第六十九話 最後のなすべきこと
秀吉の死は、厳重に秘匿された。
伏見城内では、まるで彼がまだ生きているかのように振る舞うよう、徳川家康と前田利家が中心となって指示が出回った。
史実通り、秀吉の死は朝鮮半島の豊臣軍に伝わらないよう配慮された――もし知れ渡れば、軍の士気が崩壊し、明や朝鮮の連合軍に総崩れされる恐れがあったからだ。
俺は、その空気に包まれた城内で、杖にすがりながら歩いていた。
もう、歩くだけで息が切れる。
海から這い上がって以来の体調不良が、秀吉の死をきっかけに一気に悪化したようだ。
それでも――
最後の力を振り絞って、家康と利家の手伝いをしていた。
撤兵の準備は、秀吉の死の直後から始まった。
家康が五大老の会議を主宰し、即座に決定を下した。浅野長政と石田三成が博多へ向かい、名護屋城を拠点に朝鮮からの兵の引き上げを指揮することになった。
俺が事前にカンナに頼んでおいた手配が、ここで生きてきた。カンナは牢から解放された後も、博多や長崎の商人たちに連絡を飛ばし、船を何十艘も用意していた。長崎の南蛮商人や、九州の豪商たちを巻き込んで、兵糧や医薬品も積み込ませたのだ。
撤兵は順調に始まった。朝鮮半島の蔚山や釜山から、日本軍が次々と船に乗り込み、対馬を経由して帰国する。
泥沼の戦いが、ようやく終わろうとしていた。
そんな中、俺は伏見城の控え室で、独り座っていた。
窓から入る秋風が、わずかに体を冷やす。
体が重い。
咳が出る。
伊与が心配そうに俺の背をさすってくれるが、俺はただ、ぼんやりと天井を見つめていた。
「大丈夫か、俊明」
「ありがとう。……なあ、伊与」
「うん……?」
「やはり豊臣の天下は、無理だな」
「なぜに、そう思う?」
「それは――」
俺は、語った。
「秀吉の死と共に、突如として、豊臣の家中から天下を考える気配が消えた――と、俺は思う。豊臣の家臣の誰もが、豊臣の未来は考えても、天下の未来を考えなくなった。まるで、秀吉という太陽が沈んだ途端、皆が自分の影だけを追いかけるようになったみたいだ。
秀吉はそうではなかった。晩年、確かに衰えも疲弊もしたが、しかし秀吉は晩年に至るまで、天下をこうしたい、天下をこうするべきだ、という思案を常に持っていた。その思案が誤りを産み出したところもあった――
だが、それはそれとして秀吉なりの天下に対する理想や考えや行動は常に行っていた。信長公の遺志を継ぎ、天下布武を成し遂げ、民を豊かにしようとした。あいつの情熱は、たとえ老いても消えなかった。
それなのに、今の豊臣はただの一大名家と化してしまった。これはもう、この場所にいる者にしか感じられない空気、としか言えないものだが……。だが耳を澄ませば、家臣たちの会話は、秀頼の相続や家内の権力争いにしか向かわない。天下の泰平なんて、誰も口にしないんだ」
「そう言われたら、そうだな。もはや豊臣は天下の主家にあらず、関白家にもあらず。ただの大きな大名となってしまったようだ」
「信長公亡きあとの、織田家がこれに似ていた……」
俺は、またせき込んだ。
前田利家は、こんな豊臣氏の中で必死に事後処理をしていた。
利家は五大老として、家康と協力しながら、奔走している。
だが、利家もまた、現状を維持するので精いっぱいだろう。
俺は知っている。利家は来年に病で死ぬ。
史実通りなら、そうなる。体調が悪いのは、もう兆しが見えているのかもしれない。
「又左の顔を見ていると、俺自身が鏡を見ているようで、胸が痛む」
「私と戦ったのが、遠い昔のようだな」
「実際、昔なんだよ。もう何十年も前の話さ」
「槍の又左は、確かに強かったぞ」
伊与はくすくす笑った。
俺も笑った。……
そして、さらに思案する。
天下の行く末を、曲がりなりにも考えているのは、そして託せそうなのは、やはり、俺には家康しかいないと思えた。
秀吉が家康を大老筆頭にしたのは、義理の弟にして信長公の盟友ということもあるが、やはり器量が余人をもって代えがたいからなのだと確信した。あの男の忍耐強さと、信長公から受け継いだ優しさ。短気だった若い頃を知る俺だからこそ、それがどれだけ成長したものか分かる。
「徳川と話をしたいな」
俺は、独りごちるように言った。
ある日、俺は茶室で家康を待っていた。
雨がしとしと降る中、家康が入ってきた。
家康の顔はいつも通り、しわが多く、落ち着いている。
俺は、静かに切り出した。
「徳川どの、石田三成はすでに毛利輝元と結び始めております。お気を付けください」
それは俺の未来知識だった。
この時期、石田三成はすでに大老のひとりである毛利輝元と交流を始め、反家康派を形成しつつある。家康は奇妙そうな顔をして、俺を見た。
「弥五郎どのは、いったい誰の味方なのだ?」
