057 帰還
大永三年八月一〇日。(一五一九年)
関白二条様が俺を訪ねてきた。この時期の来訪なので、俺が京から引き上げる話だろう。
「関白殿下。このようなあばら家にお越しくださらずとも、お呼びいただければ出向きましたものを」
「いやいや、左大将さんは忙しい身でしょう」
まずは挨拶で牽制し合う感じだな。
この二条尹房様は俺よりも二歳年上の若き関白殿下だ。この方の三人の孫が、二条家、九条家、鷹司家の三家の当主になる。
元々、二条家と一条家は九条家から分かれた九条流の家なので、九条家や一条家に養嗣子を入れるのは問題ないと思う。だが、鷹司家は近衛流の家なので、本来であれば近衛から養嗣子を入れるのが筋だろう。まあ、その頃の近衛家は武家に肩入れしすぎて摂家の中でも浮いていたようなので、一歩譲る形で鷹司家を二条家の子に継がすのを容認したのかもしれない。
もっとも、九条流も近衛流も元は御堂流の藤原忠通の血筋なので、摂家の血筋であれば、誰が継いでも大して変わらないのかもしれない。
「近衛さんが、九条さんの屋敷を訪れたと聞く」
「左様でございますな。これで両家のわだかまりが、少しでも解けるとよろしいと存じます」
信房が上手くやってくれて、近衛尚通様が息子の稙家様と共に、九条政基様を見舞われたのは、三日前のことだ。
そして昨日早朝、政基様は身まかられた。最後は穏やかな表情だったと聞いている。
「あの九条さんが、珍しく近衛さんのお名を出され、感謝の言葉を述べておいでであった」
それはよかった。少しは溝が埋まったかな。
二条様はしきりに頷いておられる。喋っているのは、二条様なんだけどな。
再びお茶をすすられると、佇まいを正した。本題を切り出すようだ。
「此度は、京を離れるとのこと。麻呂を始め、皆が心細う思っております」
「我が武田の領国は広うございますれば、京にかかりきりというわけには参りません。よって、京は将軍家にしっかりと治めていただき、某は領国の安定に努めたく思っているのです」
二条様がさらにお茶をすすり、俺を見た。戸惑いのある目だ。
「しかし、三好之長さんと細川澄元さんはまだ摂津にいるとか……」
「そのために、関白殿下を通して将軍家に資金援助をしました。兵馬を揃え、この京を守ってくださるでしょう」
「細川高国さんも」
「管領殿は比叡山にいるとか。尊鎮法親王のお力で、管領殿を抑え込んでいただければ、よろしかろうと存じます」
尊鎮法親王は第一六三世天台座主だ。つまり、天台宗のトップである。そして、帝である後柏原天皇の第五皇子なのだから、しっかりと比叡山延暦寺を抑え込んでくれと言いたい。形だけの座主だというのは俺も知っている。だが、力があるとかないとかの話ではなく、力を示せばいいのだ。
「それでも心配でござれば、美濃か小田原へお越しくだされ。決して悪いようにはいたしません」
小田原はいいぞー。海のものは美味しいし、温泉もある。それに、酒だって美味いものをとり揃えている。
「九条さんと近衛さん、それに鷹司さんは下向するようだが、麻呂はお上のそばから離れるわけにはいきませんのだ」
うん、分かっている。だから、二条家には独自に兵を雇う銭を贈った。兵を指揮する武将が要るのであれば、出向させるとも申し入れた。あとは、二条様の判断を待つだけだ。
「正直申しますと、将軍家と幕閣の方々は、某が幕府の中で働くのをよしとされないようです」
こんなことは、言わなくても分かっていたと思う。だが、あえて言う。
「ですから、武田としては京から距離を置き、領国経営に励みたいと思っているのです」
実を言うと、足利義稙は奥羽や西国の各家に、上洛を促している。
足利義稙にとって、三好之長と細川澄元は敵という認識ではない。だから、足利義稙を奉じてくれるのであれば、細川澄元を管領にすることだってやぶさかではない。細川高国よりもよほどマシだと思っているはずだ。
そして、ぽっと出の俺のことは頭の片隅にもなく、むしろ邪魔に思っている。京の近くに大勢力があるのが、気に入らないのが足利という血筋なのだ。
「左大将さんがいたから、この京は焼かれずに済んだというのに、何を考えておいでなのか……」
