籠の鳥
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男の手が頬を撫でるのを、ルイーズは振り払った。
痛いと言ってへらへら笑っている冴えない顔立ちの男は、マルクス・ベンゼル子爵家子息。
エラドの友人とは名ばかりの、取り巻きの一人だ。
「何をいまさら嫌がってるんだよ、ルイーズ。俺とはエラドと出会う前からの仲だろ?」
「あなたとはもう終わり。私はエラド様と結婚するのよ。私は侯爵夫人になるんだから、触らないで」
「はは、エラドにそんな金があるとは思えないな」
「何を言っているの? あるに決まっているじゃない、侯爵様なのよ」
ルイーズの住むアパートを用意したのも金を払っているのもマルクスだ。
そのため、部屋を訪れたマルクスをルイーズは拒絶できなかった。
孤児だったルイーズは、孤児院で育った。幼い頃から自分の美貌を自覚しており、孤児院の院長や男性の世話人たち、そして同年代の少年たちはルイーズをいつもちやほやしてくれた。
声も顔も髪も、天から与えられたものである。美しい容姿に生んでくれたことだけ、顔も知らない母に感謝をしていた。
ルイーズが十五の時。教会の聖歌隊に選ばれて歌っていると、それを見ていた王都劇場の支配人に引き取られた。
ルイーズを引き取るにあたり、彼は孤児院に多額の寄付をしたという。
その寄付額が一千万ファブリス。そしてルイーズに読み書きを学ばせて、歌や演技を覚えさせて、容姿を磨いて、歌姫にするためにつぎ込んだ金が一千万ファブリス。
合わせて二千万ファヴリスの借金を、ルイーズは気づけば背負っていた。
ルイーズは今年で、二十八歳になる。そうは見えない容姿のために二十二歳と誤魔化しており、皆はそれを信じている。
若いうちは希望に満ちていた。
芝居の端役からはじめて、徐々に台詞が増えていった。
努力が実り、ここ数年は主役を演じ、歌えることが増えた。人気が出てくると、ルイーズが歌唱を披露するだけの日も設けられるようになり、客入りもいい。
皆がルイーズに喝采を浴びせてくれる。
だが──ルイーズの義父であり、劇場の支配人は言うのだ。
『そろそろお前も潮時だな。あとはまぁ、エストラ商会に売るぐらいか。商会の会長が、若い愛人を欲しがっている。お前はそう若くもないが、見た目と声がいいからきっと喜ばれるだろう』
ルイーズは焦った。自分でも、美貌の衰えを意識している。
どれほど気をつけていても、徐々に老いが、ルイーズを蝕みはじめている。
エストラ商会というのは王都劇場の背後にいる、金貸しと土地の売買を主に行っている組合だ。
その会長は、もう老人といってもいい年齢である。
こんなに私は綺麗なのに。皆から愛されているのに。
そんな末路を辿りたくない。もっといい男がいるはずだと──ルイーズは、今まで見向きもしてこなかった貴族の若い男たちの相手をするようになった。
ルイーズのパトロンは年上の男性ばかりだった。彼らは純粋にルイーズの歌を愛でてくれた。
だが若い貴族は、恋人になりたがった。
ルイーズもそれでいいと考えた。恋人になれば、ゆくゆくは妻にしてもらえる。
そうして出会ったのが、マルクスだった。
今までの貴族男性たちとは違い、ルイーズの住む場所を用意して金を支払ってくれた。商売で成功をしているという、金回りがいい男だ。
ただ、彼には妻と娘がいる。それに子爵だ。その上、ルイーズを籠の鳥のように囲うつもりはあるくせに、結婚をする気はなく、身請けする気もないようだった。
そんな時出会ったのがエラドである。
エラドはマルクスとは違う。結婚しようと言ってくれた。彼の妻のリリアはひどくつまらない女だという。ルイーズのほうがずっと綺麗で、魅力的だと言われて、ルイーズは満更ではなかった。
このところ、マルクスには会わなかった。
夜はエラドと共に過ごしていたからだ。彼はいつも最高級の宿を手配してくれる。
そんなエラドが、金がないなどあり得ない。
何をおかしなことを言っているのかと訝しむルイーズを、マルクスはソファにふんぞり返って座りながら、せせら笑った。
「あのお坊ちゃんは、才覚がない。俺たちが煽てればすぐに調子に乗り、馬鹿にすればすぐに苛立つ。侯爵という肩書があるだけの凡人だ。いや、それ以下かもな。お前も見る目がないな、ルイーズ」
「そんなはずないじゃない」
エラドは──今日は、劇場に来なかった。
来るという約束をしていたのに。だからルイーズは仕方なく、久々に自宅に戻った。
そこにマルクスが現れた。劇場からルイーズを追ってきていたのだろう。
「お前も上手く手のひらで転がしてるんだろう? 俺との関係を黙って、嘘をついて。不憫な女のふりをして」
「私は不憫な女よ。生まれが不幸だから、こんな状況になっているの。エラド様は私を救ってくれるわ」
「爵位があって金がある若い男なら誰でもいい癖に」
「そんなことはないわ。もう帰って、マルクス。私のお腹にはエラド様との赤ちゃんがいるの。お腹が出てきたら舞台にはあがれないわ」
「支配人は言ったのか?」
「お金さえ払えば納得してくれるわ。もうすぐ、エラド様が私を身請けしてくれる」
ルイーズはまだ薄い腹を撫でた。もう二か月を超えている。このところ吐き気がして、月のものも来ていない。医師に見せたら妊娠だろうと言われた。
これでエラドはルイーズを捨てることはないだろう。
彼には子がいない。きっとリリアは出て行くはずだ。出て行かなければ、出て行きたくなるほどにいじめてやろうと思っていた。
大丈夫、なにもかもうまくいっている。
「それは、本当にエラドの子か? 俺の子じゃないのか?」
「違うわ」
「どうだか。他の男の子っていう可能性もあるだろう。エラド以外にも色目を使っていただろう、ルイーズ。生まれた子の髪と目が何色か楽しみだな」
マルクスは笑いながら立ちあがり、部屋を出て行った。
ルイーズはその背中を睨んだ。
確かにマルクスの言う通り、エラドの子ではないかもしれない。
だがエラドの子として育てると、ルイーズは決めていた。




