第六十八話 夢のまた夢
秀吉の容態はいよいよ悪化した。
高熱と下痢、吐血が続き、どんな薬も効かない。
侍医たちが必死に処方するが、秀吉の体はもう限界だった。
俺は控室で伊与たちと待機しながら、焦りを抑えきれない。
なにか良薬はないものか。あるいは栄養がつく食べ物は――
「尾張の食べ物はいかがでしょうか。幼いころに食べていたものが、一番人間の心と体に効くのでは」
あかりが、静かに提案した。
俺への看病経験から来る言葉だろう。
確かに、俺自身、海から蘇ったとき、あかりの湯漬けが体を癒してくれた。若い頃の味は、魂に染みつく。
「もっともだ。あかり、ありがとう」
俺はすぐに津島と熱田に使いを飛ばした。尾張の味噌、穀物、簡単な野菜を急ぎで伏見まで送らせる。2日で荷が届き、あかりが調理を始めた。薄口の味噌汁、おかゆ、ぞうすい。シンプルだが、秀吉の故郷の味だ。塩分が少し気になるが、とにかくなにかを食べることのほうが先決だ。
俺は秀吉の寝室に参上して、それらの料理を献上した。
秀吉の寝所は、薬の匂いが充満し、重い空気が漂っている。
秀吉は寝具に横たわり、顔は青白く、目は虚ろである。だが、味噌汁の香りを嗅ぐと、ゆっくり目を開いた。
「……この匂いは……尾張の……」
「藤吉郎、食べてくれ。少しでも力がつくはずだ」
俺はみずから匙を持って、味噌汁を秀吉の口元に運んだ。
秀吉は弱々しく飲み込み続け、この日は2杯も味噌汁を平らげ、周囲を驚かせた。
「うまい……懐かしい……」
「うまいか、よかった」
俺は安堵した。
その日、秀吉の熱は平熱に下がり、食欲も少し戻った。
回復の兆しが見えたようだ。
俺はほっと胸を撫で下ろした。
史実では秀吉は夏の終わりに死ぬが、もしかしたら少し延ばせるかも知れない。秀吉は寝たまま、俺に話しかけてきた。
「弥五郎……秀頼のことは……頼むぞ……」
「ああ、分かっている。徳川どのにも伝えてある」
秀吉は弱々しく笑った。
昔の輝きが、少しだけ戻ったように見えた。
だが、それは数日だけのことだった。
秀吉は再び熱を出し、寝込んだ。吐血が激しくなり、体重は激減。侍医たちは首を振るばかり。
俺は知っている。
秀吉は、もう、まもなく死ぬ。
秀吉の病は史実通りだ。どんな未来の知識も、死を止めることはできない。
伏見城の控室に、徳川家康、前田利家、北政所など、必要な人間が集まり始めた。宇喜多秀家や毛利輝元、上杉景勝ら五大老の面々も、国内にいた者は急ぎ駆けつけていた。
城内は緊張に満ち、噂が飛び交う。
俺は伏見城の片隅にある一室で、伊与、カンナ、あかりと共に控えていた。
山田弥五郎は謀反人だ。
秀吉からはすでに許しを得ているが、それでも……。
諸大名が伏見に集合しつつある以上、俺はあまり表に顔を出さないほうがいいだろうと思っていた。
じんわりと、汗がにじみ出る。
暑かった。ときはまさに、1598年の晩夏であった。
旧暦8月、太陽暦で9月。城内の空気は蒸し暑く、どこからか虫の声が聞こえる。
「暑かね……」
カンナが扇子を仰ぎながら言った。
彼女の着物は汗で湿っている。
「こんなに暑かったら藤吉郎さんもきつかろうに」
「侍女か小姓が、ずっとあおいでくれているだろうが」
俺は答えたが、心の中ではクーラーのある未来を思い浮かべた。
戦国時代の夏は、未来よりは涼しいのだが、それでも体に堪える。
特に湿気が辛い。
「あかり。太閤はいまなにを口にしているのだろう?」
伊与があかりに尋ねた。
「砂糖汁か、すまし汁くらいだと聞きますが」
「危ういな……」
俺は立ち上がった。
杖をつき、ゆっくりと部屋を出る。
「俊明、どこへ」
伊与が心配そうに尋ねた。
「厠。……ついでに少しばかり、城内の様子を見てこよう」
そう言って、俺は廊下を進んだ。
用を足した後、あたりの様子をうかがう。
すると侍や女中たちの顔が暗い。
空気もおかしい。
なにかあったのか?
