第七十一話 淀殿と秀頼と、そして弥五郎
1599年に入ったばかりのことであった。
1月5日、豊臣秀吉の死が正式に世間に向けて公表される。
秀吉の死はすでに噂として、明、朝鮮にさえ広まっていたが、ここで豊臣宗家ははっきりと、秀吉の死を認めたわけだ。
明、朝鮮にさえ――
俺はその事実を考えると、薄く笑ってしまう。
なぜか? そりゃあ、若いころから知っているやつの名前が外国にさえ知れ渡っている、という事実そのものが、単純に面白かったからだ。あいつも本当に偉くなったもんだ、という純粋な感覚が俺を支配した。
そして1月10日には、豊臣秀頼が秀吉の遺命により、伏見城から大坂城に移ることになったが、俺はまさにその前日、秀頼と対面することになった。
伏見城の奥座敷は、冬の陽光が淡く差し込み、畳に影を落としていた。
秀頼と淀殿が現れた瞬間、俺は畳に膝をつき、ゆっくり頭を下げた。
だが、顔を上げた瞬間、胸が詰まった。
秀頼はまだ幼いが、その顔に、確かに秀吉の面影が残る。
あの少し吊り上がった瞳、好奇心に満ちた輝き。
それは、織田家で一緒に汗を流した、若い頃の藤吉郎そのものだった。
猿のような生意気な笑みを浮かべ、俺に「いよう、弥五郎、いま、暇があるか!」と無邪気に尋ねてくる、あの木下藤吉郎――
確かに実子だ。
血は争えぬものだな。
俺の目が、思わず熱くなった。
涙を堪え、かすれた声で言った。
「若様、お初にお目にかかります。山田弥五郎でございます。亡き殿下の旧友でございます」
「知っておる」
淀殿が秀頼の隣に控え、鋭い目で俺を値踏みしている。
「前田どのの仲介ゆえ、また、かつては豊臣の重鎮であったゆえ、目通りを許したが、元来、そなたは殿下に対する謀反人である。それがなにゆえ、我らの前に現れたか?」
かつては茶々として知られた彼女は、信長公の姪として気位が高い。だが、秀吉の死後、秀頼の母として必死に守っており、その姿勢は本物だと感じた。
俺は直視せず、静かに答えた。
「殿下との約束を、果たすためです」
「約束、とは?」
「お二方に申し上げます。この天下は、いつか大きく動いていく。そのとき、危ないと思ったら、お命だけは絶対に守ってほしい。もし豊臣と、いずれかの大名家の間で争いが起きて、あやうしと感じたら、恥ずかしげもなく逃げていただきたいのです」
さすがに、徳川と戦になるかも、とは言えなかった。
「争いとは容易ならぬことを言う」
受け答えをするのは、あくまでも淀殿であった。
秀頼は、会話の内容が分かっていないらしく、きょとんとしているだけだ。
「もしも、の話でございます。太閤殿下のお働きにより国内の乱世は終焉を迎えましたが、しかしほんの数年前まで国内は戦国の世、また朝鮮との争いも終わったばかりでございます。どこで、火がつくか分かりませぬゆえ」
「怖い話じゃ。あまり聞きとうない」
「それでも、このお話だけは聞いていただきたく存じます」
「聞くとして、では逃げよといってもどこへ逃げるのじゃ。豊臣が負けるほどの大戦となった折、逃げ場所など、どこにもあるまい」
「ございます。……マカオです」
「なに、マカオ? ……外の国と申すか」
「左様。そこには俺も。……そして俺の娘たちもおります。この山田弥五郎も年齢が年齢ゆえ、いつ生命が果てるか分かりませんが、俺が亡くなっていたときには子供たちが必ずあとを継いでくれます。そして、豊臣に万が一のことがあった場合は、逃げるための船を山田家が必ず用意いたします。だから、どうか、なにがあっても、生き延びていただきたい」
淀殿の目が細くなる。
「私の人生は逃げてばかりだ」
それは誰もが知っていることだった。
淀殿、昔は茶々と呼ばれた女性は、実父の浅井長政が敗北したときに小谷城から落ち延びた。次に、義父の柴田勝家さんが敗北したときも北ノ庄城から逃げて、落ち延びたのだ。
「武家の娘が、恥ばかり重ねておるわ」
「恥などではありません。生きることは、正しいことです。生きてさえいれば……」
俺は、一度、息を切ってから、さらに告げた。
「太閤殿下は、あなた方に生きてほしいと、命の最期に願っておられました。俺が、それを繋ぎます。マカオから神砲衆が、何があっても駆けつけます。船団を編成して、必ず迎えにに参ります」
淀殿は少し眉を寄せ、俺の言葉を吟味するように沈黙した。
秀頼は目をぱちくりさせ、無邪気に尋ねる。
「神砲衆? それって、父上の鉄砲衆みたいなものか?」
可愛い声だ。
俺は、秀頼の頭を優しく撫でたくなったが、ぐっと堪え、
「似たようなものです。強い味方です。そして、もう一つ。……真田様のことも信じてほしい」
「真田?」
「ええ。豊臣になにかあったときは、真田家の次男――真田源二郎(信繁)という男ですが……彼は頼りになります。何かあったら、よく相談するように。きっと、あなた様をお守りしてくれるはずです」
「真田源二郎のことは知っている。口をきいたことはないが」
淀殿は、顔色ひとつ変えずに、
「そなたは、真田と親しかったのか」
「ああ、いえ――」
俺は真田家の人間とはひとりとも面識がない。未来の知識で知るだけだ。
しかし真田信繁は、大坂の陣で豊臣の命運を懸けた男。知勇兼備の猛将として、後世に語り継がれる。頼りになる男のはずだ。
「知り合いではありません。ただ、彼の者の知勇は、古今無双と伝わるものですから」
「真田、のう。……蜂須賀、竹中、黒田。あるいは福島、加藤――この子のために働きそうな大名は、他にいくらでもおるが」
「母上。弥五郎どのがせっかくおっしゃっていますから」
秀頼が、おのれの意思を表明するようにしゃべった。
淀殿はきょとんとした。俺も少し驚いたが、すぐに頭を下げ、
「ご忠言を、耳に残してくだされば幸いに存じます」
「分かっている。弥五郎どの、ありがとう」
その無垢な返事に、俺の胸がまた熱くなった。淀殿は一瞬、戸惑ったような視線を俺と秀頼、双方に向けたが、ふと表情を緩め、口を開いた。
「心に残しておこう。信長公も太閤殿下も、あなたのことは絶賛していたのだから。……そう、柴田の義父上様も」
「柴田さんが……」
懐かしい名前が出てきた。
柴田勝家。あの剛直な男が、俺のことを?
