第九十七話 寺鐘と初詣
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
朝の空気は澄み
冬の光がやわらかく境内を照らしていた。
伊東祐兵と島津豊久は
並んで寺の山門をくぐる。
石段には昨夜の霜が名残を留め
踏みしめるたびに小さく音を立てた。
境内は静かで
人の気配も控えめだ。
「正月の寺は、よいものですな」
豊久が声を落として言う。
「騒がしさがなく
気持ちが整います」
「願いは、声高にするものではない」
祐兵は頷いた。
本堂の前で、二人は手を清め
静かに手を合わせる。
長くは祈らない。
ただ、今年も無事に日々を重ねられるよう
それだけを胸に置いた。
ごぉん——
低く、深い寺鐘が鳴る。
音は空へ溶け
遠くの山へと消えていった。
足元では小春が石の上に座り
黒猫は柱の影から境内を眺めている。
鐘の音に、小春は一度だけ耳を動かした。
「猫にも、分かるものですな」
豊久が小さく笑う。
「静けさの重さ、でしょう」
帰り道
二人は振り返り、寺を一瞥した。
「今年も、慌てずにいこう」
「ええ。一歩ずつで十分です」
寺鐘の余韻は
しばらく胸に残り
新しい年の歩みを
静かに導いていた。




