第百十一話 冬川に糸を垂らす
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
冬の朝、空は高く澄み、川面には薄く靄が漂っていた。
伊東祐兵と島津豊久は
町外れの川へと足を向ける。
凍てつく空気の中
草を踏む音だけが静かに響く。
川辺に腰を下ろし
二人は黙って支度を整えた。
竿を継ぎ
糸を通し
餌をつける。
無駄のない所作は
長年積み重ねた時間の証である。
水は澄み、底石の形までもがはっきりと見えた。
最初に糸を垂らしたのは祐兵だった。
流れを読み、ゆっくりと竿を構える。
その姿を、豊久は少し離れて見守るように構えた。
「今日は、静かな日ですな」
低く抑えた声に、祐兵は目を離さぬまま応じる。
「魚も、人も、寒さに身を潜めている」
川のせせらぎが、言葉の間を埋める。
足元では小春と黒猫が丸くなり
時折、流れる葉を目で追っていた。
やがて、祐兵の竿先がわずかに震えた。
一拍置き、引き上げる。
銀色の小魚が、朝の光を受けてきらりと跳ねた。
「良い流れを選ばれましたな」
「川が教えてくれただけだ」
続いて豊久の糸にも、確かな重みが伝わる。
二人は多くを語らず
ただ同じ川、同じ冷えの中で時を過ごした。
昼近く、風が変わり、靄が晴れる。
釣果は控えめだが、十分だった。
「これで、今宵は温かいものが作れますな」
豊久の言葉に、祐兵は小さく頷く。
川を後にする背に、冬の光が静かに差していた。
何も競わず、何も急がぬ一日。
その穏やかさこそが
二人にとっての確かな恵みであった。




