王女アリル・フェリの交換日記
よい香りがして、リリアは目覚めた。
ざぁっと降り出した雨が、窓に水の膜を張っていた。
外は暗い。狭い路地には街灯がない。目を擦りながら起きあがり、リリアは扉に向かう。扉の隙間からはあたたかな光が漏れている。
扉を開こうとドアノブに手をかけた。どくどくと、心臓の音が耳の奥で鳴り響く。
悪寒が背骨を這いあがり、リリアは息をつめた。
今になって、エラドに閉じ込められたことが、過去の記憶と重なる。
唇を噛んで、心を落ち着ける。扉はあっさり開いた。
暖炉に火が入り、パチパチと薪が燃える音がする。白いシャツにローブを羽織ったオーウェンが、ソファに座って本のページをめくっている。
「リリア、よく眠れたか?」
「は……はい」
「どうした?」
「いえ……まだ夢の中に、いるようで。驚いて、しまって」
いったいどれほど眠ったのだろう。
時刻は午後九時。空腹を感じた。オーウェンは立ちあがると、リリアの手を引いてリビングに案内をする。ソファの前のテーブルに、テイクアウトの食事が入った四角い紙の箱を置いた。
「マスターに作ってもらった。クラブハウスサンド。少し食べるか、リリア」
「いいのですか?」
「もちろん。レモンのペリエは、飲むことができる?」
「はい。オーウェン様、夜の雨宿りカフェに行ってきたのですか?」
「君がよく寝ていたから。あ。……一人にしてすまない。不安だっただろうか?」
「いえ……今起きたばかりで、気づきませんでした。ありがとうございます、オーウェン様。もう子供ではありませんし、大丈夫ですよ」
「私が君の傍にいたい。だからそうしている」
今のも──言葉を間違えただけだろうか。
リリアは頬が染まるのを感じた。エラドとあんなことがあったばかりなのに、オーウェンの優しさに心臓の奥がやけに疼くのは、あまりにも軽薄だ。
「もし迷惑だったら言ってくれ。私は、私のしたいことをしている」
「迷惑なんて。ありがたい、ばかりで」
「そうか。それならよかった」
レモンのペリエを飲みながら、クラブハウスサンドを食べる。
レタスと茹でた卵、ローストビーフとトマトがたっぷり挟まっている。一口食べるたびに、色んな味が合わさる。シャキシャキのレタスと、肉の味がしっかりするローストビーフが食べ応えがあって美味しい。
大きな口をあけてクラブハウスサンドにかぶりつく。オーウェンの視線を感じて、リリアは微笑んだ。
「食欲がある?」
「はい。美味しいです」
「よかった」
「あまり見られると、恥ずかしいです」
「あ、あぁ、すまない。よく食べてくれるのが、嬉しくてつい」
餌付けをされている野良猫というのは、こんな気持ちなのだろうか。
先に食べ終わったオーウェンは手を拭くとリリアの隣で本を読みはじめる。
古代文字で書かれた本の文字を、リリアは目でおった。
「これも……王女様の日記のようですね」
「あぁ。テネグロ図書館にある王女の日記を書いた女性が誰かと行っていた交換日記だな。二人の女性が、日記のやりとりをしている」
「日記のやりとり。それは楽しそうですね。古代の王女様がそんなことをしていたのかと思うと、なんだか可愛らしいです」
「中々、興味深い。だが、読み進めるのが難しい。個人的なものだからだろうな、文章が柔らかすぎて、知らない言葉が多く出てくる」
オーウェンはそれから「女性の日記を盗み見ている気がして、気が引けるということもある」と付け加えた。
リリアは笑った。確かに、日記とは個人的なものだ。
誰かに見せるために書くものではない。それを読むというのは、少し罪悪感が湧くものなのかもしれない。
「……今日も、お父様は愛人を連れて歩いていました。全く腹の立つことです、と、書いてありますね」
「解読が早いな」
「読める部分だけ、読んでいますから。ふふ、すごい。この王女様はそうとう、怒っています」
「誰に向けて書いているのだろうな。この王女は、アリル・フェリという名のようだ」
アリル王女は、日記の文字に怒りをぶつけていた。
『いい年をして、若い侍女にいれあげて。まったく見ていられない。お父様は馬鹿だ。腹が立つのでお父様の下着に浮気者と書いておいた。脱いだら見えるでしょう、浮気相手の侍女に。いい気味だわ』
思わず、リリアは食事の手を止めた。
それから、口に手を当てて、肩を震わせた。そんなことをする王女様がいるなど、考えたこともなかった。
「ふふ、あはは……」
「何か愉快なことが?」
「はい。アリル王女は、父王に復讐をしたようです。侍女に入れあげる王の下着に、浮気者と書いた、と」
「それはすごい。……私にはその部分はよくわからなかった。その前の文章ならわかる。父が浮気をしている、相手は若い侍女。金髪で巻き毛で不幸な女に男は弱い……などと書かれている」
「いつの時代も同じですね」
リリアの脳裏に、義母やルイーズの顔が浮かぶ。
リリアは自分のブルネットの髪に触れる。不幸な女ではあるが、金髪で巻き毛ではない。
「私も金髪で巻き毛だったらよかったのかもしれません」
「君はそのままで十分魅力的だ。全ての男が金髪で巻き毛の女性に弱いわけではない」
「ふふ……冗談です。オーウェン様、この王女様はきっととても魅力的な人だったのでしょうね。怒りに燃える赤い瞳、美しい黒髪。怒っている時のあなたは輝いている……と、次のページの女性の返事の中にあります」
「この人は誰なのだろうな」
「……マーリオカ。古代語で、魔女という意味ですね。魔女……リンデル」
リリアは本のページを指で辿った。
顔をあげるとオーウェンの顔が、至近距離にあった。
慌ててオーウェンから少し離れる。文字を読むのに夢中になってしまった。
オーウェンの金の瞳が、熱を持ち揺れているような気がした。
リリアの思い込みだろう。そう感じてしまうことが、恥ずかしかった。




