羞恥と苛立ち
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執務室の机に座り、エラドは山積みになった書類を眺めている。
昨日から頭がずきずき痛い。オーウェンに蹴られた顔は情けなく腫れて、息を吸うのも酒を飲むのにも鈍痛がある。
「エラド様。リリア様に渡す慰謝料は五百万ファヴリスでいいですね。リリア様の立場を考慮すれば、もっと高額でもかまわないぐらいですが、リリア様がここ半年でグリーズ家のために稼いでくださった金額をそのままリリア様にお返しします」
「リリアが金を? 趣味で露天を開いていたそうだが、どうせ子供の小遣い程度にしかならないだろう」
「本当に……あなたは何もしらないのですね。青空市場に出店したリリア・グリーズの店はとても評判で、昼過ぎには商品が全て売り切れてしまうほどでした」
「……貴族が店を出すなど、恥さらしだ」
「…………左様ですか。私はグリーズ家の資金を管理しております。リリア様はご自分のためにほとんど金を使いませんでした。質素な食事に、家から持参してきた服を着て、着飾ることもせずに。グリーズ家でリリア様に用意したドレスや、持参したドレスも全て売り払い、グリーズ家の借金を返済してくださいました」
「だからなんだ。それが偉いとでもいうのか?」
苛立ちながら机を叩くと、リリアを懐かしむように彼女の話をし続けていたハインツは、エラドから顔を背けた。
「あなたは自ら幸福を手放したのです、エラド様。リリア様の件は私が行います」
「勝手なことをするな。この家の金は僕のものだ。お前は僕が雇っている僕の家来だ。指示に従え」
「リリア様の件が終わりましたら、私はお暇をいただきます」
ハインツは一方的にそう言って、それから部屋を出て行った。
エラドは執務机を蹴った。リリアのせいで、使用人たちまで反抗的になった。
リリアがまるで彼らと親しい友人のように付き合うからだ。
「イルマ! 来い、イルマ!」
「はい。坊ちゃん、どうされましたか」
大声でイルマを呼ぶと、ゆっくりとイルマが現れる。
今までとは違う冷たい瞳を、彼女はエラドに向けていた。
「今すぐ二千五百万ファヴリス用意しろ。ドレスを売ればそれぐらいの金額になるだろう」
「リリア様がそうおっしゃっていたのですね。イルマは存じあげません。リリア様はグリーズ家にある価値のあるものを全て帳面に書き出していらっしゃいましたが、私たちはグリーズ家の価値のあるものに触れることはできません。それは使用人の仕事ではありません」
「嘘をつけ。リリアとお前は一番近しい間柄だっただろう」
「ええ。リリア様には大変よくしていただきました。ですが、リリア様はわきまえておいででした。グリーズ家の資産管理はご自分の仕事だと、私たちに手伝わせることはしませんでした」
「御託はいい。ドレスを売って来い」
「ご自分でなさってください。私の身分ではそれはできかねます。それに、そのような大金を持ち歩いていたら、誰かに奪われてしまうかもしれません。そんな恐ろしいことはとてもとても」
イルマは「リリア様のお部屋の片づけに戻らなくては」と言いながら、部屋を出て行った。
エラドは頭をかきむしった。誰も彼も、エラドの言うことをきかなくなった。
だが──この数か月。エラドは誰ともまともに会話をしていないことを思い出した。
ずっと、ルイーズの元にいた。
もしくは友人たちと遊んでいた。
その間リリアは、グリーズ家の者たちの心を掌握し、この家を支配していたのだろう。
「くそ……リリア……今頃、オーウェンと」
オーウェンに、抱かれているのだろうか。
離縁を勝ち取ったと笑いながら。
薔薇を渡した時の幸せそうに笑うリリアが想起される。その頬をオーウェンが撫でる。
恥ずかしそうに微笑むリリアをオーウェンが引き寄せて、エラドを「馬鹿な男だ」と嘲った。
エラドはその想像に、しばらく没頭をしていた。
どれぐらいそうしていただろうか、「来客ですよ、坊ちゃん」というイルマの声に、妄想の中から目覚めた。
「お通しします」
「勝手なことを」
「エラド様!」
声が重なる。扉から駆け込んできてエラドに抱きついてきた女の、きつい香水の香りが鼻についた。
「お会いしたかった、エラド様。昨日は来てくださらなかったから、私、心配で。会いに来てしまいました」
「ルイーズ……」
ルイーズを部屋に案内したイルマが、エラドに同情的な視線を向けて、それから何も言わずにいなくなった。
どうしてそのような目で見る。ルイーズは美しい、リリアよりもずっと。
エラドはそう自分に言い聞かせた。
だが今は、彼女に触れられても心が震えるような情動はない。
子ができたと、ルイーズは言った。それは本当に自分の子かと、疑う気持ちが湧いてくる。
「エラド様、私、このごろ体調がわるくて。そろそろお腹も大きくなってきます、いつまでも舞台に立てません。支配人にも、いつまで誤魔化せるか……どうか、私を助けてください」
「ルイーズ、君と知り合ったのは……おおよそ二か月前だ。少し、子が育つのが早いのではないだろうか」
「一か月で悪阻が起こる場合もあると、お医者様がおっしゃっていました。私を疑うのですか?」
「……だが、あまりにも」
「エラド様、もし私を疑って私を捨てるのなら、あなたに捨てられたと私は言いまわります。舞台の上で、悲しみの歌を歌ってもかまいません。グリーズ家のエラド様が私を穢し、子を孕ませて捨てた、と」
「……僕を脅すつもりか」
「違います、それぐらい私は傷ついたということです。あなたとの子を、私は心から喜んでいるのに……っ」
泣き出すルイーズの化粧が崩れる。
彼女はこんなにも──汚らしかっただろうか。
化粧をしなくてもリリアは、綺麗だった。
華やかではないが、清楚で品があり、その笑顔は愛らしかったのだなと、彼女を失ってからようやく気付いた。




