家の支配者
暗闇の中で怒りに光る瞳が、荒い呼吸が、細身に見えるのにリリアを押さえつけるびくともしない体が、リリアの全てを蹂躙していく。
心の中にある大切なものを汚すように。心を、圧し折るように。
リリアは目を閉じて耐えていた。瞼の裏側に、静かな図書館の光景が思い出される。
いつも穏やかでチャーミングなクリストファー、優しいジョセフィーヌ。
図書館に訪れる沢山の人たち。絵本を読む子供たち。
皆が帰った後、図書館はリリアの舞台になる。誰にも邪魔されない場所。安全な場所。
ぱらぱらと、本を捲る音がする。窓辺のソファにオーウェンが座っている。
これが夢で、目を開けたらテネグロ図書館であればいいのに。
リリアは仕事中にうたたねをしてしまって──悪夢を見ているというだけだ。
「リリア、お前は僕のものだ。僕の命令にだけ従っていればいい。勝手なことをするのは許さない。二度と離縁などと口にするな」
エラドは何度もそう口にした。
何かに怯えているように。
泣きたくないのに涙がこぼれる。気丈でいたいのに、怖くて。
「お願いです、エラド様、もうやめて、もう嫌です……」
「僕に愛されて嬉しいだろう。義務から逃げるな、リリア。二度と僕に歯向かうな、リリア」
明け方近くになり、リリアは自分の上ではぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているエラドをぼんやりと見あげていた。
どうしてこの人はこんなに怒っているのだろう。
どうして、この人は愛してもいないのに、私を手放してくれないのだろう。
何に、苛立っているのだろう。
悲しみも痛みも苦しみも、不思議なほどに凪いでいる。
感情が飽和して、心が限界を迎えて、何も感じなくなってしまったかのように。
「……エラド様、どうして。愛している人と二人で幸せになれば、それでいいのではないですか。私がここに、いる必要はありません。あなたの妻でいる必要が、ありません」
疑問を口にする。中途半端に乱れた服を直す気力は、今はない。
手も足も動かせない。でも言葉だけは、失っていないようだと、リリアは自分の声をどこか他人ごとのように聞いていた。
「愚かなことを言うな、リリア。それではティリーズ家と同じになる。ティリーズ伯爵がどれほど社交界で馬鹿にされているのか知らないのか。庶民を娶ることがどれほど、嘲笑の対象になるのかお前は知っているだろう。そんなことになれば、グリーズ侯爵家の評判は地に落ちる。父がどれほど、失望するか……」
「エラド様は……お父上が、こわいのですか」
「馬鹿なことを! 怖くなどはない。僕は父を尊敬している」
エラドは苛立たし気に、リリアの顔の横に手をついた。
床に寝ころんでいるリリアは、自分を覗き込む男の瞳をまじまじと見返した。
彼の瞳の中にある感情が知りたい。それはただの怒りなのか。それともそこには、別の感情があるのか。
「イルマに聞きました。お義母様も、ご苦労をなさっていたことを。エラド様もきっと、怖い思いをしたのでしょう。私も、父が怖い。……でも、もう大人です。私もあなたも戦うことが、できます。エラド様、生き方を決めるのは自分自身です」
「生意気なことを言うな」
「エラド様。私は、出て行きます。あなたの傍にはいられない」
「黙れ、リリア! 言っただろう、お前を二度と家の外には出さない。お前は俺のものだ。グリーズ家の妻として、慎ましく過ごせ。それがお前の役割だ」
たとえばこれが舞台なら、リリアは目立たない端役だろう。
エラドとルイーズの恋を輝かせるために存在をする、舞台装置のようなものだ。
けれど──これはリリアの人生だ。
「……私の生き方を決めるのは、私です。私は……私は母のようにはなりたくない。私の子供に、私のような悲しみを背負わせたくない……!」
「簡単な話だ。お前が僕を裏切らなければいい。お前が逃げなければいい。お前が僕とお前の子を愛せばい。リリア、大人しくしていろ。離縁はしない。お前がどこに逃げても必ず連れ戻す」
エラドは起きあがり身支度を整えると、リリアを抱きあげた。
暴れる気力もないリリアを寝室のベッドに降ろすと、部屋を出て行く。
外側から鍵をかけられる音を、リリアは聞いていた。
もう少ししたら──イルマたちがやってくる。
こんな姿を見られたくないなと、リリアは天井を見あげながら思った。
短い微睡の中にいたようだ。扉の外から言い争う声が聞こえてくる。
リリアは起きあがると、急いで衣服を整えた。ぼさぼさの髪を手櫛でなおす。
時計は午前十時を示している。オーウェンとの約束は九時だった。約束を破ってしまったことに気づいて、リリアは眉根を寄せた。
オーウェンは怒っているだろうか。
彼とは出会ったばかりだが、怒るよりもきっと心配をする人だと、考え直した。
「リリア様に何をしたのですか、坊ちゃん! 女性に暴力をふるうなど……!」
「黙れ、イルマ。勝手に寝室に入るな。あの部屋の鍵は、僕の許可があるときしか開いてはいけない」
「それでは牢に入れているのと同じではないですか。坊ちゃん、あなたは馬鹿です。王都劇場の女優なんかに騙されて。顔と声がいい甘え上手な不幸な女に手を差し伸べる男が、坊ちゃんだけだと思うのですか!?」
「イルマ、侍女の分際で僕に偉そうなことを言うな。立場をわかっていないのか。出て行け、イルマ。お前を解雇する」
「坊ちゃん、私はあなたが赤ちゃんのころからずっとお世話を……!」
「母親面するな!」
リリアは扉まで駆けた。「イルマさん!」と大声で呼びかける。
扉の向こう側から「リリア様!」という呼び声が聞こえる。
その後、何かが割れる音や、悲鳴、エラドの「出て行け!」という怒鳴り声が響き──やがて、静かになった。




