所有物
今日も傍にいて欲しいと言うルイーズを説得して、エラドは帰路についた。
今すぐリリアに会わなくてはという使命感と、ルイーズの腹に子がいるというどうにもできない事実がエラドを苛む。
焦燥からか、馬車を走らせる御者に何度か「急げ」と口にした。
リリアは──もう家にはいないかもしれない。それは最悪の裏切りだ。
父に、なんと言われるだろう。お前は何をしているのかと、責められるだろうか。
グリーズ家は騎士の家系だ。男は男らしくしろ。女を従えなくてはいけないと教わってきた。
父も同じことをしてきたはず。何も悪いことはしてない。悪いのは、リリアだ。
「リリア、開けろ!」
屋敷に戻り玄関の扉のドアノブを、がちゃがちゃと握り引っ張り、押した。
鍵がかかっていることに気づき、エラドは扉を蹴り飛ばす。
主人が帰ってきたというのに扉が開いていないなど、ありえないことだ。
リリアは使用人たちを家に帰らせている。今まで勝手なことをするリリアの行動を、全て許してやってきた。だがそれがいけなかった。だから彼女は、つけあがったのだ。
「エラド様、お帰りになったのですね」
「リリア、起きていたか」
優雅で余裕のある男だと見せかけるための口調も、怒りで崩れている。
扉を開いたリリアは、怯えたように青ざめた。
◆
扉を開くと、エラドはリリアの横を通り過ぎてずかずかと中に入っていく。
リリアは扉を閉じて鍵をした。それから、エラドの後を追いかける。
チェスターコートを脱がせて、玄関のコートハンガーにかけた。
今日のエラドは酒臭くない。珍しく、素面だ。
こんな時間に帰ってくることは、最近では珍しい。昨日は帰らず、いつもは朝帰りをすることが殆どだ。
リリアはリビングルームのテーブルに、離縁状が置きっぱなしになっていることを思い出した。
明日イルマたちに話して、それからエラドと離縁をしようと考えていた。
父の元に行き事情を説明し、図書館の仕事を認めてもらおう。
逃げないで、自分の気持ちを伝えようと決心をしたところに、エラドが帰宅したのだ。
リビングルームに足を踏み入れたエラドはすぐに、離縁状に気づいたようだった。
その紙を手にしてそこに書かれたリリアの名を確認すると、離縁状を破り捨てた。
「……エラド様、どうして」
びりびりに破かれて、離縁状が床に散る。
エラドは受け入れると思っていた。彼はリリアを嫌っている。リリアの存在は、彼にとって邪魔でしかないはずだ。
「こんなものまで用意して、周到だな。リリア、離縁をしてオーウェンの元に行くのか?」
「オーウェン様は関係ありません」
「関係ないだと? 夜道を二人で歩いていた。親しい関係に見えた」
リリアがエラドとルイーズを目撃した日、エラドもリリアとオーウェンの姿を見ている。
だがあれは、家に送ってもらっていただけだ。
「オーウェン様とはお会いしたばかりで、ただの知人です。エラド様は、何か勘違いをなさっています」
「勘違いではない。お前は僕を裏切ったのだろう」
「違います。エラド様、離縁状とオーウェン様は関係がありません」
リリアは大きく息を吸い込む。
目の前にいる人間は、誰なのだろう。エラドとは半年一緒に暮らした。
だがリリアとエラドの距離は縮まることなどなかった。
リリアはエラドのことなどなにひとつ知らない。
何を考えているのか、どういう人なのか。
恐怖で声が詰まりそうになる。明らかにエラドは苛立っている。それは、激昂している時の父に似ている。
「私はここを出て行きます。ルイーズさんの身請けに、二千万ファヴリス必要なのでしょう。色々と調べました。劇場の女優を身請けする場合、二百万ファヴリスを支配人に支払うのが相場であると。ですがルイーズさんの場合は歌姫ですから、五百万あれば足りるでしょうか。あわせて二千五百万必要です」
「あぁ。そこまで調べたのか。頭が回るな、リリア。腹立たしい」
