第七十三話 旅路の果て
前田利家の死を見届けた俺は、津島へと旅立つ。
この年の4月には、後陽成天皇から秀吉に、豊国大明神の神号が与えられるはずだが、それは俺にはもうどうでもいいことだった。
あいつは神じゃない。
俺にとって秀吉は、あくまでも生身の人間であり、友だったのだ。
俺、伊与、カンナ、あかりの4人は輿にのって、大坂城から津島へと向かっていく。輿をかつぐ人間や、護衛の侍が10人ほどついたが、これは家康が手配してくれた侍たちだった。
それにしても秀吉亡きあとの世相は殺伐としていて、例えば加藤清正や黒田長政らの武将が石田三成を襲撃するなどの事件も起きていたが、しかし少なくとも俺の使う街道は穏やかだった。
いい日和だ。
春の陽気が体に優しい。
輿の中で、俺は目を閉じて揺られる。
道中、安土のあたりで休憩を取った。
信長公が築いた安土城の跡地近くだ。
城はもうないが、周辺の風景は変わっていない。
伊与とあかりが、沢へ水を汲みに行った。
俺とカンナは、隣同士で石の上に座った。
春風が、草木を優しく揺らす。
カンナの横顔は、昔のまま美しい。
人間だから老いるのは当然だ。けれども彼女の美しさは、そういうことではなくて――心から溢れ出る美しさだと思うのだ。
「この道も」
そのときカンナが、静かに言った。
声に、優しい響きが混じる。
「さっき通った橋も」
「ん? ……」
「あんたが、力を尽くした」
「……ああ」
カンナの言葉に、俺は目を細めた。
商人として諸国を駆け巡り、商いを行い、物を運び、売りさばき、新たな産業を興したり武器や道具を作ったりした。
信長公や秀吉に提言して、新しい道ができたこともある。そう思うと、道のひとつひとつが、橋が、建物が、行き交う旅人たちが、草が木が花が、見るものすべてが自分の子供のようにいとおしく思えた。
この世界で、俺は本当に生きてきたのだ。
「思えば、すべてが美しい。俺は転生する前、世界は俺のいるべき場所じゃないと思っていた。だがいまは、すべてが――」
「あたしだってそうよ。世界の全部が敵やと思いよった。でもね、いまは――いまはすべてが大好き」
「どうして、世界の美しさにこの年齢まで気付かなかったんだろうな」
「美しく思えるのは、あんたが頑張ったけんよ」
「そうかな。……そうかもな。だが頑張ったのは俺だけじゃない。カンナも、伊与も、あかりも。……誰もが頑張った」
「そう思えたなら、それが一番よ」
そのとき、伊与たちが戻ってきた。
水の入った竹筒を手に、伊与が俺を見て言った。
彼女の目には、優しい光が宿る。
「俊明。提案がある。このまま行けば私たちは大樹村の近くを通る。寄ってみないか」
それは魅力的な提案だった。
俺はうなずいた。心が、懐かしさで満ちる。
「そうだな。行こう」
俺たちは、尾張国の大樹村跡地についた。
ここはかつて俺と伊与が育った場所だ。
そして野盗集団シガル衆に焼き討ちされ、すべてを失った場所でもある。
いまはもう、ただの野原だ。
荒れ果てた元田んぼが目についた。
それだけではない。俺と秀吉が誓いを立てた大樹さえもが切り株となっていた。
木の根元に座り、俺は周囲を見回した。
春の草が優しく風に揺れている。
胸が、痛む。失われた村の記憶が、鮮やかに蘇る。
幼い頃の笑い声。
家族の温もり。
すべてがここにあったのに。
「なにもかも、変わってしまった」
伊与が静かに言った。
声に、寂しさがにじむ。
「あのときの村人たちを、覚えている者がいるだろうか。私たちが亡くなったら、もう……」
「それは俺たちだってそうだ。俺たち神砲衆だって、いつかは忘れ去られていく。だが、残ったものもある。俺たちが戦い抜いた日々は必ず、いくとせもの月日が流れた未来に心となって伝わると、そう信じている」
「二十一世紀の世界に、か?」
「ああ。そして、さらに遠い未来にも」
信長公や秀吉や、あるいは多くの武将たちには遠く及ばないだろうが、それでも俺たちが戦い抜いた日々は、はるか遠い未来の世界になにかの形で伝わっていくのだと。俺はそう確信していた。
胸に、希望の灯りがともる。
夕暮れが近づき、空が赤く染まり始めた。
美しい赤だ。とにかく今日は目に染みる。
「俊明、夕焼けだ」
伊与が、俺の肩に手を置いて言った。
「……ああ」
「この場所で見る夕焼けは、きっとこれが最後になるだろう」
「……ああ」
幼いころ、俺と伊与。
共に二人で、この大樹村で、夕焼けを何千回と眺めたんだ。
夕焼けなんて、何度でも見られると思っていた。
だが、年を重ねたせいだろう。夕陽をじっと眺めることも、あとはもう数えるほどしかないのだと思うと、たまらなく切ない。まして伊与と一緒となると。胸が、熱く、痛い。涙がこみ上げる。
「……そうだ」
俺は荷物から一丁の火縄銃を出した。
俺の戦国時代における父親、牛松が使っていた火縄銃だ。
長い間、手入れをして使っていたものだ。銃身に刻まれた傷が、俺の人生を物語っているようだ。触れるだけで、父の厳しい視線と、母の優しい笑顔が蘇る。
「父ちゃん……」
俺は、牛松の顔を思い出しながら言った。
尾張の炭売り百姓として、俺を育ててくれたひとだ。……
「長い間、使わせてもらったよ。だからこの場所に、返すからね」
俺は大樹村跡地の切り株に、そっと火縄銃を置いたのだった。
夕陽が銃身を赤く染める。
まるで別れの儀式のようだ。
父ちゃん。
母ちゃん。
ありがとう。
俺と伊与は、この年齢になるまで、生きることができたよ。
「…………」
「…………」
俺と伊与は、ふたりで手を合わせた。
「――いこう」
俺は、ゆっくりと振り返って、言った。
「暗くなる前に、どこかに泊まらないと」
こうして俺たちは旅を再開した。
少しだけ歩いて、輿に乗ろうとしたとき。
ふと振り返ると、切り株の上から、火縄銃がもうなくなっていた。
暗くなったから、見えないだけか?
それとも……
「どうしたん、弥五郎」
カンナが、不思議そうに尋ねてきた。
「いや、なんでもない。……いこう」
火縄銃はもしかしたら、あるべきところに帰ったのかもしれない。
父親と、その隣にいる母親のところへ。
――こんな時間までふたりとも、家の手伝いもせず、どこをほっつき歩いてたのっ!!
――やることなんて山ほどあるのに、まったくなにをしてたんだい。……なに、相撲? そんなことをする暇があるなら薪割りのひとつでも手伝いなさい!!
――お杉、もういいじゃないか。
――弥五郎。伊与。ちゃんと反省したか?
――した。
――した。
――よーし、それじゃ父ちゃんがふたりに餅をやろう。
――お前さんは、また甘いことを……。
50年近く前、確かにあった家族団らんの瞬間をふいに思い出して、俺の目尻がわずかに濡れた。この時代で得た家族の記憶だ。
あの日も、あのときも。
今日と同じように、いい夕焼けで。
いい日和だったな。
「見てください、山田さま。津島です」
翌日の昼、あかりが声をあげた。
道行く先に、津島の町が見えてきたのだ。
懐かしい風景だ。俺が商いを興した場所だ。神砲衆の始まりの地。
春の陽光が、町を優しく照らしている――