俺は侍女の一人を捕まえて、
「この空気はいかがした。殿下にもしや、なにかあったか」
「あ、梅五郎さま。……ええと、そのう……いえ……」
彼女は口ごもり、目を逸らした。
秀吉の体調について話題にすることは、口止めされているようだ。
史実でも、秀吉の死は秘匿された。……まさか、もう……?
俺はさらに廊下を進んだ。
すると若い侍が現れ、道を塞いだ。
「梅五郎どの。ここから先は、しばしご遠慮願う」
「殿下のご容態を知りたかったのだが」
「殿下はご健在です。今朝も湯漬けを召し上がられました」
ほんとうか……?
侍は明らかに嘘をついていた。
目が泳いでいる。
だが俺はそれ以上を追及できず、引き返そうとした。
そのとき、老人が現れ、
「通してやれ」
と言った。
前田利家だった。
彼の顔は疲れきっていたが、目は優しい。
「又左……いえ、前田さま……」
俺は礼をした。
前田利家は微笑み、手を振った。
「よせよ、その言葉遣いは。……まだ藤吉郎は生きている。だがおそらく、もう長くない。だから、行ってやれ。……堤と蜂楽屋と、もちづきやの娘にはオレっちから言っておく」
「前田さま、よろしいのですか」
若い侍が不思議そうに言ったが、前田利家は「いいんだ」とはっきりと言った。
「何十年も、何十年も――オレっちよりもねねさんよりも信長公よりも、こいつと藤吉郎の付き合いは長い。こいつには、豊臣秀吉の最後を見届ける資格があるのさ。……行け、山田。オレっちもあとから追いかける」
「又左。……恩に着る!」
俺は杖を突きながらも、急ぎ秀吉の寝所へ向かった。
息が上がる。体が重い。だが、行かなければ。
秀吉のところに辿り着くと、徳川家康と北政所が揃っていて、顔を上げた。
北政所は俺についての事情を知っているのか、何も言わず一礼だけしてくれた。ありがたい。俺も一礼を返した。
「……ああ……ああああ……う、が、ぁぁぁ……」
藤吉郎……!
俺は思わず、身を乗り出した。
秀吉はもがき苦しんでいた。
寝具の中で、うめくように、かすれた声をあげて「す、ま、ぬ」と空中に向かって詫び続けていた。五右衛門を殺したことや、甥の秀次を殺したことや、多くの朝鮮の民を巻き込んだことや、さらにこれまでの戦いで殺してきた数多くの将兵のことを叫び続けていた。
もがいてもがいて……。
体は痩せ細り、顔は土気色だ。
「藤吉郎……!」
俺は近づき、秀吉の手を取った。
こんなに傷だらけで、しわくちゃになって。
「お前さま。山田さまが来ましたよ」
北政所が、秀吉に声をかけた。
彼女の声は優しく、昔のねねの面影があった。
「……弥五郎……?」
秀吉はうっすらと目を開けて、俺を見た。
その瞳は濁っている。
「……弥五郎。……弥五郎! ああ……囲まれたのう……どうする……?」
「藤吉郎?」
「相変わらず――」
ぜえぜえと、息を切らしている。
「妙な鉄砲を……使いおる……。どういう頭をしていれば……そんなものを作れるんかのう……」
「とうきち――」
「や……それにしても……えらいことじゃった。……敵の砦の物見に出かけて、帰り道にあんな連中と……出くわすとは……」
「……夢を見ているのか? ……昔の夢を」
それは過去の記憶だった。
はるか大昔、俺と藤吉郎のふたりで敵方の砦の物見に出かけたことがある。
秀吉は、あのときの夢をいま見ているのか。
「……この木下藤吉郎秀吉……」
「…………」
「受けた恩は、忘れんからの……」
「……藤吉郎さん……!」
俺は手を、強く握った。
