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第十七話 たった一歩



「……あ、いや、なんかその……お、怒らないでほしいんですが……クラウド隊長はあの城を見た途端、急に叫んで……そのままどこかに行ってしまって……」


彼の言葉に私は目を伏せ、短く息を吐いた。

怒らないでほしい、という言葉にそんなに私は怖いのかと思うのも一瞬、その胸中にはかつて信頼した男の姿が浮かんでいた。


(あのクラウドが逃げた……? 八番隊として数々の功績を上げ、器量も誇りもあるあの男が発狂したとは俄かに信じ難いが……。いや、確か奴は感覚知覚に優れた者だった。……とすれば、もしや何かこの先にいる何かを感じて逃げたと見るべきか……? だが、そうなればこの先にいる者はそれほどまでの存在ということに……)


私はそれを聞いたのち、振り返って自分の隊員の顔をしっかりと見て、少しだけ息を吸ってから隊に指示を出した。


「……これは命令だ。……リュカ、ラッド。八番隊のシープスと共に王国へ戻れ。ここから先は少数精鋭で行く」


私の指示に、リュカとラッドは一瞬驚いたように顔を上げ、そして……ゆっくりと深く頷いた。


「……はい……!」


彼らは若くも優秀な兵士。

恐らくこの指示の意図にも気づいているだろう。

……だが、それでも彼らにはまだこの任は重い。


そしてそれをも理解しているがゆえに、彼らは何も言うことなく指示に従ってくれた。


……まったく、本当に良い部下に恵まれたものだ。

などと三人が去ったあとに私は静かに息を吐くと、私の隣にいた老齢な騎士が同じく深く息を吐きながら肩を回し、兜から苦笑を覗かせた。


「まったく……これから起こることを想像すると、なんとも嫌なもんですなぁ……。儂らも逃げてもいいですかな?」


――と、それに私が答えるよりも早く、さらにその隣にいる男もまた槍を地面に突き立てながら、顔をしかめた。


「いやはや、若いもんだけ帰らせて……儂らもまだ若いじゃろ?」


そう語り、二人で顔を見合わせて笑っている老齢の騎士を見て、私もまた僅かに口角を上げる。


「そう言うな、レガス、ローラン。無事に帰って来られれば酒をどれだけ飲んでも不問にしてやるぞ?」


その言葉にレガスが目を輝かせて笑う。


「はっはっは、それならば微力ながら私は最後までお供しますとも」


次いでローランも頷きながら、口元に笑みを浮かべた。

その笑みは老練な戦士の余裕というよりも、覚悟を決めた者の静かな決意のように見えた。


「うむうむ。しからば儂も隊長殿と命を共に……」


その言葉に、私は思わず小さく笑みを返す。

この場にいる誰もが冗談を交えながらも、心の奥では同じものを感じていた。

―――何物にも代えがたいほどの恐怖。

ただ、それでも誰一人として逃げようとはしなかった。


「まったく現金な奴らだ……。だが、正直今だけは助かるよ。……私ですら、一人では足がすくんで動けなくてな……」


私はそう言いながら、震える手を剣の柄に添えていた。

指先がわずかに汗ばんでいるのを感じる。

それは剣聖と呼ばれる私でさえ抗えぬ本能の警鐘か。


「ははっ、天下の剣聖様が弱音とは……明日は槍でも降りましょうか?」

「いやはや、ですが儂も人のことは言えぬもんです……こんなに重い圧力を感じるのはいつぶりかのう……」


私の言葉にレガスが肩をすくめ、ローランは空を見上げながら低く呟いた。

私は深く息を吸い込み、肺の奥まで冷たい空気を満たす。

そして、震えを抑えるように剣の柄を強く握りしめた。


「そうだな……だが、私らが行かなくては何も変わらん。……さぁ、行くぞ……!」


その言葉にレガスとローランは無言で頷いた。


そして、レガスが一歩前に出る。

彼は静かに両手を掲げ、意識を集中させる。

その動きは派手ではないが、長年の経験に裏打ちされた確かな所作。


「えぇ……では、失礼して――――」


その言葉とともに、彼の低く、しかし力強い詠唱が始まった。


―――レガス・アルヴェリオン=グレイマント。

王国にその名を知らぬ者はいない――老獪にして熟練の魔法使いであり、ソフィア=グレイスの隊に所属していなければ、各守護隊の隊長にすら劣らぬ実力を誇る大法使い。

彼の真骨頂は通常の魔法使いなら不可能な、同時に三系統の魔法を重ね合わせるという高等技術――《三重魔法》を使えることにある。


「【耐熱結界(フレーム・シェイル)】!」


