第七十四話 さようなら、日本
津島である。
「戻ってきた……」
「ああ……」
「うん……」
「ええ……」
俺の言葉に。
伊与が、カンナが、あかりが。
それぞれ、感無量の声をあげる。
無理もない。
すべてがなつかしい。
なつかしすぎるのだ。
津島は大樹村を出た俺が商売を始めた場所だ。
シガル衆に滅ぼされた村を出て、カンナと出会って、津島の宿『もちづきや』に逗留して、伊与と再会して、やがて儲けたお金で屋敷を買い、神砲衆を作り上げた。
信長公が岐阜に移るまで、この町が俺の基盤だった。
あの頃の賑わいが、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。蜂須賀小六に絡まれたり、滝川一益の酔っ払いっぷりを見たり、怪しい硝石売りと出会ったり、そして、そして、藤吉郎が事あるごとに俺の居場所へ尋ねてきて――
すべては、この町から始まったんだ!
「下りる。おろしてくれ……!」
輿から降りた俺は、杖をつきながらゆっくりと歩き出した。
春の陽光が優しく肌を温めるが、体が重い。微熱が続いているせいか、足元がふらつく。伊与が俺の腕を支え、カンナとあかりが後ろからついてくる。護衛の侍たちが周囲を警戒しているが、この町は穏やかだ。
秀吉の死後で世間はざわついているはずだが、津島はまだ静かだ。家康の台頭が始まり、政情が不安定になる頃だが、そんな気配はここにはない。まるで、俺たちの帰りを待っていたかのように。
「帰ってきたのですね。この場所に」
あかりが、静かに言った。
彼女の声はいつも優しく、俺の心を落ち着かせる。
俺はうなずいた。
「ああ。ここが俺たちの始まりだった。みんな、覚えているか?」
「忘れるわけがないわ。ここから、すべてが始まったんよね」
カンナが、金色の髪を揺らして笑った。
彼女の碧眼は今も変わらず美しい。
津島の人々は俺たちを見て、ちょっと不思議に思ったようだ。旅人のわりには、供の侍も連れているし、それに俺たちは輿に乗ってやってきたからだ。どこかの金持ちか、身分の高い侍か、と思われても仕方がないが、そのときだ。
「見て、あのひと」
若い女たちが、カンナのほうを見た。
「髪の毛が金色よ。南蛮のひとかね」
「南蛮のひとがこんなところに、何の用事かねえ」
「あは。……こげなところまで、昔といっしょ」
カンナは笑った。
初めて津島に来た時、まだ12歳の少女だったカンナはその金髪碧眼をそうとう奇妙な目で見られていた。
それからしばらくして、津島に定住することで、多くの人たちがカンナに慣れていったのだが――俺たちも、津島から本拠を移してもう十何年、いや二十年以上になるからな。知らないひとがいるのも無理はない。
「いや、あの人は蜂楽屋のカンナさんじゃ」
「山田さまと、堤さまもおられる」
「あっちはもちづきやの娘さんじゃあ」
「弥五郎さんじゃわ。津島に昔おった……生きとったんかあ!」
昔を知る津島の人たちが騒ぎはじめ、俺たちのところに集まってきた。俺は思わず、胸が熱くなった。こんなに多くの人が、俺たちを覚えていてくれたのか。
「弥五郎さん! 弥五郎さんじゃないかあ!」
一人の老人が、興奮した声で駆け寄ってきた。顔に見覚えがある。昔、もちづきやに水を運び込んでいた商人だ。
「弥五郎さん、あんた、太閤様に逆らって亡くなったとか噂されていましたよ!?」
「あらあら……本当に弥五郎さんじゃわ。伊与さんもカンナさんも、変わらないわねえ」
周囲から声が飛び交う。俺は微笑を浮かべて、ゆっくりと頭を下げた。
「皆さん、お久しぶりです。帰ってまいりました。太閤殿下とは確かに行き違いをしましたが、最後はまた殿下のところへ戻って、その最期を見届けました」
「あらあ……そんなこと……」
「太閤様と山田さまは仲がよかったからねえ」
「へえ~。じいちゃんが、太閤様の若いころを知ってるって言ってたのは本当だったんだ。太閤様は昔、木下藤吉郎という名前で、この津島の山田屋敷によく来ていたって」
「ほれみい。わしの言うことは本当じゃったろうが」
「ほんになつかしい。あのころは大橋様もいらっしゃったから」