意外だったが、嬉しかった。
「義父上が生前、『山田弥五郎は、天下一の商人だ。必ず天下を動かす男だ』と、よくおっしゃっていました」
「あの柴田さんが……」
「それで思い出した。あなたは昔、柴田の義父上と戦ったことがあるそうだな。もう、ずっと昔に」
「はい、若いころに。いや、あのときは……」
俺は、柴田勝家と初対面をしたときのことを思い出した。
「信長公の弟君、織田勘十郎さまと、柴田さんと、熱田の銭巫女という女が一緒になって、俺をおどしてきましてね。……そう、若かりしころの太閤殿下と砦の物見に出かけて、そのとき、一人になった俺を柴田さんたちが、話がしたいと捕まえて……それで……」
「それで?」
「怖かったです」
「あはははは……!」
淀殿は、初めて朗らかな笑顔を見せた。
「怖かったの!」
「怖かったですよ、柴田さんは。斬られるかと覚悟しましたからね」
「それなのに、あとで仲良くなったのね」
「乱世でございますから、そういうこともあります」
淀殿の言葉に、俺は目を細めた。
すると、彼女は少し照れたように続けた。
「母上も、一度、あなたに会ったことがあるそうだな」
「若いころに一度だけ」
俺は思い出した。あの頃、浅井長政に嫁入りするお市の方。信長公の妹で、天下に名高い美女だ。確か美濃攻めのころだったかな。会ったことがある。あの時の、柔らかな声と、優しい眼差しは、淀殿に少し似ている気がする。
「父上とお祖母様の話、もっと聞かせて、弥五郎どの」
「ええ……」
秀頼にせがまれたこともあって、淀殿と俺は、懐かし話に花を咲かせた。お市の方の美貌、浅井家の悲劇、信長公の野望……。淀殿の口調は徐々に柔らかくなり、まるで古い友と語らうようになっていく。
「母上は、あなたのことを『面白そうな商人』と言っていた。見たこともない道具を作ったり売ったりしていた、とも」
「そんなことを話していたのですか……」
話は弾み、座敷に少しだけ温もりが戻った。
やがて一時間ほど経ってから、対面予定の時刻になると、淀殿は最後に言った。
「大坂に何かあるなど、思いたくもない。二度と、自分の住む城が落ちる経験はしたくないからな」
「ごもっともです」
「しかし……あなたの忠言は、心にとどめておこう」
その顔は、お市の方だけでなく、信長公にも少し似ていた。
鋭い目元、気高い気品。血は、確かに受け継がれている。
秀吉の側室、であると同時に信長公の姪。淀殿も、可能ならば生かしたい。
「なにとぞ、よろしくお願いします。それでは、俺はこれで」
「弥五郎どの」
秀頼が、無邪気な声を出した。
「最後に聞きたい」
「はっ、どのようなことを」
「父上は、強かったの?」
俺は、顔を伏した。
思わず、涙がこぼれそうになったのだ。
強かった? 秀吉が?
いや、強くあろうとしていた。
この乱世を終わらせるために。俺と、ふたりで。
強くありさえすれば、と心から願った初心を、忘れることなく。最後まで――
「強かった」
俺は、答えた。
「誰よりも、あなた様のお父上は。――豊臣秀吉は、強うございました」
秀吉を公然と呼び捨てにしたが、その場にいた誰もが、咎めることもなく。
淀殿は顔をうつむかせ、そして秀頼は、笑って、
「秀頼も、父上のごとくありたい」
そう言った。
なられませ。強く。どこまでも強く。
けれども、もしも危ういと思ったときは、
「必ず生き延びてくださいませ。亡きお父上のために」
俺はただ心からそう思った。
天下のためではなく、親友のためにそう言った。
俺は満足した。
これで、せめて秀頼の未来に、一筋の光を灯せた気がした。
外に出ると、雪がちらつき始めている。伊与が待っていて、俺の腕を取った。
「これで、終わりか」
「いや、まだ、もう少しだ。又左の最期を見届ける。そして、その後は――」
粉雪が舞い散る伏見の空を、俺はまなこを細めて見上げていた。




