安らぎの中の眠り
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ベッドのクッションに体を預けるようにして、リリアはアリル王女の交換日記を広げている。
隣にはオーウェンが、文字をひとつひとつ指で追っていた。
入浴を終えたばかりの彼の髪はしっとり湿っていて、ざっくり首のあいた寝衣から彼の太い首やしっかりとした鎖骨がよく見えた。
ごつごつした指がリリアが膝に乗せている本のページの文字を辿るたび、リリアの体に少し緊張が走る。
「何もしない、リリア。まだ、何も」
リリアの緊張に気づいたように、オーウェンは言った。
リリアは顔を赤くしながらも、首を振る。
「怖がっているわけではありません。ただ、照れてしまって」
「……君が可愛いと思うたびに可愛いと言っていたら、一日百回は可愛いということになるな」
「オーウェン様は、その、お上手です、とても」
「言葉が? 話すのは得意ではないんだ。ただ、本音を口にしていいと思うと、とても気が楽だ。君が好きだ。君がミミズクのことを古代文字だと言った時から、君に惹かれていた。図書館で君を見た時には驚きと共に喜びが満ちた。遠くから見ているだけで、君の存在を感じるだけで幸せだった」
「ま、待ってください、待って……」
眠るまでもう少し時間がある。日記の続きを読みたいと言ったリリアに、オーウェンは付き合ってくれている。
けれど髪を撫でられ耳元で囁かれると、どうにも集中力が途切れてしまう。
「オーウェン様、アリル王女のことが……」
「気になるか?」
「はい。オーウェン様も気になるでしょう?」
「あぁ。この交換日記と、王女の日記は対になっていると言っただろう。あちらを読むと少し、王女の印象が変わる。だがおそらくこの日記に書いているのが彼女の本音、本来の彼女なのだろうな」
「そんなに違うのですか?」
「あぁ。あちらの文章はなんというか、もう少し硬いな。王女らしい言い回しをしている。城で起こったことについて淡々と書いているな」
リリアは本のページに視線を落とした。
本の中では、王女にいよいよ結婚が決まったという話になっていた。
王女の相手はとある騎士である。王女は美しいが、冷たい人間だと思われている。
リンデルが城からいなくなってから、元々リンデルにしか心を開いていなかった彼女はすっかり塞ぎこんでしまい、笑わなくなり、話さなくなってしまった。
そのためまさか父王の下着に『浮気者』と書いたのがアリル王女だとは思われず、彼女は叱られなかったと日記には書いてある。
「この結婚がうまくいって、王女が幸せになれるといいのですが……」
「彼女は浮気者の父王について、ずっと悪口を書いているな。浮気者、人間以下、性欲の獣、気持ちが悪い、最低男……等々。読めない文章は、当時のスラングかもしれない」
「スラング?」
「あぁ……汚い言葉のことだ。君の前では口にできない、悪い言葉だな」
「オーウェン様はご存じなのですか?」
「ふらふらしていた時代に、色々あって」
「ふらふらしていた、二年間に?」
「素行が悪かったんだ」
「想像できません」
今のオーウェンを見ていると、とても考えられない。
オーウェンは「君にはとても見せられない。少し、やさぐれていた。自分の苦しみを、生まれた環境のせいにしていたんだ」と、どことなく恥ずかしそうに言った。
「それは私も同じです。生まれた環境を悲観して、自分には何もないと考えたこともありました」
「君はもっと怒っていい」
「怒る相手がみつかりません」
「たとえば君の父に、そして、母に」
「……王女のように?」
「あぁ」
リリアは本を閉じた。閉じた本を丁寧にベッドサイドのテーブルに置くと、オーウェンの元に戻ってきて、その手をぎゅっと握りしめる。
オーウェンは俄かに目を見開いた。リリアの手が少し震えていることに気づいて、きつく握り返してくれる。
リリアはすっと息を吸い込んだ。
「お母様の馬鹿。不幸なのはわかります。でも、私を連れて行ってほしかった。お父様なんて大嫌い。育ててくれたのはありがたいですが、育ててやったのだとあなたが言うたびに私は心が冷たくなりました」
そこまで言い切って、リリアはもう一度息を吸って、はぁっと大きく息を吐きだした。
「……はじめて、言いました」
「その調子で怒っていい。怒る君も、魅力的だ。たとえそれが親でも、恩があったとしても、君の心は自由になっていい。リリア、もし私に不満があるときははっきり言ってくれ」
「……はい。オーウェン様もですよ。我慢しないでくださいね」
「君に不満などあるはずが……いや、あるな」
「なんでしょうか……?」
「君は可憐で可愛くて、凛としていて美しい。そこにいるだけで、私の心を惑わせる」
そういうことを言われるのは恥ずかしいのだと、リリアは言おうとした。
けれどオーウェンがリリアに覆いかぶさって額に口づけるので、何も言えなくなってしまった。
「そろそろ、寝よう。……別々で構わないが」
「一緒がいいです。オーウェン様が、嫌ではないのなら、一緒に」
「あぁ。もちろん。おやすみ、リリア。いい夢を」
「はい。……オーウェン様も、よく、眠れますように」
オーウェンの腕がのびて、リリアは彼に抱きしめられる。
長い指先が髪を撫でる。大切な宝物にするように。リリアは目を伏せた。やがて、心地よい眠りへと落ちていった。




