072 将軍逝く
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072 将軍逝く
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大永六年一月五日。(一五二二年)
昨年は東北を併呑し、後方に憂いはなくなった。来年は再び上洛することになるだろう。
よって、半臣従している同盟国にも上洛軍に加わるように要請するつもりだ。急に言うと準備ができないから、年始の挨拶に訪れた各家の当主たちにそう申し伝える。
「来年は義篤殿にも働いてもらわねばならぬ。頼みましたぞ」
「はっ。西国の者たちに、坂東武者の強さを見せてやりまする」
「頼もしい限りだ」
俺よりも九歳年下だから、今年で一六歳(数え年)。血気盛んな年齢もあるが、佐竹の周囲は全部武田領なのでここで良いところを見せて、西に領地を求めているのかもしれない。
「南部には若い駿馬三〇〇〇頭を、神無月(一〇月)までに稲葉山城に送ってもらう」
佐竹の次は南部安信。南部領は『三日月の丸くなるまで南部領』と言われるほどの領地になった。史実の領地とは違うが、それでも広大だ。
この『三日月の丸くなるまで南部領』とは、三日月の頃に南部領に入ると、毎日歩いて進んでも領内を通り抜ける頃には満月になってしまうという意味合いだ。つまり、南部が治めている領地は広大だという意味。まあ、南部よりも武田のほうが、はるかに領地は広いんだけどな。
「承知いたしました」
南部は現代の青森県全域と岩手北部を領地にしている。今の南部領はせいぜい五〇万石。兵力は一万五〇〇〇を集めることができるだろう。
だが、一万五〇〇〇の兵を上洛させるのは大変なので、兵は一〇〇〇で良い。その代わり、駿馬を三〇〇〇頭もらうことにした。
南部の駿馬は俺も実際に見ているので、欲しいと思った。武田の馬は木曽馬が主流だが、南部馬は体が大きくて強健で気質も大人しいものが多い。これからは南部馬が武田騎馬隊の主流になるかもしれないな。
武田信玄の武田騎馬隊は最強の騎馬隊として有名だが、これはある意味間違いであるが正しいとも言える。基本的に関東や東北、要は東国の大名や国人たちは騎馬を操るのが上手い者が多い。上杉謙信だってそうだし、伊達政宗もそう。古くは源義経も奥州藤原氏の庇護下で騎馬の腕を磨き、一ノ谷の戦いで鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲した。
話は逸れてしまったが、南部は人ではなく駿馬を供出して上洛を支援しろということだ。そのほうが、南部の懐にも優しいから南部安信も喜んでいるだろう。
他の半臣従同盟者たち、大崎、戸沢、由利十二頭(六家)には従軍を要請した。
それから、伊達を始めとする領地なしの家には、当主と武将だけ出せと言ってある。ここで戦功を立てれば領地を与えることもやぶさかではない。
来年の上洛で俺は天下に号令をするつもりだ。それが、できなければ、俺の代では二度と上洛はしないつもりだ。だから、下手をすれば今回が最後の上洛になる武将も居るだろう。
戦功を立てる最後のチャンスかもしれない。それを理解して気合を入れて働けばいいのだがな。
▽▽▽ 伊勢氏綱 ▽▽▽
大永六年二月二〇日。(一五二二年)
小田原では前日に雪が降った。雪見酒と洒落込んだら、珍しく深酒をしてしまった。だが、いい気分だった。
久しぶりに氏時、氏広たちとゆっくり話せた一日だった。長綱は美濃と近江を行ったり来たりして忙しいため、最近は会っていない。殿は長綱のことを気に入ってくださり、重要な役目を与えてくださる。ありがたいことだ。
さて、寒風が吹き荒れる中、朝廷からの使者がやってきた。勧修寺尚顕様である。
元々武家伝奏である勧修寺様だが、お役目を退かれて久しい。それでも殿の側室の一人が勧修寺様のご息女ということもあり、武田への使者になったようだ。
おそらく上洛の件で使者となったのだろうが、次の上洛は殿が天下に号令するかどうかだ。前回のようにお茶を濁すようなことがあった場合、殿のご気性を考えれば二度と上洛しないかもしれない。
そうならないためにも、松尾信賢様始め、弟長綱たちが東奔西走しているし、近衛様、九条様、鷹司様、そして関白の二条様らにお骨折りいただいている。
昨年逝去した足利義稙公の件は、管領殿が義澄公の遺児である亀王丸様を次の将軍にと推している。それに同調しているのが若狭武田の元光殿と六角定頼殿、それに赤松晴政殿らだ。
赤松殿は亀王丸様を保護していたが、昨年義村殿が亡くなり、今は息子の晴政殿が当主についている。そこで管領殿と共謀して、若狭武田の支援を受けて亀王丸様を京の都にお連れした。
