第七十五話 夢と幸福の頂き
俺が乗った大型船は、ようやくマカオの港にたどり着いた。
1599年、夏の始まりの時期だ。
船旅は長く、弱り切っていた俺の体には堪えた。微熱が続き、足腰が震える日々が続いていたが、それでも生きてここまで来られた。伊与やカンナの優しい看病――というか介護というか――のおかげで生きていられることは、言うまでもない。
津島から出航して以来、海の上で何度も過去を振り返った。
秀吉の死、前田利家の最期、そして信長公の時代から始まった長い旅路。
すべてが、夢のように遠い。
そして、
「弥五郎、着いたよ。マカオばい、マカオっ」
カンナの元気な声が、船内に響き渡る。
「着いたか」
俺はゆっくりと立ち上がり、船室を出て、甲板に向かった。
船が港に近づいていく。マカオの風景が広がっていた。
明国風とポルトガル風の建物が折衷で立ち並び、異国情緒が漂う。
俺は甲板に立ち、風を吸い込んだ。
潮の香り――そして、茶葉や香辛料の匂いもする。
体がふらつくので、伊与がそっと腕を支えてくれる。カンナも隣にいて、俺の肩に手を置く。彼女たちの温もりが、俺の心を落ち着かせる。
「父上、着きましたよ。船からは縄ハシゴで降ります」
樹の声が、船から響く。
「できますか?」
「ああ。……なんとか、してみせる」
まったく年は取りたくないもんだ。
ここまで、自分の身体が自分の言うことを聞いてくれないようになるとはな。
よくこんな俺が、戦国乱世を生き抜いたものだ。……はは、心の中で思わず笑っちまう。
船が停泊し、縄ハシゴが下ろされた。
俺は縄ハシゴに手をかけるが、
「父上。私が下でお支えします」
牛神丸が先に縄はしごに飛びつき、少し下りたところで、太い腕をもちいて、いままさに下りようとしている俺を支えてくれた。
牛神丸だけでなく、神砲衆の若い衆も、みんなで俺を陸に下ろそうと努力してくれる。ありがたい。おかげで俺は、マカオの大地を両足で踏むことができた。
「ふう……皆、ご苦労だった。伊与とカンナも頼む」
「馬鹿にするな、俊明」
伊与は、するするとハシゴを下りてきた。
カンナもだ。
「あたしたちはまだ、それくらいの体力は残っとるけんね」
「はは、そいつはうらやましいな。俺はもう、いよいよダメだ」
「父上、いま少しご辛抱を。……こちらをどうぞ」
牛神丸が杖を差し出してきた。
俺は笑みを浮かべて受け取る。
「牛神丸。ずいぶんと気が利くようになったじゃないか」
「ははは、マカオで揉まれましたからね」
「童のころはきかん坊で、どうなることかと思うたけどねえ」
母親のカンナがニコニコ笑って、言った。
俺は杖をつきながら、ゆっくりと歩く。足元が揺れるが、なんとか踏ん張る。
港の喧騒が、耳に心地よい。商人たちの声、荷物の音、海鳥の鳴き声。すべてが活気に満ちている。
「マカオだ……」
日本より明らかに温かいこの場所で晩年を過ごすのは、身体に優しくていいかもしれない。日本は――特に日本の冬は、寒さが老いた骨身にしみるからな。
と、感傷にふけっていると、マカオの町の奥から二十人ばかりの人間がやってきた。
見覚えがある。俺の部下たちだ。まず、日本人女性がひとり――「おお、七海……」と俺は思わず声をあげた。彼女は笑顔で俺たちを迎える。
七海の隣には、ポルトガル人の友人である商人のレオンが立っていた。背が高く、髭をたくわえた男だ。その妻は明国人の玉香で、穏やかな笑みを浮かべている。
「玉香! レオン!」
カンナが涙を浮かべて、やってきた玉香に抱き着いた。
玉香は目尻のしわをいっそう深くして、
「カンナ。良かった。良かったよ。もう二度と会えないと思っていた……。よく、生きて帰ってきたね……」
「うん……なんとかね……」
「……レオン」
俺は、一歩、前に出て、
「船の中で樹に聞いた。……娘たちが世話になったそうだな。……ありがとう。心から感謝する。……そう。……Muito obrigado……」
俺はポルトガル語でお礼を言った。
すると、レオンはうなずいて、
「気にするな。自分も……ワタシも……イツキたちには助けてもらった。……見ての通り、ジジイだからな……」
たどたどしくはあったが、しかし俺にも分かる日本語でレオンは礼を言ってくれた。俺は、笑った。
「老けたな、お互いに」
「まったくだ」
思えばこのレオンとも、玉香とも長い付き合いだ。
桶狭間の戦いの前年あたりに確か知り合ったから、もう40年にもなるか。
秀吉と違い、何年かに一度しか会わなかったような関係だが、それでも交友と取引が続いた。そういう友情も、世の中にはあったわけだ。
そして――
「……みんな、よくここを守ってくれたな」
俺は他の部下たちを見回した。
彼らは俺の留守を埋め、商いを続けていた。
これも樹から聞いたが、彼ら彼女らは絹の交易、香辛料の売買、南蛮の道具の輸入をずっと続けてくれたのだ。神砲衆はもはや俺一人のものじゃない。子供たちが、部下たちが、支えてくれたんだ。
そのときだ。
部下たちの奥に、高校生くらいの、瞳の大きな少年が立っていた。
俺は一瞬、息を飲んだ。
そっくりだった。
顔立ち、雰囲気、すべてが。
転生前、21世紀の日本で、俺に武器や道具の作り方を教えてくれた、そしてひとりで孤独に死んでしまった剣次おじさんに。年齢こそ違うが、その面影は確かに――
「剣次おじさん……?」
俺は思わずつぶやいた。
心臓が激しく鼓動する。
だが、おじさんなわけがない。
あの人はもういない。この少年は俺の孫、仁だ。
伊与と俺の娘、樹の子。
孫がいる。あの幼かった孫が、こんなに大きくなって……。
「じ、仁……」
俺の声がかすれる。
仁は少し緊張した顔で、俺に近づいてくる。
瞳が大きく、優しげだ。剣次おじさんの面影が、重なる。
なぜこんなに似ているのか。
運命か、それとも俺の幻覚か。
あるいは――おじさんの転生した姿なのか?
