終章 雨あがりの光
夕方近くまで、オーウェンやリリアは集まった者たちに色々と質問をされ、祝いの言葉をのべられるなどして言葉を交わしていた。
そこに、遠慮がちに弟のアスベルがやってきた。
彼はオーウェンに三千ファブリスを返却したいという申し出と、父の行っていた税金に関する不正を役所に訴えて、父を失脚させたという話をした。
こんなめでたい日にもうしわけないが、話しておきたかったとアスベルは言った。
「父は、金を得るためには多少のずる賢さは必要だと言いました。けれど、誰にも恥じない生きかたをしたい。ティリーズ家に姉さんが、気兼ねなく帰ってくることができるように。殿下と上手くいかなくなっても、帰る場所があるように」
「……それは私に対する挑発か?」
「僕は姉さんを愛しています。殿下は姉さんをティリーズ家から奪っていったのですから、これぐらいは言わせていただかないと」
それから、と、アスベルは続けた。
「我が家と商売上で付き合いがあったマルクスという子爵の男がいるのですが、僕の前で姉さんを馬鹿にするようなことを言いましたので、付き合いをやめさせてもらいました。あの男は、姉さんにも何か不愉快なことを言いませんでしたか?」
「誰だったかしら……エラド様の、友人の一人ね、きっと。あまりよく、覚えていないの。昔のことだから。嫌な記憶は忘れたほうが、賢いでしょう?」
「そうですね、そのとおりです」
研究発表会が終わり、リリアたちはそのまま夜の雨宿りカフェに向かった。
そこにはシルヴァスが愛らしい恋人を連れて待っていた。
リリアたちのお祝いだといって、貸し切りにしてくれていた。
「リリアさん、結婚するって聞いたわ。おめでとう。もうこの場所は、リリアさんたちには必要ないかもしれないけれど、また遊びに来てね」
シエンナがたくさんの美味しそうな料理がのった皿をテーブルにならべながら、弾むような口ぶりで言った。
寡黙なマスターも、親指をあげてリリアたちを祝ってくれている。
「もちろんです。この場所はオーウェン様の好きな場所です。そして、私にとっても特別な、大好きな場所です」
「よかった。嬉しい。ね、リリアさん。ピアノは弾ける? 私も父さんも、弾けないの。そのピアノはね、母さんのピアノ。もう亡くなっちゃったから、誰も弾く人がいなくて」
「弾いてもいいのですか?」
「わ! やった、嬉しい! 私、フェルトラドールの夜想曲っていう歌が好きで。お母さんがよく、鼻歌で歌っていたの。リリアさん、知ってる?」
リリアは頷いた。痛いほどよく知っている。それは母が出て行った日、リリアを閉じ込めた部屋に、母がかけたオルゴールの曲だ。
その曲がリリアは怖かった。
それを聞くたびに、あの日のことがつい昨日のことのように思い出されてしまうからだ。
だが、もう。
その曲名を聞いても、体は震えない。心は、痛まない。
「リリア」
すぐに気づいたのだろう、オーウェンが声をかけてくる。
リリアはオーウェンの手を握ると「聴いていてくださいね」と微笑んだ。
リリアの指先が、鍵盤を滑る。本来ならばゆったりした曲調だが、テンポをあげると明るく華やかな歌になる。
シエンナは「そう、この曲! リリアさん、すごい! オルゴールの曲はいつもどこか違うって思っていたの。母さんが歌っていたのはもっと明るい曲だったって」と言って、手を叩いて喜んだ。
シルヴァスが、恋人の手を取って踊りはじめる。
リリアはそれから続けて何曲か弾き続けた。いつもはカウンターの奥にいるマスターも、シエンナの手を取って踊っている。
ピアノに寄り掛かり酒を飲みながら、オーウェンは「俺も君と踊りたい」と、少し拗ねたように言った。
花屋の三階に住むのも、あと少しだ。
いつまでもここにいるのはいけないなと、オーウェンは新しい家を探している。
ハーヴェイの命令で、爵位を得るのだ。王族であり立派な研究者でもあるオーウェンがいつまでも『リンハルト』を名乗っていることが、ハーヴェイは気に入らないのだという。
かといってラファルを名乗ると、ハーヴェイの子たちとオーウェンの歳が近いこともあり、少しややこしいことになる。
だから新しい姓と爵位を与えて、誰にも文句を言わせないようにするのがハーヴェイの王としての最後の仕事なのだそうだ。
暗い部屋を、オイルランプで照らした。
共に家に戻ってきたウルは、ソファの上で羽を休めている。
鍵をしめてリリアの元にやってきたオーウェンは、リリアの腰を抱いて引き寄せた。
「踊るのですか?」
「少し」
珍しく、二人とも酒を飲んでいる。
リリアは先程までの熱気を引きずっていて、浮足立った気持ちのままオーウェンに体を預けた。