津島人たちが懐かしそうに俺によってくる。俺は一人ひとりの顔を見て、昔の記憶を掘り起こした。胸が、懐かしさと切なさでいっぱいになる。
「マカオで交易をやって、マカオの神砲衆として名を馳せたって聞きましたよ。太閤様の出兵に反対して逃げたって本当ですか?」
「まあ、そういうこともありました。でも、いまはすべて終わったんです。俺は――俺たちはただ、懐かしい場所に戻ってきただけだ」
「まあ、まあ。ようこんな町に、また」
「いよう、お帰りなさい、山田弥五郎!」
人々が笑い、拍手する。
俺は心から嬉しかった。
この町の人々が、俺たちを忘れていなかった。
それだけで、もうなにもかもが幸せだった。
それから――
俺たちは、樹の船が来るまで津島の宿に滞在することにした。
昔のもちづきやの近所に、簡素だが清潔な宿があったのでその家に泊まった。徳川家康がつけてくれた護衛の兵にも、ここで別れを告げた。
「マカオに戻ったら、また使いを出す。……あなたが作る天下の泰平を、はるか海の彼方からずっと見ている。……そのように、伝えてくれ」
俺は、去ろうとしている護衛の兵に、家康にそう伝言するように言ったのであった。
そして翌日。
宿の二階に、俺はいる。
あかりが淹れてくれた白湯を飲みながら、窓の外、津島の海を眺めていると、あれから何十年も経ったなんて嘘のような気持ちになってくる。海風が頰を撫で、塩の匂いが懐かしい。
そして俺は立ち上がり、もちづきやの跡地へと向かった。ひとりで行くつもりだったが、
「山田さま、どちらへ」
と、あかりが気が付いて、ついてきた。
「もちづきやの跡地だよ。一緒に行くかい?」
「当然です。もちづきやに行くのに、なぜ、わたしを置いていくのですか。寂しいです」
「なに、ちょっと私用があってね。……ああ、来てくれたついでにお願いがある。酒を買うから、持ってくれると助かるな」
こうして、俺は酒屋で酒を買い求めると、あかりに持ってもらって、そのままもちづきやの跡地へと向かった。
跡地は今、ただの空き地だ。
草が生い茂り、昔の面影はほとんどない。
だが、俺の記憶の中では、ここが賑やかな宿だった。
台所で湯漬けを作るあかりの姿、滝川一益の笑い声、次郎兵衛の軽口……。
「あかり、ここでいい。酒を貸してくれ」
俺は酒を受け取ると、地面に注いだ。
酒の香りが、春風に混じる。
「本当は――」
俺は、小声で言った。
「赤塚におもむいてこの酒を捧げたいが、もう体力がない。だから、あなたと初めて出会ったこの場所で。これで勘弁してください」
「どなたに捧げたお酒ですか?」
あかりが、静かに尋ねた。
「青山聖之介さんに」
あかりは、はっとした。
「あのとき、もちづきやにやってきたお侍様――」
「そうだ。俺とも心を通わせ合ったが、赤塚の戦いで討ち死にされた」
俺は青山さんのことを忘れるわけにはいかなかった。
あの人のことは。転生して、俺が作った武器や道具を戦国時代の人々に売ったり譲ったりして、その結果、友といえた青山さんを亡くしてしまった。
あれから五十年近くが経った。それなのに、俺はまだ、あのときのことを忘れることができない。青山さんの最期の表情が、脳裏に焼き付いている。
「青山さんのことを、覚えているひとはもう少ないだろう。大樹村と同じように、きっと歴史の中に埋もれていく。だが俺は忘れない。例えこの身は再び滅びようとも、決して忘れない。ぜったいに」
「わたしも忘れません。山田さまと、伊与さんとカンナさんと――皆さんと共に過ごした日々のことを」
俺はうなずいた。
あかりの言葉が、心に染みる。
それからあかりとふたりで、宿に戻る途中、彼女は言った。
「わたしは日ノ本に残ります」
突然の言葉に、俺は足を止めた。
春の陽が、彼女の顔を優しく照らす。
「山田さまが無事に津島を出港したあと、わたしは家族のもとに戻ります。家族を残してきているんです。山田さまとも伊与さんともカンナさんとも、長い間一緒に過ごせて楽しかったです。……でも、残りの人生は、家族と過ごしたい」
「あかり……。そうか……そうだったな。家族が……」
俺は頭を下げた。
彼女の決意を、尊重するしかない。
「一度は袂を分かったのに、俺のためにここまでついてきてくれて、ありがとう。心から感謝している」
