第百一話 冬水の静かな応え
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
朝の川は、薄く霧をまとっていた。
水面は静まり返り
流れの音だけが低く続いている。
伊東祐兵と島津豊久は
岸辺に並び、黙って支度を整えた。
正月の慌ただしさはすでに遠く
川の気配に心を預ける。
「今日は、待つ釣りですな」
豊久が小声で言う。
「冬は、魚も人も急がぬ」
糸を垂らすと
水は何事もなかったかのように受け入れた。
竿先は動かず
時間だけが静かに流れる。
足元では小春が石に座り
黒猫は流れを見下ろしている。
魚影を探しているのか
それとも揺れる水に見入っているのか
判別はつかない。
しばらくして
祐兵の竿が、ほんのわずかに沈んだ。
「……来た」
合わせは早くない。
引きは小さいが、確かだ。
水中で銀が一度だけ翻り
丸々とした川魚が姿を現した。
「良い型ですな」
豊久が目を細める。
やがて豊久の竿にも応えがあり
二人で数尾を揃えたところで
自然と手を止めた。
「十分ですな」
「うむ。欲張らぬのが、冬だ」
帰り道
魚籠を揺らしながら
二人は言葉少なに歩く。
小春は先を行き
黒猫は時折振り返った。
川は変わらず流れ
釣られぬ魚もまた、水の中で生きている。
冬の釣りは
獲るためだけのものではない。
静けさを分けてもらうための時間だった。