「仁っ」
俺は、感極まって、
「弥五郎、あんた、ちょっと……!」
カンナが慌てたのも分かる。
なにせ俺は杖を、その場に放り投げたのだ。
ガランと音を立てて、杖が地べたの上に落ちる。部下たちがざわつく。
伊与も、声を大きくさせて、
「仁、待て。杖を落とした。少し待て――」
「杖はいらない! 俺はまだ自分の足で立って、孫と会うことができる!」
俺はふらふらになりながらも、必死に足腰をふんばらせ、仁の前に立った。体が震えるが、構わない。ここまで生きてきたんだ。最後の力で、自分の足で、孫を抱きしめたい。
「仁だな?」
「……はい、おじい様」
仁の声は少し震えていた。十六歳の少年だ。立派に育った俺の孫。血がつながっている。俺の人生が、ここに続いている。おじい様、なんて年寄り扱いを受けても、ちっとも不愉快じゃなかった。
「大きくなったなあ! おおきく……俺の孫が、こんなにおおきく……」
俺は仁の肩に手を置き、涙を堪える。
仁は俺の手をそっと握り返し、
「お帰りなさいませ。マカオの神砲衆は、おじい様の留守をしっかりと守りました。母上に、叔父上に、みんなが頑張って――」
「そのようだ」
俺は周りを見回した。マカオの陽気の中で、部下たちが俺に視線を送る。神砲衆は――俺が作った武装商人集団は、俺がいなくても立派にやっていけていた。特に子供たちが頑張ってくれていた。日本どころかはるか異国の地にまで、商いで頑張ってくれていた。そしてこうして俺を出迎えてくれた。それがたまらなく嬉しかった。
「父上、改めまして。お帰りなさい」
樹が俺に抱きつき、牛神丸もそのそばに立つ。伊与とカンナも、笑顔で俺たちを囲む。レオンと玉香が、拍手する。部下たちが歓声を上げる。港の空気が喜びに満ちる。
「仁……よく、大きくなってくれた。……樹。牛神丸。よくここまで頑張ってくれた。……伊与……カンナ……。……みんな、本当に、本当にありがとう……」
俺の声がかすれる。
親友の秀吉と共に、天下を統一し。
愛する女性と子をなして、いまや子孫が立派に育った。
そして家族と仲間と共に。
俺はいま、太陽の光の下で――
剣次おじさんにそっくりな仁の面立ちを見ながら、俺はかつてのおじさんの言葉を思い出した。あの人は俺にすべてを教えてくれた。武器の作り方に道具の知識。
そして、最後の願い――
はるか昔、確かに聞いた、おじさんの思念からの言葉を思い出す。
――俊明、頼む。剣次から受け継いだ能力を、この時代で活かしてくれ。そして剣次の分まで、どうか幸せになってくれ。
――剣次は社会から踏みにじられ、誰からも愛されず、ひとりぼっちで死んでいった。強くありさえすれば、強くありさえすれば、と、そう思いながら。武器から得られる強さなんてまがいものだ。それは分かっていたが、それでも、はりぼての強さだと知りつつも、剣次はその強さを求めずにはいられなかった。そして本当の強さを得られないまま死んでしまった。
――お前はそうはならないでくれ。剣次から受け継いだ能力で、今度こそ幸せを手に入れてくれ。そしていつか、本当の強さを身につけてくれ。頼むよ。負けたままで終わらないでくれ。おれたちのような人間でも、強くなれるんだ。勝者になれるんだ。
――幸福を手に入れることができるんだって、それを証明してみせてくれ――
「おじさん」
この景色こそが幸福そのものだよ。
剣次おじさん。
俺は仁を抱きしめた。
孫の体温が俺の胸に伝わる。
家族の笑い声が周囲に響く。マカオの空は青く、海は穏やかだ。
俺は――
何年も、何十年もかかったが。
俺の夢を、幸せを、望んでいたものすべてを、手に入れた。
実感した。
いまこの場所こそが、戦国商人立志伝の頂きだ。




