国王と王女とオーウェンと
オーウェンは受け止めたアプリコットジャムを握りしめて、深い溜息をついた。
リリアは予想外の出来事に呆気にとられていたが、慌ててオーウェンやハーヴェイ、そしてナルヴィラに礼をする。
「ご挨拶もせずに、失礼しました。リリア・グリーズと申します。お恥ずかしい姿をお見せしてしまい、もうしわけありません。オーウェン様、助けていただいてありがとうございました」
「気にしなくていい」
「叔父様の好きな……ええと、えーと、そうじゃなくて、その、叔父様が! リリアさんの作ったハンカチがすごく可愛いと言うので、欲しかったの。だから、お父様に頼んで連れてきてもらったのよ」
ハーヴェイが落ち着いた声音で言った後、ナルヴィラが両手をぱたぱたさせたり、軽く跳ねたりしながら事情を説明してくれる。
可愛らしい姫君の様子に、リリアは微笑んだ。イルマたちも恐縮しながらも、微笑ましそうに口元をほころばせている。
「私も、ハンカチが欲しかったの」
「もうしわけありません。もうハンカチは売り切れてしまって。もしよければ、好きな動物をおしえてくださったら、刺繍を縫いますね。オーウェン様にお渡ししますので、ナルヴィラ様に届けていただくようにします」
「いいの? やった! ありがとう、リリア。私もミミズクがいいわ、叔父様とお揃いの!」
「え……?」
「いや……その……」
思わずリリアは、オーウェンをまじまじと見つめた。
オーウェンは眉間に皺を寄せて、視線を逸らす。それからどこか諦めたように、口を開いた。
「……実は、ここで君が店を開いていることを、知っていた。以前、ミミズクのハンカチを買ったんだ。……君には言わないつもりだった」
「そうなのですね、ありがとうございます。どうして秘密に?」
彼がリリアのハンカチを買ってくれたことは、リリアにとってはありがたいことだ。
教えてくれたら、きちんと礼を言うことができたのに。
客の顔を全員覚えているわけではない。オーウェンが店に来たことはあっただろうかと、リリアは記憶を辿る。
「ごめんなさい、叔父様。つい言ってしまったわ」
「いいんだ、ナルヴィラ」
「あ……あぁ! そういえば、ミミズクのハンカチを買ってくださった男性に、古代文字の話を少ししました」
リリアは両手をぱちんと合わせる。
身なりのいい紳士に、古代文字の話をしたことを思い出した。あの時オーウェンは帽子をかぶっていて、顔がよく見えなかったのだ。
けれど、声や唇の形が、よくよく思い出してみると似ている。
「オーウェン様だったのですね。まさかお客様だとは思わずに、気づきませんでした。なんて、偶然なのでしょう」
「それを、運命というのではないかな」
冗談めかしてハーヴェイが言う。
リリアはとんでもないと、首を振った。
オーウェンは、古代文字が読めるからという理由でリリアに話しかけてくれただけだ。
「ともかく、リリアが無事でよかった。瓶を投げるなんて……当たっていたら、大変なことだった。打ち所が悪ければ、失明していた可能性もある」
オーウェンがやや怒りを込めた口調で言った。その怒りに煽られるように、ナルヴィラも声を張りあげる。
「そうよ、ひどいわ! 最低よ!」
「ナルヴィラ、落ち着きなさい。まぁ、怒りたくなる気持ちもわかるが。リリア、今のようなことは、頻繁にあるのか?」
ハーヴェイがナルヴィラの両肩に手を置いて、彼女を宥めた。
リリアは彼に尋ねられて、恐縮をしながら口を開く。
「王女殿下や、陛下にまでご心配をかけてしまい、申し訳ないかぎりです。彼女と話すのは、これがはじめてです。あんな風に思われているなんて、知りませんでした」
ルイーズは、リリアを恨んでいるようだった。
エラドに愛されて、幸せなのかと勝手に思い込んでいた。
「助けていただき、感謝します。こんなことになってしまったのは、私の不徳の致すところなのでしょう。夫と、きちんと話し合いをしようと思います。私も、身の振り方を考えなくてはいけません」
「別れてしまえばいいのよ。ね、叔父様」
「……それを決めるのは、リリアだ。私たちが口を挟めることではない」
「そうか? だが助言ぐらいはできるだろう。リリア、水替えのされない水槽の中で生きていられる魚はいない。俺の母は腐った水の中で死んだ。そういう風にしか、生きられなかったからだ」
ハーヴェイが、懐かしそうに目を細める。
ハーヴェイの母は、正妃だ。だが、彼女は王国史の中では存在感が薄い。
前王が立て続けに何人もの妻を娶ったからだ。それまでも二人、三人と妃を娶る王はいた。
これは、男児が生まれなかったり、そもそも子が生まれなかったりしたため仕方なくという意味あいが強い。
だが前王の場合は違う。己の享楽のために後宮を復活させたのだと言われている。
後宮で正妃は、どんな思いで生きていたのだろう。
彼女もまたリリアと同じ。選ばれなかった者だったのだろうか。
「誰が悪いわけではないぞ。人の心など、操ることはできないからな。要するに、全て気の持ちようだ。どこで生きるか、どのように生きるかを決めるのは、自分自身ということだ」
「ありがたいお言葉です。忘れないよう、大事に、胸にしまわせていただきますね」
「クリストファーが、君のことを褒めていた。いつも楽しそうに働いていると言ってな。素晴らしい学歴があるのに、テネグロ図書館に来てくれてありがたいと言っていた」
「クリストファーさんには、いつもよくしていただいています」
「オーウェンも、君を心配している。君を想っている人がいることだけは、忘れないで欲しい。時には助けを求めてもいい。君は一人きりではないのだから」
ハーヴェイはそれから、オーウェンの手の中にあるアプリコットジャムを指さした。
「最後の一つだろう。あの女性はこれがいらないようだから、俺がもらいたい。とても美味そうだ」
「私も食べたいわ、お父様」
「これは……私がもらいます」
「叔父様、意地悪! 大人げないわ!」
それからしばらく、アプリコットジャムは誰のものかという話で彼らは揉めた。
リリアは「たくさん作ってオーウェン様に届けていただきますから……!」と、必死に宥めた。
そうして話をしていると、ルイーズのこともエラドのことも、気にしないでいられた。
ただ、イルマたちが不安気な表情を浮かべていることが気がかりだった。




