立ち直るためのきっかけ
テネグロ図書館にふらふらと入ってきた男の顔を見て、リリアは青ざめた。
それは、エラドだ。かつての華やかな美貌は影を潜めて、やつれてくたびれて、十歳は老け込んで見えた。
「エラド様……」
「大丈夫、リリア? 追い出すわ。私の護衛に頼んで、つまみだしてもらうわ」
ナルヴィラが心配そうに言う。ジョセフィーヌや、図書館の見回りをしていたクリストファーもやってくる。
エラドはリリアの姿に気づくと、まるで誰かから追われていて助けを求めているように、足早にリリアに近づいてくる。
ジョセフィーヌとクリストファーがリリアを庇うように前に出た。
「来館者様、図書館では走ってはいけませんよ」
「あなた、リリアの元夫ですね。今更リリアに会いにくるなんて、しかもオーウェン殿下のいないときに。テネグロ図書館の総戦力でもって追い出しますよ」
「ジョセフィーヌ君、老体の僕は戦力にはならないよ。それに他の職員も僕と同じぐらいの年齢で……」
「本を投げましょう、クリストファーさん」
「やむをえない」
「あの、皆さん、ありがとうございます。お気持ち、嬉しく思います。ありがとうございます」
これではかつての反対だ。エラドや彼の友人たちを前にしたリリアは孤立無援だった。
だが、今はエラドがそうだ。皆がリリアの心配をして、味方をしてくれる。
それはとてもありがたい。だが、今のエラドからはかつての威厳は感じられない。牙を抜かれた獣のようだ。
「リリア……僕の顔など見たくないだろうことはわかっている。だが、話がしたい。話が……」
「エラド様……何か、ありましたか」
「あぁ……」
ナルヴィラが「先に謝罪よ」と怒っている。彼女の護衛がエラドの腕を掴もうとしたのをリリアは制して、エラドの前に進み出た。
「……本当は、あなたと交わす言葉はもう、ありません。顔も見たく、ありません。ですが……今にも溺れ死にそうな顔をしている人を、放っておけません」
「……ありがとう」
クリストファーたちに、何かあったら大声で呼ぶようにと言われた。
リリアは頷き、エラドを連れて第一書庫の端に向かう。
読書や勉強用に用意されている机や椅子が並んでいる場所だ。書架から少し離れた場所にあるために、会話をすることが許されている。
ナルヴィラはリリアから少し離れた机に座って、借りた本を広げて読み始めた。
ナルヴィラの護衛と侍女がその近くで待機して、それとなくリリアを見守ってくれている。
「一体何があったのですか、エラド様」
「……君が、家を出て行ってから、僕はルイーズを身請けした。彼女は腹に子がいるという。僕との子だと」
「それは、おめでとうございます」
「めでたくなど……腹にいるのは僕の子ではない」
リリアは困惑して眉を寄せた。ルイーズはエラドを愛していたはずだ。リリアに別れて欲しいと言いに来るぐらいだったのだから。
それなのに──他にも誰か、恋人がいたのだろうか。
「イルマも、ハインツも出て行った」
「ハインツさんとはお会いしました。私にお金を届けてくださって……」
数週間前である。ハインツがふらりと図書館に現れた。
リリアが稼いだものとグリーズ家からの慰謝料だという、五百万ファブリスをもってきた。
リリアは遠慮をしたが、共にいたオーウェンが「ハインツさんの気持ちだ、もらったほうがいい」というので、ありがたくいただくことにした。
その時リリアはエラドについてなにも聞かなかった。ハインツも、何も言っていなかった。
「ハインツもイルマも使用人たちも、ほとんどが出て行った。ルイーズは好き勝手振る舞い……いや、こんな話はいい。全ては僕の責任だ、自業自得だ」
エラドは疲れたように首を振る。
それから、きつく眉根を寄せた。
「父が、死んだ。……僕の不甲斐なさや情けなさを知り、憤慨して、頭の血管が切れたのだと医師は言っていた。不摂生な生活をしていた人だから、僕への怒りはきっかけにすぎなかったのだろうが。いい年をして若い女を囲い、自分を若く見せるために色々な薬を飲んでいたようだから。最後まで、愚かな父だった」
「そうなのですね……それは、悲しかったですね、エラド様」
「悲しくなど……いや、悲しかったのだろうな。僕は父に頼っていた。父は僕の全てだった。父がいればなんとかなると思っていた。憎悪もあったが尊敬もしていた」
リリアは静かに頷いた。エラドの気持ちは少し理解できる。
リリアも同じだった。決別を告げたあの日まで、リリアは父に認められたいと思っていた。
家族として認められたい。褒めて欲しい。嫌われたくない。
父が嫌いで、同時に、どうしても情を捨てきれなかった。
「父の葬儀に出た。そこで……母が、笑っていたんだ。母は僕に言った。僕は父の子ではないと」
「え……」
「父の子ではないんだ、僕は」
エラドの母は笑いながら、エラドに耳打ちしたのだという。
『こんな人の子など、産みたくなかった。だから私は避妊薬を飲んでいた。そして、庭師の男に子種が欲しいと強請った。エラド、あなたは私と庭師の子。グリーズ家の血は流れていない。でも、内緒よ。あなたはグリーズ家の当主。この家は、あの人の血が流れていないあなたのもの』
エラドは何も言うことができなかったという。
母はおかしくなってしまったのかと一瞬思った。だが、そうではないと考え直した。
母は父によりずっと、不当な扱いを受けていた。父の子を身籠らないことが、母の復讐だったのだろう。
「……僕はずっと、侯爵家の血にすがり、生きてきた。父に認められるように。誰かに侮られてはいけない、自分が一番偉いのだと、考えていた。父を手本としていた。だが、手本としてはいけなかった。僕には父の血が流れていない。半分、庶民の血が……」
ぶつぶつと、頭を抱えながらエラドは言う。
「僕はどうしたらいい、リリア。君がいなくなってから……僕には、不幸ばかりがふりかかる。君という幸運を手放したからだ」
「それは、違います。エラド様、私は幸運などではありません」
エラドの気持ちは少しはわかる。だが、同情をすることはできない。
そんなことをしても、リリアにはもうエラドを支えられない。支える気もない。
「誰の血が流れていようが、親が誰であろうが、そんなことが私やあなたが生きることの邪魔になりますでしょうか。私はそうは思いません。私の価値やあなたの価値は、自分自身で決めることです。そして、自分に価値があると思える生き方をすれば、自分が少し、好きになれます。エラド様も、きっと」
「……自分が、好きに」
「はい。……あなたの価値は、あなたの血が決めるものではありません。他者があなたを評価するから、価値が生まれるものでもありません。エラド様、イルマさんやハインツさんがなぜあなたの傍にいてくれたのかよく考えてください」
ハインツもイルマも、エラドを嫌ってなどいなかった。
それは彼らが、幼い頃のエラドを知っているからだろう。
そして彼の育った環境をよく理解していたからだ。
だから、ずっと──彼らはエラドを見守っていた。家族のように、見ていてくれていたはずだ。
「……私も、あなたを愛しく思ったことがありました。薔薇の花束、嬉しかったです」
「リリア、すまなかった。本当に、すまなかった」
「あなたと言葉を交わすのは、これで最後です。本当は……私はまだあなたが怖い」
「あぁ。君と共にいるとき、僕はきっと化け物だった。……本当に……ごめん」
エラドは深く頭をさげた。
そして、顔をあげたエラドの暗かった瞳には、光が戻っているように見えた。




