トラウマ
オーウェンやハーヴェイに丁寧に挨拶をして別れた。
ナルヴィラは「また会いましょうね、リリア!」と、何度も手を振ってくれた。
その仕草に──最近会っていない、弟や妹を思い出した。
久々に会いたいなと思う。リリアと彼らの関係は、そう悪いものではない。
だがハーヴェイのように、リリアはまだ割り切れないでいた。
ハーヴェイとオーウェンの間にも、リリアや弟妹たちのような、いや、それ以上に大きな溝がかつてはあったのかもしれない。
だが、今はそれを感じさせない。それはきっと、ハーヴェイの性格によるものが大きいのだろう。
彼はきっと、許したのだ。
母の死を、己の境遇を全て飲み込んで、その心はまるで大空を羽ばたくような自由を手に入れているようにも見えた。
どのように生きるかは、自分で決める。
リリアは、今まで避けていた。生き方を模索してはいたが、エラドと向き合うことをしなかった。
おそらくは、怖かったのだ。エラドは少し、父に似ている。
反抗しないかぎりはその心は凪いでいるが、歯向かった途端に容赦なく叩きのめしてくる、父に。
一度だけリリアは、父に歯向かったことがある。
あれはリリアがまだ十代の時。王立学園に入学する前のことだ。
家の中では口数少なく従順に振舞っていたリリアだが、十代の多感な時期だ。デビュタントの後、囁かれる噂に打ちひしがれていた。
「あれが、噂の……」
「ティリーズ伯爵家の前妻の子よ。でも、前妻は男と逃げたのだとか」
「まぁ、可哀想に」
「ティリーズ伯爵の子ではないかもしれないわ。顔立ちだって似ていないもの。伯爵も可哀想ね。自分の子ではないかもしれないのに、育てなくてはいけないなんて」
「孤児院に預けてしまえばいいのに」
「ティリーズ伯爵は商人でしょう。子も商品の一つと考えているのよ、きっと。磨けば高く売れると思っているのかもしれないわ」
「どうりで、いやらしい金の匂いがすると思ったら。あの子は誰に売られるのかしら。あの子を買う貴族なんて、ろくなものではないわね」
くすくすと、リリアよりも少し年上の少女たちや、貴族女性たちが扇で口元を隠して話をしている。
それは内緒話ではない。周囲に聞こえるように、内緒話のふりをしながら大きな声で陰口を言っている。
デビュタントを迎えた貴族の子供たちの隣には、必ず両親が揃っているものだ。
だがその時義母は共におらず、父は仕事上で関りのある貴族たちに挨拶をして回っていた。
一人、城の大広間にリリアは取り残されていた。
皆、遠巻きに噂をするばかりで、誰もリリアに話しかけない。
自分から話しかけることのできる知り合いも、この時はいなかった。
だから、大広間の隅で背筋を伸ばして、ただ真っ直ぐに立っていた。
ただ立っているだけなのに、息を吸うたびに心が冷えた。背筋を冷や汗が滑り落ち、今すぐ消えてしまいたくなった。
帰りの馬車でリリアは、父の正面に座っていた。
「リリア、お前のせいで私は恥をかいた。あの場には王子殿下や、他にも有力な貴族の子息たちがいた。それなのにお前は自ら挨拶にもいかないとは。ただでさえお前の評判は悪い。人一倍努力が必要なことを、理解しているのか?」
「……っ、お父様」
「何だ」
「お父様のせいで、お母様は家からいなくなってしまったのではないですか。お父様が別の女性を愛したから、お母様は傷ついたのではないですか。私の評判が悪いのは、私だけのせいではありません」
「口答えをするのか。お前を家においてやり、育ててやっている私に」
「私は、生まれたくなんてなかった……!」
「黙れ!」
父は眉間に深く皺を寄せてリリアを睨みつけ、激しい怒りをあらわにした。
頬を思い切り叩かれて、リリアは馬車の座席にうずくまった。
震えるリリアの背中に、父は声をかけたりしなかった。それからリリアは、二度と父に口答えをするのをやめた。
その顔を見るだけで、声を聞くだけで、恐怖が蘇るようになってしまった。
リリアが勉強に打ち込んだのは──恐怖を忘れるためでもあった。
他には何もなかったのだ。与えられるのは勉強道具だけだった。成績がよくなるほどに父の機嫌はよくなった。そうすることでしか、認められる術がなかった。
王都大学に入り、リリアは成人を迎えた。
大人になったのだから何もかもが大丈夫だと思っていた。
幼い頃の思い出も記憶も、リリアを苛むことはない。そう思い込もうとしていたのに、やはり、怖かったのだ。
エラドに歯向かうことを、リリアに巣食う恐怖はためらわせていた。
「このままではいけない。誰も、幸せにならない」
家に戻り、イルマたちが帰路についたあとにリリアは一人、呟いた。
今日もエラドは帰らないだろうか。
テネグロ図書館の給金をもらえたら出て行くと決めていた。でも、それではいけないのだろう。
エラドと話そう。もうリリアの心は決まっている。エラドだって、円満な形でルイーズを家に迎えたいはずだ。
リリアは紙とインクを取り出すと、市役所からもらってきた離縁状に自分の名前を書いた。
それからしばらく、リビングルームのソファに座ってぼんやりしながら時間を潰していた。
エラドと過ごした記憶が、家には色濃く染みついている。
酒の匂い。強引に抱かれた痛みの記憶。恥ずかしそうに渡してくれた薔薇の花束。一緒に王都劇場に演劇を見に行こうと言ってくれた。ほんのわずかな、幸せ。
全てがリリアの中で、過去になっていく。
イルマたちの優しい気づかい。今日のことを皆、何か言いたげにしていた。
でも、帰り際まで誰も何も口にしなかった。
ただ「今日は一緒にいます、奥様」と、イルマは言ってくれた。
それをリリアは断った。彼女には彼女の生活がある。
グリーズ家の者たちには、もうしわけない。だがエラドは本当に愛する人を妻にしたほうがいい。そうすればきっと、彼の心も満たされる。酒におぼれることもなくなるだろう。
前に、進まなくては。
いつの間にか時計の針は、午前零時を示していた。
扉を蹴るような大きな音が玄関から響いた。
「リリア、開けろ! 早くしろ、リリア!」
エラドの声にリリアは慌てて立ちあがる。そして、玄関に駆けて行った。




