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運命じゃない私の、新しい恋について  作者: 束原ミヤコ


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エラドの孤独



 ◆


「それではエラド様、いままでお世話になりました。旦那様にはことの顛末を手紙に書いて届けさせていただきました。私が辞職をする理由を伝える必要がありますので。エラド様、退職金は五百万ファブリスのはずでしたが?」


 執務室に退職願を届けたハインツが、恭しくエラドに礼をした後に、エラドが投げた茶封筒の中身を確認して首を傾げる。

 中身は百万ファブリスしか入っていない。


 そんなことはエラドにはよくわかっていた。

 エラドが自由にできる金には限りがある。グリーズ家の当主を継いだとはいえ父はまだ壮健で、若い妾に入れあげて金を湯水のように使っている。

 それを咎められる者は、グリーズ家にはいない。


 エラドもまた、同じだった。金が無ければ借金をし、借金を返せと言われたら他の金貸しに頼った。

 その生活を、グリーズ家を建て直してくれたのは、リリアだった。


 それなのに──愚かなルイーズは、リリアが残していた価値ある調度品やドレスを「古い」「汚い」と言って安価で売り払った。


 商人というのは人をよく見る。エラドのいない間に家の中に商人を引き入れたのはルイーズだった。

 ルイーズの生まれが卑しいことや学がないことをすぐに見抜いたのだろう。

 エラドから見てもあり得ないほどの安い金額で、家財はほとんど奪われてしまった。

 

「エラド様、家の中にあった古くて汚いものを売ったら、五百万ファブリスになりました。こちらで新しい家具を買いますね。五百万ファブリスでは足りないから、残りの支払いはお願いします」


 そんなことを意気揚々と口にしたルイーズの頬を叩きたくなったが、なんとか堪えた。

 女性に暴力を振るうなんて──と、エラドを咎めるように言ったイルマの、まるでおそろしい化け物を見るような目が忘れられない。


 リリアの涙に濡れた瞳が、忘れられなかった。


 百万ファブリスの入った封筒を眺めて、ハインツは深々と息を吐きだした。


「エラド様。……これはあなたがお使いください。オーウェン殿下の言葉を、どうか忘れないでください。立ち直るきっかけは、何度もあたえられるものではありません。そして旦那様を咎めることのできなかった私たちにも、罪はあります」


 ハインツは茶封筒をエラドの座る執務机に置くと、もう一度礼をして部屋から出て行った。


 ハインツが出て行く数日前に、イルマも出て行った。

 ルイーズと揉めたのだ。イルマは頑なだった。「あなたの腹の子は野良犬の子。坊ちゃんの子ではありません」とルイーズに向かいはっきりと言っていた。


 イルマは同じ女だからわかるのだという。エラドとルイーズが関係を持ってからの月日を考えると、ルイーズの妊娠は早すぎる。劇場の女優など、多くの男と関係を持っていたのだろう。

 彼女はそんなことを言って憚らなかった。


 イルマというのは優しい女だ。いつも穏やかで、出しゃばらない。

 エラドに強く意見を言ったことがない。幼い頃から母のように傍にいてくれたが、いつでもエラドの心配をしてくれていた。少し飲みすぎではないか、友人は選んだほうがいい。特にマルクスは信用できない。

 などと、時折忠告をされるたびに、エラドは反抗的な態度を取り、彼女に言い返していた。

 リリアと結婚してからは「リリア様は天からの恵みです。どうか大切になさってください」と何度か言われた。


 そのどれも──エラドは、聞かなかった。

 だが、イルマの言い分はどれも正しかったのだろうと、今更思い知っている。


 今まで穏やかだったイルマは、ルイーズに対しては非情で冷淡だった。

 ルイーズはそれに耐えかねて、イルマに向かい花瓶を投げつけた。泣きながら金切り声をあげるルイーズは、おそろしく醜かった。


 割れた花瓶の破片がイルマの頬を傷つけた。そしてイルマは「今までお世話になりました」と言って、屋敷を出て行った。

 イルマが出て行くと、次々と侍女たちが彼女を追った。

「リリア様がいなくても、イルマさんがいるのなら……と、耐えてきました。ですがもう限界です」

「ルイーズのような女の下で働くことはできません」

「私たちにも主を選ぶ権利があります」

 と、皆、口をそろえて言った。


 それらの経緯を知っているからこそ、ハインツは今、同情的な視線をエラドに向けているのだろう。


「出て行け、ハインツ。僕に同情をする必要はない。どうせ、自業自得だと思っているのだろう」

「……エラド様、あの女を追い出すべきです。あの女は不幸を運びます」

「もうお前と話すことはない」


 ハインツも出て行って、グリーズ家の広い屋敷にはほんの少しの使用人とエラドとルイーズが残った。


 多くの長く仕えてくれていた使用人が去ったグリーズ家に、ルイーズは勝手に新しい使用人を雇った。

 ルイーズの伝手で集めた彼女の顔見知りたちだ。

 誰も彼もが素行が悪そうで、言葉遣いも所作もまるでなっていない。

 エラドはまるで場末の飲み屋にいるような感覚を味わっていた。


 ルイーズの顔見知りたちは、彼女を誉めそやす。ルイーズの命令には犬のように従った。

 それほどの金を支払っているのだ。グリーズ家の金を使っている。


 グリーズ家の家名で金を借りている。彼女の姿を見るたびに、愛情は凍り付き、残ったのは嫌悪と憎しみだった。


「エラド、聞いたか。リリア嬢とオーウェン殿下がすごい発見をしたそうだ」

「歴史編纂室など税金の無駄遣いだと思っていたが、そんなこともないのだなぁ」

「古の時代の財宝を二人でみつけたと、社交界では話題になっているぞ。エラドはルイーズ夫人を連れて社交界には出ないのか? 出れないか、ルイーズ夫人のあの腹では。せめて子が生まれてからじゃないと笑いものになってしまう」

「今度、城で研究発表が行われるらしい。未知のエネルギーで動く鳥や、古代の宝石や装飾品が展示されるという。なにせ値がつかないぐらいの貴重なものだとか。リリア嬢は幸運を運んでくれるのかもな」

「彼女の作るハンカチだけではなく、彼女自身が幸運なのかもしれないな」


 イルマたちがいなくなったからか、グリーズ家に集まって酒を飲むようになった友人たちがそんなことを言う。

 彼らはルイーズの連れてきた使用人の若い女たちを、膝に乗せたり、腰を抱いたりしている。


 エラドはせりあがってくる胃液を酒で流し込んだ。

 長年過ごしたグリーズ家が、自分の家ではなくなったような気がした。


「つまり、リリアはお金持ちになったということなのかしら」

「そうだよ、ルイーズ夫人。お金持ちどころではないな。大金持ちだ」

「地位も名誉も金も、集まるところには集まるものだな」

「それはずるいわ。リリアはずっと意地悪をしていたのに。私とエラド様に嫉妬をして、エラド様とわかれなかったのよ。私のことを孤児だって、馬鹿にしていたわ」


 ルイーズの言い分に、エラドの友人たちは声をあげて笑った。

 彼らが言う『ルイーズ夫人』という言葉に含まれる嘲りに、エラドは気づいていた。



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