マニラ――これらの地との繋がりを、神砲衆が仲介いたします。絹、香辛料、銀、刀剣……莫大な利潤が徳川家にもたらされるでしょう。私の長男である山田牛神丸がすべてを熟知しております。ご不安なく、お任せください。
その代わり、豊臣宗家とその家臣団の命をお守りください。秀頼様の未来を、泰平の世を、任せます。石田三成殿の動向にはご注意を。また豊臣恩顧の家臣らの不満が爆発すれば、政情はさらに揺らぎます。戦いが起これば、家康殿の勝利を信じますが、可能な限り血を流さぬよう。俺は海の彼方から、見守っています」
自分で書きながら、笑ってしまった。
「これでは、まるで遺言だな……」
俺はベッドに横になり、目を閉じる。
マカオの喧騒が、遠くから聞こえてくる。
数時間後、夜明けがおとずれた。
俺は七海を呼び、彼女に文を託した。
家康の元に届くまで、数ヶ月かかるだろうが、それでいい。
俺の役割は、もう終わりに近づいている。
マカオにおける俺の仕事は、もうなにも残っていなかった。
樹と牛神丸が商務を行ってくれて、七海がその下で働いている。レオンと玉香が外国人との交渉役を務めている。この役割分担がしっかりできているので、もう俺が出ていく必要はないわけだ。俺はただ、寝て、起きて、食事を摂るだけの日々を送るようになった。
日本国内の情勢が知りたい、と牛神丸が来るときもあったが、これについても伊与やカンナが回答していた。秀吉が没する前後、俺は秀吉や豊臣宗家のことにかかりきりだったため、伊与やカンナのほうが日本の情勢に詳しかった。カンナは我が子、牛神丸に詳しく説明をしていた。俺はそれを横で聞きながら、静かにうなずくだけだ。
いよいよ老兵はただ去るのみ、という気持ちになったが――
これも、家族たちが、疲れ果てている俺に気配りをしてくれているのだ、と分かった。
マカオの海を眺めながら、俺は潮風にただ身を委ねる。
海の向こうに、日本がある。家康が今頃、何を思っているだろうか。
まもなく江戸幕府を開く。とにもかくにも泰平の世が来るはずだ。
俺の願いが、叶うことを祈る。
そんなある日、仁がやってきて、俺の世話をしてくれたあと、
「もう17になります」
と言い始めた。
なんの話だと思っていると、
「おじい様は12、13の齢の時分、すでにひとり立ちされていたと聞きました」
「まあな」
「おばあ様も、カンナ様も」
伊与がおばあ様と呼ばれていることに、多少のおかしみを感じながら、
「それも、そうだ」
「太閤様もそうであったと聞きます。まだ、織田信長公も18か9のうちに大名になられたと」
「ひとり立ちしたというより、させられた、というほうが正しいだろうな。藤吉郎も、信長公も。……俺たちも、だ。……できれば俺は両親と仕事をして、もっと大きくなって自立したかった」
「野盗に村を焼かれたとか。……しかし、そこからひとり立ちして商いを始められたのはお見事です。私は17になってもまだ、父上、母上の手伝いがやっとで」
「普通はそうだ。焦ることはない」
俺だって前世では、17歳のときにはアルバイトさえしていなかったからな。仁の瞳は剣次おじさんにそっくりで、俺の心をざわつかせる。あの人は孤独に生きた。仁には、そんな道を歩ませたくない。
「しかし私は自分が不甲斐ない。おじい様、ご教示ください。ひとり立ちして立派になるには、どうしたらいいのでしょう。なにを大事にするべきでしょう。道具作りですか、お金を稼ぐことですか、物知りになることですか。それとも――」
「……縁を大事にしろ」
「縁」
「ひととの縁だ。俺は伊与と幼馴染で、カンナと若くして知り合った。もし伊与とカンナと知り合ってなかったら、12歳でひとり立ちなど、とてもできていなかっただろう。それに藤吉郎――太閤秀吉と出会っていなければ、まったく違う人生になっていただろうな」
「私は友が少ない。それに太閤殿下やおばあ様のような見事な友がいるかというと」
「それはよくない。その心得は、改めよ。少なくとも、いまいる友を大事にせよ。……伊与もカンナも藤吉郎も、出会ったときはまだ、何者でもない小僧であり小娘だったのだ。この俺自身もな」
俺は、孫を見つめて、
「それに。……何者であろうとなかろうと、見事であろうとなかろうと、良き友だと思うならばこれを大事にせよ。……俺は伊与やカンナが――仲間たちが、例え仕事の仲間とならなくても、友であり続けただろう。そういう友と巡り合えたことが、俺にとっては百万貫にも勝る宝物だったのだ」
「…………」
「伝えたぞ。人との縁を大事にせよ。そうすることが、お前にとってきっといい将来に繋がる」
孤独に亡くなった剣次おじさんに似ている仁だからこそ、俺は思わず、そう言ってしまった。
ひとりで生きて、ひとりで死ぬのもそれはその人の自由である。その人がそう望むのならば、口出しをする権利はない。
……しかしな、仁。
お前にそっくりなおじさんは――おそらくお前の前世は、ひとりで亡くなったことを悔いていたのだよ。
そこで俺は、ふと気が付いて、
「太閤の息子と、豊臣秀頼と、もしも――本当にもしもだが、巡り合うときがきたら、よき友になってやれ。年齢はひとまわり近く違うが、……友になれるなら、なってやってくれ。俺と藤吉郎がそうなったように、な」
俺は思ったのだ。
あの豊臣秀頼は、守るものはたくさんいるが、友と呼べる存在はいるのだろうか。
いないとしたら、やはりこれは悲しいことだと思うのだ。一緒に遊び、悩み、傷つき、育っていける友がいないのは――
だったら、そこに仁がいてやれば。
少しは、なにかの救いになるかもしれない。
藤吉郎。
これが俺にできるせいいっぱいだ。
笑ってくれ……。
「かしこまりました。ご教示、ありがとうございます。おじい様……
…………
おじい様……?」
仁が奇妙な声をあげた。
なんだ、と俺は言おうとしたのだが――
その瞬間だ。
感じたことのない激痛が、背筋を走った。
視界が急に暗くなる。頭がよがむ――よがむ?
どういう状態だ?
叫び声にも似た音が聞こえた。
いま、俺は、どうなった? どうなって――
「て、て、て……テテテ……」
俺は思わずせき込んだ。
つもりなのだが。……本当にせき込んだのかどうかも、実はよく分からない。
俺は――
俺は、真っ暗になった世界の中に、孤独な意識を漂わせた――