管領たちはすぐに将軍職を継げると思っていたのだろうが、そうは問屋が卸さない。義稙公が逝去したと知った松尾様の動きが速かったのだ。殿から命令を待たずして関白様を始めとする一条家以外の五摂家と極秘にお会いになって、足利の世襲を認めないという言質を取った。
松尾様のこの行動に、殿は大層喜んでおいでだった。「叔父上は俺の気持ちを分かっていてくれる。岩代の叔父もそうだが、良い叔父たちを持った」と。
殿が下座し、勧修寺様が上座にお座りになり、我らは殿の後ろに控える。
勧修寺様は無表情を装っておいでだが、雰囲気は明るい。きっと殿にとって良い話があるのであろう。
亀王丸様を将軍にという圧力がかなりあるはずだ。だが、それを認めては殿は上洛をしない。それどころか、朝廷を敵視する可能性もある。
帝を崇め奉っている殿だが、その気性を考えれば楽観視はできない。勧修寺様もそのことは分かっておいでだと思う。
ここで気を緩めてはいけない。なんでも、気を緩めたところで魔が差すものだ。
「遠路はるばるようこそおいでくださいました。心より歓迎申しあげまする」
殿が頭を下げると、我らもそれに倣う。ここには殿と勧修寺様以外に、裁判方の栗原昌種、財務方の秋山信任殿、開拓方の青木信種殿、生産方の楠浦昌勝殿、兵糧方の小畠虎盛殿、そして軍略方の真田頼昌殿、教来石信保殿、西村正利殿、某こと伊勢氏綱、相談役の板垣信方殿、長尾景長殿、織田信定殿が顔を揃えた。
普請方の長野憲業殿と外交方の松尾信賢様は不在だが、ほとんどの役所の責任者が集まった。
「久しいですな、左大将殿」
「はっ、ご無沙汰をしております」
勧修寺様が頭を上げるようにと言われ、殿を始めとして皆が頭を上げる。さて、どんな話が出てくるか。ある程度は想像できるが、勧修寺様のお言葉を待とう。
「この度、公方さんが亡くなられたのは、すでに知っておると思う」
「聞き及んでおりまする」
「そこで次の話ですがな」
勧修寺様が漆器の箱を恭しく掲げ、頭を下げた。おそらく帝の勅詔が納められているのであろう。
「お上よりのお言葉をお伝えいたします」
「はっ」
全員が淀みなく頭を垂れた。皆があの箱の中身を理解していたのだ。
勧修寺様は帝の勅旨を読み上げる。帝は殿の上洛を心待ちにしているというものだ。
「初夏を待たずして、上洛せよとの仰せであられます」
勧修寺様から勅旨を受け取った殿は、床をじっと見つめ動かない。次に動くまで殿だけ時間が止まってしまったかと思うほどに、長い時間だった。
殿は勧修寺様に、上洛するとは明言しなかった。某は殿が何を考えていたのかを考えた。
帝の勅旨のように上洛すれば、武田は足利から天下を奪った。そう言われるだろう。だが、朝廷が足利頼りなし、武田に天下を預けたとなれば話は別である。
そのためには今年ではならぬのだ。早くても来年でなければならぬ。朝廷が足利を見限ったと世に知らしめるためには時間が要るのだ。
それに、帝は殿の上洛を待っていると仰っておいでだが、天下を与えるとは仰っていない。これが一番不満だったのだと思われる。
朝廷はその逆なのだろう。朝廷にしてみれば、武田が足利を追い出したと思わせたほうが都合がいいのだ。前回の上洛で殿はそういった朝廷の姑息さを知った。もうその手は食わぬと思っておいでなのだろう。
勧修寺様との面会の後、あの場に居た全ての者によって臨時の評定が行われた。
殿は勅旨を受け取った時のまま、無表情で腕組をして座り続けている。
「殿。上座に」
皆に押し出されるように、板垣殿が殿を上座に促した。こういう時は板垣殿が頼りになる。
「ここで良い」
腕組を解いて殿は我らのほうへ向き直った。偉丈夫と呼ぶに相応しい逞しい躰をしている。背中を見ているだけでも頼もしいが、座っているだけでも威風堂々としておられる。
「上洛は予定通り来年だ。今年は上洛せぬ。よいな」
「「「はっ!」」」
「信方は勧修寺様に、それとなく奥州と羽州ではまだ混乱が見られるとお伝えしろ」
「承知しました」
前回の上洛時、殿も簡単にはいかないと仰っておいでで、あっけらかんとされていた。だが、我らには分からぬ感情があったのであろう。
殿の味わった屈辱は、我らが思っていたよりも大きかったのかもしれぬ。此度は絶対に武田の世を築いてみせる。
「皆にも申し渡す。次の上洛で天下に号令できなかった時は、朝廷と距離を置く。それ以降、俺は上洛せぬ」
殿はそれほどのお気持ちで次の上洛に臨むというのか。我らがその先兵となり殿の世を築かねばならぬ。
板垣殿にもそのことを勧修寺様にそれとなくお伝えいただかなければ。
「我ら一同、武田の世を築くため、全身全霊を以て殿を補佐いたしまする!」
秋山殿が某の想いと同じ言葉を代弁してくださると、皆からも同様の声があがった。
我らは一つになり、殿の偉業を補佐するという名誉を得ることができる。なんと心気沸くことだろうか。
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