だが、秀吉の手からは温もりが消えていく。
「恩返しは――もうたくさん、してもらいました。数えきれないほど……たくさん……」
言葉遣いが、昔に戻ってしまった。
まだ俺が若く、秀吉のことをさん付けで呼んでいた時代に。
そのときである。
秀吉は、目を覚ました。
呆けたように、俺の顔を見つめながら、
「夢を……見ておった……」
「……もっと、見て、いいんですよ」
「いや……もう、満足じゃ。……ありがたし……」
秀吉は、首さえ動かさず、ぎょろりと瞳を動かした。
若々しい、きらきらとした、光り輝く双眸であった。
「ねね……」
「はい」
「いままで世話になった。心から好いた女子は、汝だけじゃった。……感謝する……」
「……嬉しいことを」
北政所は、そっと涙をぬぐった。
さらに秀吉は、宙を見つめたまま、
「徳川どの、秀頼をくれぐれも頼みますぞ。くれぐれも、くれぐれも……。ああ……くれぐれも……命だけでも……」
「お任せあれ、殿下」
家康の声には重みがあった。
「それと……それと、弥五郎」
「ここに」
「……長かったな、ここまで。……ずっと……ずっと」
「ああ――」
「汝のおかげじゃ。……妻よりも、親よりも、汝と共におったから」
秀吉は、息を切らしながら、汗を垂らし、なお話す。
生命のすべてを声に費やしているようだった。あらん限りの力を振り絞って、秀吉は喉を動かし、俺に向かって言葉を告げた。
「夢を、ありがとう」
そして秀吉は、まぶたを閉じた。
最後に、くちびるを開き、
「生まれ変わりが……あるのなら……」
とぎれ、とぎれ。
幻影でも求めているかのような弱い声で、秀吉は告げた。
「弥五郎……汝とまた、あの木の下で、また夢を……」
「……藤吉郎さん!」
俺は昔のように秀吉を呼びながら、しかしその友の手のひらから赤い血潮が引いていくのを確かに感じた。
もう、秀吉のくちびるは、動かなかった。
その場にいた誰もが呼吸を忘れたように沈黙していた。まるで、城郭全体が夢の世界に誘われたかのようだった。深淵の中に飲み込まれたような錯覚を覚えたが、それは俺だけでなく、きっとこの場にいたすべての人間に共有された感覚に違いない。
外から人の気配がした。
前田利家、さらに伊与とカンナとあかりがやってきたのを背中で感じた。
しかし俺は振り向かなかった。振り返ることができなかった。いまや巨星となった友の手のひらを、震えもせずに握り続けた。
「辞世の句を」
徳川家康が口を開いた。
声は低く、重い。
「お預かりしております。殿下の義弟として、また大老筆頭として」
「申し上げませい」
前田利家が、求めた。
家康は答えた。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことは 夢のまた夢」
夢……
また夢……
秀吉の辞世を俺はとっくに知っていたのに。それなのに。
俺の瞳から頬にかけて、熱血にも似た一筋が流れていた。
……藤吉郎!
藤吉郎さん……!!
俺は、声にならない声をあげ続けた。北政所をさしおいて、泣くことなどできない。しかし俺は心の中で、獣のように吠え続けていたのだ。転生を自覚した瞬間から今日に至るまで、峻烈なる時間を共に歩んできた男が、俺の前から永遠に走り去っていく。
藤吉郎さん。
また生まれ変わりがあったなら。
また人間として出会えたなら。
そのときは、大名でも、天下人でなくてもいい。
ひとりの男同士として、また永き時間をふたりで歩んでいける友になりたい。
例えそれが、幾百年先の未来でも――




