優しい時間
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カウンターの奥に座り、来訪者が持ってくる貸し出し用の本の書籍名と、住所と名前を書類に記入する。
貸出期限は二週間という説明をして、笑顔で挨拶をする。昼時近くになり、先に休憩に入っていたジョセフィーヌがリリアの元にやってきた。
「リリア、休憩にはいっていいわよ」
「ありがとうございます、ジョセフィーヌさん」
「あのね、ちょっといい?」
リリアが休憩に向かおうとすると、ジョセフィーヌはリリアの腕を引っ張って、休憩所に続く扉の前に連れていく。それは第一書庫の奥にあり、人がほとんど来ない場所だ。
「どうしましたか、ジョセフィーヌさん」
「リリア、何かあった? 顔に怪我をしているわ」
「あ……あぁ、これは、たいしたことではないんです」
「たいしたことよ。目立たない怪我だけれど、じっと見ればわかるもの。可愛い後輩に怪我をさせたのは誰? 何があったの?」
ジョセフィーヌはリリアを休憩室に押し込む。自分も中に入ると、扉を閉めた。
革張りのソファが二つ並んでいる小さな部屋だ。職員の休憩以外には使われない。テネグロ図書館にはこういった小部屋がいくつもある。個室で本を読みたい人用であったり、会議に使われたりしている。
「顔に怪我なんて、大変なことだわ。あなた、何か大変な事件に巻き込まれていたりしない?」
「そういうわけではなくて……夫と、喧嘩をしてしまって」
「それで叩かれたの? 女を殴る男なんてろくでなしだわ。それが侯爵であっても」
「ジョセフィーヌさん、実は……」
誤魔化すよりは、話してしまったほうがいい。心配をしてもらっているのだからと、リリアは自分に起きたことをジョセフィーヌにかいつまんで話した。
話しながら、自分のことを積極的に誰かに話すことは、今までなかったなと考える。
オーウェンに話したのが、はじめてだった。
人に話すには重苦しい過去も、傷も、恐れているものも。
なんだか、両手に抱えていた重たい荷物を手放すことができた気がした。
そうすると、鍵がかかった部屋のように閉じていたリリアの唇は、するりと開いた。
リリアの話を聞いたジョセフィーヌは、憤懣やるかたないという表情で大きく口を開いて、それから焦ったように両手で口をおさえた。
「なんて、ひどいの……っ、リリア、大丈夫?」
「はい。オーウェン様に助けていただきました。本当は自分でなんとかしなくてはいけないのに、離縁届についても任せてしまって……」
「それでいいわ。それがいいのよ。もう二度と、その、エラドという人には近づいてはいけないわ」
「はい。気をつけますね」
「そうだ、リリア。今日はお給料日よね。お化粧品を買うといいわ。傷も隠せるし。それに新しい恋にも前向きになれるわよ。もちろんあなたは化粧をしていなくても可愛いけれど。あ、ちょっと待っていてね」
ジョセフィーヌは自分の鞄から小さなポーチを取り出した。
化粧道具を取り出して、リリアの顔に手早く化粧を施してくれる。
「思った通り、すごく綺麗よ。あとは服装も、もっと華やかなものを着たらいいわね。あなたはまだ若いもの。ひどい男からあなたを救ってくれた、王子様との恋なんて最高にロマンスだわ。きっとこれからは、たくさんのいいことがあなたに訪れるわよ」
「ロマンスなんて……私は、離縁をすると決めたばかりで」
「ひどい男から逃げて、新しい人生をはじめるあなたが恋をすることに、何の問題があるかしら」
「オーウェン様に、迷惑がかかります」
「好きでもない相手を助けて一緒に住んだりしないわよ、普通。リリア、他国の教訓で、禍福は糾える縄の如しというものがあってね。あなたには今まで悪いことがたくさん降りかかってきた。でも、これからはいいことばかりよ」
ジョセフィーヌはリリアよりも五歳年上だ。けれどまるで、慈愛にあふれる母のような眼差しで、優しい声音で言う。
「あなたのお母さんについて、あなたはもっと怒っていい。悲しんでいいわ。私だったら、子供を捨てない。どんなに不幸だったとしても、そんなことはしてはいけないのよ、絶対に」
「はい。……ありがとうございます。なんだか、元気がでました」
「そうでしょう? 私と話すと元気が出るって、よく夫も言うわ。リリア、いつでも話を聞くわ。恋愛相談も大歓迎よ」
「ジョセフィーヌさん、頼りにしていますね」
「もちろんよ」
ジョセフィーヌがいなくなり、リリアは休憩室のソファに座る。
今頃オーウェンは、エラドのところにいるはずだ。
何から何まで頼りきりで申し訳ないと思うと同時に、彼に甘えてしまっている今が、無性に甘やかに感じられる。
恋をしても、いいのだろうか。例えばそれが叶わないものであっても。
リリアはオーウェンから借りてきたアリル王女の交換日記を鞄から取り出して、ページを広げた。
続きが気になって、仕方なかった。アリル王女と魔女リンデルがどうなったのか。
アリル王女は幸せになることができたのか。
遠くの昔に生きた人々のことだ。もう皆、とっくに土に還っている。
それでも、彼女たちの行く末が心配だった。途中まで知ってしまったのだから、最後まで、見届けたい。