「俺はもはや誰の味方でもありません。ただこれ以上、無益な戦が起こらぬように、人民が死なぬように、泰平の世が来るように、それだけを願っております」
雨の音が、茶室に響く。
やがて、家康が口を開いた。
「……ご子息がマカオから船をよこしたと聞いた」
「なんですって。それは初耳。どういうことです?」
「こういうことだ」
家康がくれた情報によると、朝鮮に兵糧や物資を届けた謎の船は、マカオにいる樹たち、つまり俺の子供たちが手配したものだったらしい。
娘たちは戻ってこない俺たちを心配し、日本や朝鮮に使いを飛ばして状況を調べていたが、日本軍の飢えを知ると、俺があるいは朝鮮の豊臣軍の中にいるかもと思い兵糧を届けたという。
「娘たちが……」
俺は胸が熱くなった。
子供たちが、そんなに立派に育っていたなんて。
「立派なお子をお持ちのようで、うらやましいことだ」
家康はしみじみといった。
家康の目は、少し寂しげだった。思い出した。
家康は嫡男の信康を、自刃させた過去がある。あの喪失感が、まだ心に残っているのだろう。
俺は、渾身の力を込めて家康に言った。
「今後の日本を率いる力量があるのは、もはやあなたしかいない。信長公の優しさを知るあなただけが、天下の采配をとれるのです。俺としては、あなたにもはやすべてを委ねたい。そして天下を取ったあかつきには、可能な限り、人が死なぬようにしていただきたい」
「前田どのがおられるが」
「又左は病だ。俺同様、長くはもちません」
家康は目を細めた。
雨が強くなる音が聞こえる。
「オレは完璧ではない。できないこともある」
「無論。出来る限りで構わないのです。その出来る限りがすでに、日ノ本にとっての最善手となりましょう」
家康はさらに言った。
「……オレを高く評価してくれたものだが、あるいはこのオレも、暴君となって天下を好き勝手するかもしれんぞ」
「そうしないと信じています。しかし、俺との約束を守っていただけるのなら、俺もあなたに利潤をもたらしたい」
「どういうことかね」
「マカオをはじめとする東南アジアとの繋がりを、また徳川家は強くもたないはず。もしも約束を守っていただければ、すなわち徳川家が秀頼様を生かし、かつ天下に泰平と繁栄をもたらしてくれるのであれば、山田弥五郎は身命を賭して、アジア諸国と徳川家との、商いの繋がりを仲介しよう」
「……交易の利益、か」
「娘たちもマカオで励んでくれているようだ。俺が死んでも娘たちに、徳川との繋がりを大事にするように言い伝える」
家康は、ゆっくりうなずいた。
「……繋がりは大事だな。オレと信長公は20年、繋がった」
「俺と藤吉郎は50年繋がった」
「なるほど、それはかなわん」
家康は、笑った。
珍しく、穏やかな笑みだ。
「約束を守ろう。オレは天下のために最善を尽くす」
「俺もです」
「信じているよ。弥五郎どの、そなたとオレも、思えば長い知己だからな」
それから7日ほど経って――
伏見城に、あの七海が数名の仲間と共に尋ねてきた。
博多や長崎でカンナが撤兵のために動いたことを聞きつけて、マカオの樹たちも俺たちが伏見で生きていることを知り、七海をよこしてくれたらしい。七海は、すっかり大人の淑女といったたたずまいで俺の前に平伏し、
「お久しぶりです。……生きてらしたんすね」
「ああ、生きていたよ。七海も元気そうだ」
「おかげさまで。……」
七海の話によると、マカオでは新生神砲衆が商いを活発に行っており、アジア各地に支店を置きはじめるほどにまで膨らんだらしい。子供たちが立派に育ってくれて、俺は嬉しかった。樹たちは、俺の教えを守り、交易を拡大させていたんだ。
安堵したせいか、俺はその日から、2日も寝込んだ。
そして目を覚ましても、半月ほど、微熱が続いた。
やっと少し元気になったと思ったとき、伊与、カンナ、七海が俺の前に現れた。カンナは、真顔で言った。
「弥五郎、あんた、もう隠居せんね」
「…………」
黙っていると、伊与までもが、
「お前はもう、やるだけのことをやった。あとは徳川を信じて託していこう」
「……それで、どうする」
「マカオに参りましょう。そして、お子様とお孫様にお会いしていただきたく」
七海が言った。
俺は、目をつぶった。
子供たちに。孫に会いたい。
なるほど、秀吉が息子にこだわるわけだ。
衰え切った俺の心と身体はいま、無性に子孫を求め始めていた。
俺は言った。
「行こうか、マカオに」
伊与たちの言う通り、俺はもう、俺なりにするだけのことはしたのかもしれない。
なにより、もう、身体が悲鳴をあげている。生命の尽きる日は、そう遠くないと思った。
俺に残された、最後のなすべきこと。
それは、生きて子孫たちと会うことではないかと、そう思った。
杖を握りしめ、ゆっくり立ち上がる。
外では、風が吹いていた。