「それが分からない方もいらっしゃるのです」
二条様と一緒に顔を振る。お互い苦労しますね。
▽▽▽
大永三年八月二二日。(一五一九年)
今浜に入っていた長野憲業から、新しく築く城について報告がきた。
報告によれば、港を併設する城にするとのことで、軍船の造船所も一緒に築くそうだ。俺はそれに許可を出した。
その報告の後、伊賀の百地丹波守が報告にきた。
「大坂御坊に織田大和守殿を確認いたしました」
大坂御坊というのは、のちに石山本願寺と名を変え、豊臣秀吉が大坂城を築いた辺りのことだ。今は一向宗の本拠地になっている。
そして、織田大和守というのは織田達勝のことだ。一向宗を引き入れ知多の惨劇を引き起こした張本人である。
「ほう、大坂御坊にいたか」
「今は名を津田判官と名乗っているようです」
「判官? 源義経にでもなった気か?」
「そこまでは……」
百地丹波守もそこまでは調べてないか。まあいい、源義経のように平泉に逃げることはできないぞ。その前に潰す。
「頼昌、氏綱、信保。面白いことになりそうだな」
真田頼昌、伊勢氏綱、教来石信保。軍略方の三人に笑顔を向ける。三人には黒い笑みに見えたことだろう。
どの道、安芸武田家を支援するため、瀬戸内は抑えておきたかったところだ。これは大坂御坊を得る絶好の機会だと思う。
「殿。津田判官の引き渡しを要求いたしましょう」
「うむ。それで引き渡さなければ、大坂御坊を攻めるよい大義名分になりまする」
「できれば根来寺を味方につけたいところですな」
頼昌の意見に氏綱が同意し、信保が根来寺を味方にと提案する。
根来寺は紀伊国(和歌山県)の北部にある寺だが、僧兵を多く抱えている。俺の嫌いな、宗教なのに兵力を持っている奴らだ。
「も、申しわけございません。浅慮でした」
信保が平伏した。俺が根来寺のことで厳しい表情をしたのを読んでのことだろう。
「何も謝ることはない。根来寺が宗教と僧兵を切り離すのであれば、僧兵だった者たちを我が配下にすることは問題ない。問題は、そういったことを奴らが認めるかだ」
「殿のお考え、心いたします」
「だが、根来寺の抱える水軍は、邪魔だ。安芸武田を支援するためには、どうしても瀬戸内へ武田海軍を向けねばならない。その時、根来寺には臣従して政教を分離するか、水軍を割譲するか、滅ぶかを選ばせることになるだろう」
紀伊半島は完全に俺の支配下ではない。伊勢国でも北勢しか抑えていないし、志摩も九鬼が配下に加わっただけだ。だから紀伊半島のほとんどは俺の支配下にない。
今後、安芸武田に支援する時、紀伊半島から瀬戸内を抑えないと船で輸送が叶わない。大坂御坊を攻撃するにしても、すぐそばの海域で根来の海賊がうろうろしては、攻撃に専念できないからな。
「頼昌。大坂御坊に使者を出せ。織田達勝を引き渡せとな」
「白を切るおそれもありますが?」
「白を切っても構わぬから、引き渡せと命じろ。引き渡さなければ、大坂御坊を攻める口実になるし、引き渡せば達勝を裁くだけだ」
「なるほど。では、そのように使者を出しましょう」
さて、腐れ坊主どもはどう返事してくるかな。
達勝を庇い立てしてくれれば、格好の口実になる。まあ、どちらでも構わない。達勝を庇ってくれても、今すぐには攻撃できない。そんなことをすれば、摂津にいる三好が動けなくなるからな。
動くのは三好が京に攻め入ってからだ。今は日本海側から船を出すだけでいい。
「丹波。大坂御坊のほうは、見張るだけでいい」
「承知しました」
「それよりも三好は本当に動くんだろうな?」
「阿波と讃岐から摂津に、物資が運びこまれています。長逗留だけであれだけの物資は必要ないでしょう。殿が小田原にお帰りになりますれば、動くこと間違いなしと存じあげます」
「分かった。引き続き三好のほうも監視を怠らぬよう、頼むぞ」
「はっ」
今、上洛する理由があるのは、三好くらいなものだ。細川澄元を管領にするために上洛軍を起こしたのだから、ここで引き返すのは不本意だろう。
きっと、俺に早く小田原に帰ってくれと思っているはずだ。心配するな、俺はもうすぐ京を発つ。がんばって京を好き勝手してくれよ。