力を込め、そう発した彼の言葉と共に私たちの足元に赤い魔法陣が展開され、同時に周囲の熱気を遮る膜が身体を包み込む。

そして。


「【防護結界(ガーディ・シェイル)】!」


続けて発した彼の魔法による青白い光が身体を覆い、半透明の防壁のようなものが形成され。


「【魔法効果強化(エクステンド・マギア)】!」


最後に、今しがた掛けた魔法の効果を更に引き上げる術式を重ねる。


―――これが《三重魔法》。


灰色の外套を翻し、静かに杖を掲げるその姿はもはやただの老人ではない雰囲気を醸し出していた。

その光景を見届けた私たちは、互いに顔を見合わせる。


「……準備はいいな?」

「応!」

「いつでもいいですぜ?」


そしてついに城との境界線へと足を踏み出した私たちは―――。








たった一歩。







たったの一歩だけ境界に足を踏み入れたその瞬間。

空気が……いや、世界が変わった――――。


「――――っ!? ……これは……!? 我が王国に伝わる秘宝―――"神鳥の鎧"を以てしても感じる熱量だと……!?」


まるで空間そのものが怒りを持って押し寄せてくるような熱気に、熱を完全に防ぐと言われている神具と防熱魔法をかけているのにも関わらず、私は思わず顔を腕で覆い、共に足を踏み入れた後ろの二人に声を張った。


「くっ、二人とも……無事かっ……!?」


……だが、返事がない。


「――レガス!? ローラン……? ―――なッ!?」


不審に思って後方を見た瞬間―――この熱気の中だというのにも関わらず、急速に私の胸は凍りついた。


視線の先にはローランが膝をつき、槍を支えにして辛うじて倒れ込むのを堪えているがその顔は蒼白で、口元からは浅く震える息が漏れている。

一方のレガスは完全に意識を失っているのか、地面に横たわっていた。

魔法の余波がまだ彼の周囲に残っていたが、結界はすでに崩れかけている。


「――ッ!」


私は迷うことなく駆け寄った。

まずレガスの腕を抱え、肩に担ぎ上げる。

その身体は異様なほど熱を帯びていて、"神鳥の鎧"越しでも熱が伝わってくる。


「ローラン、立てるか!?」

「……す、すまぬ……少しだけ……」


彼は槍を杖代わりにして立ち上がろうとしたが、足が震えている。

私はレガスを担いだまま、もう片方の腕でローランの肩を支えた。


「無理はするな! ―――ッ、一旦境界の外に下がるぞ!」


二人の体重が私の両肩にのしかかる。

だが、今はそれを気にしている場合ではない。


私は歯を食いしばり、足を踏み出し、たった一歩だけ外に出る。


―――本当にたったそれだけのことなのに、再び空気が元に戻る。

熱が引き、風が戻り、森のざわめきが耳に届く。


私は思わずその場に膝をつき、レガスを地面に横たえ、ローランを支えながら座らせた。


「……っ、はぁ……はぁ……」


熱によるダメージは神具のお陰でさほどもない。

だが、それがないと一歩も近づくことができないこの現状に―――私は生まれて初めて戦慄していた。

やがて、体力の回復したローランが肩で息をしながら、私の顔を見上げた。


「……っ……隊、長……申し訳……ありま、せん……っ……!」


私は彼の体を支えながらも頷き、レガスの脈を確認する。

微かだが、確かに生きている。


「……よかった……」


その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ胸の奥から漏れた祈りだった。


私は再び、城を見据えた。

黒曜の輝きは確かにそこにある。

ただ、その間に感じる圧倒的な彼我の差に、私は深く息を吐く。


「……こうなったら……私が一人で行く……!」


気が付けば私は剣の柄に手を添え、再び立ち上がっていた。


境界付近に座るローランはこちらを見つめて、何かを言いたげだったが私の覚悟を尊重し、目を瞑った。


―――この先にはきっとこれ以上の試練があるだろうことは目に見えて分かった。

だが……私しかこの現状を変えられない今―――今はまず、仲間を守ることが先だと。

私は境界の向こうに目を凝らしながら、静かに誓った。


「……必ず戻る。必ずだ――――」


それはローランに向けてか、レガスに向けてか、はたまた自分に言い聞かせてか。


私は再び大きく息を吸い―――、境界の中へと足を進めた―――――。




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