「必要なことですから。ダイヤモンドの散りばめられたドレスがあります。あれは高価なものです。それを三着、そして純金の首飾を一つ売れば、そのぐらいの金額になるかと思います」
「それで?」
「それで……それで、ルイーズさんをあなたは妻にすることができます」
五百万で足りると思っていた。だが、ルイーズには二千万の借財があるのだと本人が言っていた。
どうにかなりそうな金額でよかった。
エラドは金について心配をしているのだろう。リリアの背後には資産家のティリーズ伯爵がいる。だからリリアと離縁はできないと彼は考えているのかもしれない。
だが実際はそんなことはない。父はリリアを助けたりはしない。金が必要だといっても、自分でなんとかしろと冷たく突き放されるだけだろう。
「それで?」
「それで……エラド様はルイーズさんと結ばれます。私は出て行きます。だからどうか、離縁状を……」
「お前は僕の妻だ。別れる気はない」
「どうして……」
「どうして? 決まっているだろう。お前は僕の所有物だ。お前に自由などない。二度と家から出るな、リリア。オーウェンに会うな。国王陛下まで味方につけるとは、グリーズ家の恥を社交界に晒す気か?」
所有物──と、リリアはエラドの言葉を反芻した。
父も母についてそう思っていたのだろうか。だから母は、逃げるしかなかったのか。
だから、父は母を傷つけてもどうとも思わなかったのだろうか。
父はリリアのことも同じように考えている。所有物だと。育ててやったのだと。
エラドも、同じ。
「わ、私は……私は、物ではありません。私にも意思があります。エラド様の傍は、私の居場所ではありません。ここを私の居場所にしようと必死に頑張りました。ですがもう、これ以上は……私のためにも、エラド様やルイーズさんのためにも、私はここにいるべきではない」
「だから?」
「だから……離縁を。お願いです。私はここを出て行きます。お金も何も必要ありません、何も残さずに、あなたからも奪わずに、出て行きますから。離縁を了承してください、エラド様」
どうして、何もかもうまくいかないのだろう。
エラドがリリアに近づいてくる。リリアは一歩、後退った。
逃げようとしたところで、エラドに腕を痛いぐらいに強く掴まれる。
「リリア。言っただろう、お前は僕の所有物だ。僕に恥をかかせるな、リリア。離縁はしない。お前の役目は、この家を守り、僕の子を産むこと。グリーズ家の跡取りを産むのがお前の仕事だ」
「どうして……あなたにはルイーズさんがいるのに。ルイーズさんはあなたの運命なのでしょう?」
「そうだよ。彼女のは僕の運命だ。僕を輝かせるために、彼女はいる。お前は僕の道具だ、リリア。この家に来た以上、役目を果たせ」
腕を引かれてリビングの入り口から中へと引きずられていく。
エラドはリリアをソファに投げ捨てるようにして押し倒した。
覆いかぶさってくる男の体を、リリアは腕を突っ張って押し戻し、抵抗をする。
「私は、道具ではありません。やめて、お願いです、触らないで!」
「黙れ。拒絶が許されるとでも? 僕の道具の分際で。だから賢い女は嫌いなんだ。女など、馬鹿なぐらいがちょうどいい。リリア、オーウェンにも抱かれたのか? 女に興味がないと評判の王子がどうしてお前と知り合ったのかは知らないが、最近僕を拒絶していたのは、オーウェンに抱かれていたからか」
「違います、エラド様、私はあなたを裏切ってなんていません。やめて、お願い……っ」
「黙れ!」
頬を叩かれる。父に叩かれた記憶が蘇り、リリアは身を竦ませた。
もう、大人だ。怖いものなどない。でも。
エラドの力に、リリアは敵わない。涙がこぼれる。イルマに頼ればよかった。
今日は一緒にいてくれると、彼女は言ってくれていた。
イルマがいればきっと──こんなことにはならなかっただろう。