「いいえ。わたしの願ったことですから」
「家族はいまどこへ?」
「実は、大坂にやってきているそうなので。山田さまをお見送りしたあと、津島から越前を経由して大坂に参ります」
「越前? どうして――あ」
「そうです。滝川さまのお墓があるので、お参りしていこうと思います」
「そうだったな。……頼む。俺の分まで参ってきてくれ」
「そういたします」
「本当は、もっとたくさん、挨拶しないといけない人がいるんだ……」
俺は首を振った。
「信長公に、内蔵助(佐々成政)に、竹中半兵衛に、丹羽さんに柴田さんに未来に……たくさんいる。たくさんいすぎる」
「心はきっと伝わっていますよ。大丈夫です、山田さま」
「……旅は、大丈夫か? 津島から越前、大坂……危険はないか」
「これでも山田さまと共に、数々の修羅場をくぐったもちづきやのあかりですよ? 旅くらいは、なんてこともありません」
「それもそうだ」
俺は、久しぶりに笑った。あかりだって、俺と一緒に何十年も戦ってきたひとだからな。彼女の強さは、知っている。
「……ありがとう」
「山田さま」
「本当にありがとう。この時代で、君に会えてよかった」
「わたしもです。山田弥五郎さま」
やがて4月になり、大型の船が津島にやってきた。
沖合に停泊し、小型船が何艘も津島にやってくる。
樹が船から下りてきた。異人みたいな服を着ている。マカオで暮らす彼女は、もうすっかり南蛮風だ。
「父上え! 母上え!」
樹が、興奮した声で駆け寄ってきた。俺の娘だ。伊与の面影を受け継ぎ、美しい女性に成長している。
「樹!」
「樹……」
俺と伊与が、声を揃えて呼んだ。樹は、本当に心配した、いままでなにをやっていたのかと怒りながら、俺たちに次々と抱き着いた。カンナにも抱き着いた。すると、樹から一歩遅れて、俺とカンナの間に生まれた牛神丸もやってきて、「久しぶり、親父」なんて言ってくる。
「牛神丸。少し見ない間に、ずいぶんたくましくなったじゃないか」
「まあね……」
照れたように、息子ははにかんだ。口の周りにヒゲをしっかり生やしたその姿は、もう一人前の男そのものだ。
樹も牛神丸も、いまではマカオでいっぱしの交易商人となっていると聞いた。俺の血を継ぎ、商才を発揮しているようだ。俺がいない間に。親は無くとも子は育つ、か……。
「……そうだ、仁は?」
俺は孫の名前を出した。
「マカオよ。さすがにここまでは連れてこられんもん」
「あいつも大きくなっただろう?」
「数えで十六。もう一人前よ」
「そうか。……早く会いたいな」
そして俺たちは、あかりと最後の別れの挨拶を交わした。
彼女の目には、涙が浮かんでいる。
「山田さま。皆様。お元気で。……お元気で!」
「あかり、本当にありがとう。またな」
「ええ、また。……生まれ変わってまた会ったら、また出会って、また旅をして……また……同じ時間を過ごしましょうね! 五右衛門さんも次郎兵衛さんもいっしょに!」
「もちろんだ! みんな、みんな、また絶対に一緒だ!」
五右衛門の辞世が頭をよぎった。
種は尽きまじ――種は尽きまじ!!
みんな、必ずまた会える。俺が生まれ変わったように。あかりとも、青山さんとも、五右衛門とも次郎兵衛とも、きっと。必ず! 必ずだ……!
「父上、小舟を出します」
樹が、言った。
俺は感極まりつつも、首肯した。
「あかり」
「あかり。……またねえ! また……また会おうねえ!」
伊与とカンナも、ただ手を振って、津島の町とあかりに別れを告げた。
こうして俺たちはあかりと別れ、マカオに向けて船を出航させた。船はゆっくりと津島の港を離れ、海へ進む。俺は甲板に立ち、風を感じる。体が弱っているが、この瞬間だけは、生きている実感が湧く。
もう……。
もう二度と、今生において、日本に戻ることはないだろう。
船は遠く海に進み、水平線のかなたに日本列島の線がうつる。
あれが、俺たちが統一した日本だ。俺が秀吉が信長公が、多くの仲間たちが、あるいは敵が、兵たちが、多くの民が、血みどろに戦い、傷つき、苦しみ、そしていまようやく、泰平の兆しを見せ始めている日本だ。
さようなら。
さようなら、日本。
また、魂が巡り巡りて、もう一度出会う、その時まで――