体を密着させてぎこちないステップを踏む。足元がおぼつかない。酒のせいか、それとも。
オーウェンの体から感じる熱が、いつもよりも──激しい熱を帯びているような、気がするからだろうか。
何度か部屋をくるくると回り、そのまま寝室に向かう。
オーウェンに優しくベッドに倒されて、リリアはくすくす笑った。
「足元が、ふらふらです。飲み過ぎましたか、オーウェン様」
「……飲み過ぎた演技をしている。君と二人で、ここに倒れ込むために」
「ふふ……」
冗談かと思い、リリアは笑いながらオーウェンの背中に手を回した。
オーウェンはリリアの顔の横に両手をついて、それからリリアの心の中までを全て見透かすような瞳で、リリアを見つめた。
暗闇の中で、月が輝いているような気がした。
その瞳が好きだ。黒い髪も。優しい指先も。
ずいぶん長い時間一緒にいるのに、リリアの心の傷を心配して、何もしようとしなかった彼の優しさが──愛しい。
「リリア。……キスをしてもいいか。その先も、したい」
「どうぞ。お好きなように、なさってください」
「怖くは、ないか」
「怖くないです。あなたの愛を、私に教えてください。私も、それにこたえたい」
唇が重なる。何度も優しく、角度を変えながら。大切なものに触れるように、そっと重なり離れていく。上唇を食まれて、啄むように音を立てながら口づけられて、リリアは体を震わせた。
オーウェンの熱を持った手のひらが、リリアの体の曲線を撫でる。
やがて唇を割り開き、彼の舌がリリアの口の中を味わうようにまさぐりはじめる。
どの動きも丁寧で優しく、リリアの心が追いつくのを待ってくれているように、ゆったりとしている。
全身で愛していると伝えてくれているようだった。
かつて夫だった人との行為は、痛くてつらいばかりだったのに。
心も、体も、パンに塗ったバターのように蕩けていく。何もかもが、違う。
あまりの心地よさに啜り泣きをはじめたリリアの体を抱きしめて、オーウェンは何度も愛していると囁いた。
リリアも、まるで幼い子供に戻ってしまったかのようにつたない声で、好きだと何度も繰り返した。
あぁ、これは、子を作るためだけではなくて。
たくさん愛してもらって、可愛がってもらって、そのぶん愛情を返すための行為なのだと、オーウェンの腕の中でリリアは、体にあふれる愛に耽溺しながら、微笑んだ。
『セイジオウル』
それが、オーウェンに与えられた新しい姓だった。
賢い夜の鳥という意味だ。
そして王弟して公爵の爵位を与えられ、王都の中心街に新しい家を購入した。
働きながら家のことをするために、何人か使用人を雇うとオーウェンはいう。これではまるで、貴族らしい貴族だなと彼は苦笑していた。
あの日の夜に捕縛された男たちは、ルイーズの名を出した。
逃亡しようとしていた彼女もまた捕縛され、妊娠中だったこともあり、修道院に送られた。
きっと二度と、修道院から出ることはないだろう。
イルマとハインツは、エラドの元に戻ったらしい。
エラドは彼らに土下座をし、戻ってきて欲しいと頼み込んだのだと、イルマから送られてきた手紙に書いてあった。
真っ当に生きて働く約束をしている。酒も断っている。
リリアやオーウェンのおかげだと、感謝の言葉が手紙に書いてあった。
穏やかで変わらない日々を求めていたリリアは、少し変わったように思う。
「オーウェン様、次はどこに行きますか?」
「そうだな。……フェリ王朝を滅ぼした王について調べたいと思っている。リンデルの嫁ぎ先だ。場合によっては、横断列車に乗って隣国に行く必要が……」
「私も一緒に行きます。いいですよね?」
「あぁ、もちろん。君がいない日々は、考えられない」
「新婚旅行ですね、オーウェン様」
「結婚式が先だろう」
真新しい家で、二人きりの夜を過ごしながら、オーウェンと次の計画を立てる。
この国にはまだ知らないことがたくさんある。
生あるうちに、たくさんのものを見たい。知りたいと思うのだ。
もちろん、オーウェンの隣で、彼と一緒に。
「ウルも、です」
「そうね、ウル」
「共に行こうか」
ソファに座り今後の計画を立てるリリアたちの元にウルが飛んできて、テーブルにちょこんと座って言った。
リリアはウルを抱きあげる。
雨が止んだ晴れ間から、光が差し込んでいる。
光は新しい道を照らしている。その道はきっと、沢山の驚きと喜びに満ちている。
そんな、予感がする。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、評価ボタンをささっとおしてくださると
今後の活動の励みになります。よろしくお願いします!




