自由の翼
夕方になり、ジョセフィーヌや他の職員が帰っていく。
「リリアさん、今日もお疲れ様。んー、何か変わった? そうか、化粧だ。若い人は華やかでいいね。とても似合っている」
クリストファーがリリアに声をかけてくれる。
礼を言うリリアに「こういうのはおじさんに言われても困るだけかな」と言う。
「そんなことはありません。嬉しいです」
「そうかい、よかった。そうだ、リリア君。今月の給金だよ。お疲れ様。この調子で頑張ってほしい」
厚みのある封筒が、リリアに渡される。二十五万ファヴリスの紙幣が、封筒には入っている。
リリアは深く頭をさげて礼を言った。
「いやいや、僕に礼は必要ない。皆の給料は国費から出ているから、僕が払っているわけではないんだよ」
「そうは言っても、クリストファーさんのおかげで私はここで働くことができていますから」
「そう? じゃあ、クリスおじさんありがとう! ぐらいでいいよ」
「今度から頑張りますね」
クリストファーは生真面目に頷くリリアの様子を見て、微笑ましそうに笑った。
皆が帰っていったあと、リリアは図書館の点検をはじめる。
脚を伸ばしステップを踏み、スカートを翻して踊る。オーウェンに見られたのはほんの数日前のこと。
それから目まぐるしく、リリアの世界は変わっていった。
物語の主役ではないと、リリアは自分について考えていた。
だが、今は違う。リリアはリリアの人生の主役を生きている。ようやく、生きはじめることができたような気がする。
不意にパチパチと拍手の音が響き、リリアは足を止めた。
「もっと、踊って欲しい」
「オーウェン様!」
静寂の中に靴音が響く。いつもとは違う、品のいい煌びやかな服を着たオーウェンが、リリアの元へゆっくりと歩いてくる。
リリアは恥じらいながら、礼をした。
「お恥ずかしい姿を、お見せしてしまって……」
「恥とは、思わなくていい。君とはじめて話した日も、私は君を見ていた。とても可憐で、目を奪われた」
「そ、そうなのですか? 見られていたのですね、恥ずかしいです……」
照れるリリアの髪を、オーウェンは撫でる。
自然と縮まる距離に頬を染めた。恋をしていいとジョセフィーヌが言っていたことを思い出す。
そのせいか、今まで以上に彼の指先に籠る熱を意識してしまう。
「リリア、化粧を?」
「はい。わかりますか? ジョセフィーヌ先輩が、傷が隠れるからと化粧をしてくれました」
「そうか。普段も十分綺麗だが、とても綺麗だ、リリア」
ステンドグラスから降り注ぐ夕方の光が、オーウェンの肌を橙色に染めている。
オーウェンのほうが余程綺麗だと、リリアは照れながらその整った顔を見つめる。
彼の静かな声で褒められると、心臓の奥が切なく疼く。それでも少しだけ、ほんの少しだけ怯えてしまうのだ。
心の中に巣食う捨てられた少女が、「また同じことになるかもしれない」と囁いてくるようだった。
「エラドに離縁届を書かせた」
「あ、ありがとうございます……! エラド様は了承をしてくださったのですか?」
「不満そうだったがな。兄上の力を借りた。国王から直々に命令されて抵抗できるほど、強い信念があるわけでもない。エラドとこれで正式に離縁ができる。帰り道、役所に一緒に提出に行こう」
「本当に……ありがとうございます」
あれほど大変だったのに、こんなにあっさり自由が得られるなんて。
リリアは自分の背に翼がはえて、今にも空に飛んでいけそうな気がした。
これでもう、エラドと関わる理由がない。
一度は繋がっていた縁は切れて、彼とは他人になった。
苦痛も痛みも、過去のことのようにリリアの中から消えていく。窮屈なコルセットの紐を外した時のような解放感がある。深く息を吸うことができる。
「オーウェン様と出会うことができて、よかったです。私一人では、どうにもならなかったかもしれません」
エラドに離縁を拒否されてしまえば、リリアには姿を隠すことぐらいしかできない。
それでも強引に連れ戻されていたかもしれない。父も恐らく、消えた母を長い間探していた。
それはおそらく世間体の為。だから、母は姿を消す必要があったのだろう。
「そう思ってくれると、嬉しい。……私の存在が、君の迷惑になっていなければいいと、考えている」
「オーウェン様は昨日もそうおっしゃっていましたが、迷惑なんて思いません。私はあなたに助けられています」
「それなら、いいんだ。リリア、綺麗だ。せっかくだから、食事をしていこうか。君の自由を、祝おう」
「でしたら、オーウェン様、今日は給金をいただきました。私が支払います。今までのお礼もかねて」
「それは君が自分のために使うといい。大切にとっておいてくれ。もしかして、貧乏に見えるかもしれないが、これでも金に困っていない。それなりに、裕福だ」
「王子殿下を貧乏なんて思いませんよ」
笑うリリアに、オーウェンは手を伸ばした。
それから、包み込むようにその体を抱きしめる。
リリアはオーウェンの腕の中で、驚いて体を緊張させた。
「辛い思いをさせた。それは、私のせいでもある。それなのに君は笑っていてくれる。私は君に、救われている」
「オーウェン様、それは、どういう……」
「下心があると、言った。君を引き留めた時だ。あれは、本心だった」
「オーウェン様は、言葉を間違えるとおっしゃっていました」
「あぁ。言葉を選ぶことが苦手だ。本心をそのまま口にしてしまう時がある。君に下心がある。君が欲しい。君が、好きだ」
触れ合う肌から、声が響く。
オーウェンの腕の力が強くなり、リリアは切なく眉を寄せた。
こんなことが──あるのだろうか。
彼への気持ちを自覚したばかりなのに。
オーウェンが好意をもってくれているなんて、都合がよすぎる。
「オーウェン様、いけないことだと知りながら、私もあなたに……」
「君は自由だ。いけないことなどなにもない」
「……っ、私」
「焦らなくていい。君が少しでも私を好きでいてくれるのならば、私の傍にいてほしい。給金をもらったと聞いて、焦った。君が出て行ってしまうのではないかと」
リリアはオーウェンの背に、手を回した。
言葉の代わりにその体を抱きしめると、オーウェンが息を飲む音が聞こえた。




