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最終話・聖女の結婚式

 リンドブロム大公国に、真の意味で春が訪れようとしていた。

 あの日と同じぐらい眩しい青が天を埋め尽くし、どこまでも突き抜けてゆく。


「……ふう」


 『人の聖女』ミーアが、部屋の中央で立ち尽くしたまま大きく息をついた。

 その身に纏っているのは、真っ白なエンパイアラインのウェディングドレス。剥き出しの細い肩が微かに振るえ、長く床までたなびく透き通ったレースのベールもミーアの動きに合わせて細かく揺れている。


 ミーアの左手の薬指には、美しい白銀の指輪がはめられていた。ミーアの細い指にはやや大振りのその指輪は、正妃の金の指輪と対になる模様になっている。


 本来、リンドブロム大公宮から側妃や愛妾に指輪を贈られることは絶対に無い。

 つまりこの白銀の指輪こそが、大公宮がミーアを唯一無二の『聖妃』と認めた証となるのだ。


 今日は、大公世子ディオンと聖女ミーアの結婚式。大公宮聖殿における結婚の儀をこなし、大広間で大勢の貴族の前でのお披露目を終え、ミーアは既にかなり疲れていた。

 この後はバルコニーに出て民衆に挨拶をし、次に馬車で大公宮から橋を越えてロワネスクの街を巡る、婚礼パレード。


 その狭間の時間。大公宮の想像を超える数の民衆が詰めかけているらしく、準備や警備に手間取っているようだ。

 いつもミーアについているメイドは、これからの段取りを確認するために

「少しお休みになっていてくださいね」

と言い残し、聖妃控え室を出て行った。


 部屋に一人きりになり、ミーアはそれまで我慢していた溜息を大きくついた。力の抜けた肩が、斜めに下がる。

 

 この日を迎えるまで、本当に大変だった。貴族社会の中で育っていないミーアに必要とされた妃教育は通常の三倍ほどあり、時間に追われる毎日だった。

 実際にはまだすべては終わっておらず、ミーアの部屋の机の上には栞があちこちに挟まれたままの本がまだ積み上げられたままだ。

 礼儀作法もどうにかこなしている、という域であり、およそ優雅とは言い難い。その小柄な体で一生懸命に振舞っている様子が愛らしい、という程度。


 かといって、ミーアは大公宮で冷遇されていた訳ではない。むしろ大公宮の人間は、誰もが心からミーアを歓迎していた。

 大公世子ディオンは勿論、大公殿下や大公妃殿下もミーアに優しい。聖妃補佐という新しい地位に次期侯爵クロエ・アルバードを就けたのも、ミーアを慮ってのこと。

 クロエは大公宮に時折訪れ、貴族社会に疎いミーアのためにいろいろなことを教えてくれた。

 マリアンセイユに付いていた近衛武官たちも、ミーアを聖妃に据えたのはマリアンセイユの強い望みだと理解していた。よってミーアを身分の低い娘と侮ることなく、実によく仕えてくれている。


 もうここには、ミーアに心無い言葉をぶつけたり、意地悪をしたりする人間は存在しない。

 真綿で包み込むような、柔らかくて暖かい環境。これまでとは比べ物にならないぐらい、恵まれている。

 ミーアの未来は、光に満ち溢れている。


 ……しかし。

 それでもミーアの心のどこかに、ぽっかりと抜けたまま埋まらない穴がある。思い出すたびに、その穴を一筋の風が抜けてゆく。


「……はぁ」


 今日何度目になるかわからない溜息をついたそのとき、部屋の窓からコンコン、というガラスを叩く音が聞こえた。


 かつて何度も耳にした音。ミーアはハッとして窓へと顔を向けた。一羽のカラスが黄色い嘴で窓をつついている。


「……噓でしょ」


 言葉とは裏腹に、ミーアの身体は窓の方へと引き寄せられるように動いていた。

 ドレスの裾を持ち上げる手がおぼつかない。ミーアの足に絡みついて、何度ももつれそうになる。

 ようやく窓に辿り着いたが手が震えてしまい、カチ、カチと何度やっても上手くいかなかった。


 それでもどうにか錠を下ろし、片手で開くと。

 真っ黒なカラスがすっと部屋の中に入ってきた。そしてふかふかした若草色の丸い絨毯の中央に佇むと、その黒い姿は溶けるように崩れ落ちた。あっという間に、人間の姿に変わる。


 蒼いまとめ髪に載せられた銀の環。褐色の肌を包むのは、黒いロングワンピースに白いフリル付きエプロンといういわゆるメイド衣装。

 三日月のような弧を描いた銀の瞳。蠱惑的でどこか頼もしい、懐かしい笑顔。


「……サルサ!」


 名前を呼びかけると当時に、ミーアの顔がぐしゃっと崩れた。あっという間に水色の瞳から涙が溢れ、ほろほろとこぼれてゆく。

 ミーアは両腕を伸ばして真っすぐに駆け寄り、勢いよくメイド姿のサルサに抱きついた。


「どうして!? もう会えないと思っ……んっ」


 サルサの細くて長い人差し指が、すっとミーアの唇を押さえる。


「詳しいことは言えないの。一言だけいうなら――『魔物の聖女』のおかげね」

「……」


 魔物の聖女――マリアンセイユ、つまり繭のことだ。

 今は魔界にいるはずの、逞しくも美しい、ミーア(美玖)同士(友達)


 魔界のことは聞けないのだろう。でもとにかく、今こうしてサルサがミーアの元へ来たのは――来れるようにしてくれたのは、マリアンセイユのおかげだということ。


「ほら、今日はあんたの晴れ舞台でしょう? 泣いちゃ駄目じゃない。せっかくのお化粧が崩れるわ」

「だ……だって……」

「結婚おめでとう、ミーア。あんたのその姿が見れて、良かったわ」


 そう言うと、サルサはそっとミーアの身体を離した。縋りつくように回されていた腕も、優しく一つずつ外していく。


「もう……会えないの? これが最後?」


 サルサの去ろうとする気配を察し、ミーアが引き留めるように声をかける。

 サルサは少し微笑むと、ゆっくりと首を横に振った。


「最後じゃないわ。……次の約束はできないけど」

「……本当に?」

「そんな情けない顔をするんじゃないわよ」


 アハハ、と大きな口を開けて笑うと、サルサは両手を自分の腰に当てた。

 一緒にいた頃、ミーアが何度となく見たサルサの頼もしい仕草。


「聖妃になるんでしょう? そんなことでどうするのよ」

「うん……」

「あたしはもう、傍についてミーアを励ますことはできない。だけど……まぁ、たまーに、あんたの子供じみた愚痴を聞くことぐらいならできると思うわ」

「子供じみてなんか、ないわ」

「あら、そう」


 そのとき、部屋の扉の奥からパタパタという数人のメイドの足音が聞こえてきた。


「時間だわ。じゃあ、またね」

 

 サルサの姿が再び黒いカラスに戻り、開け放したままだった窓から飛んで行く。

「あ……」

とミーアが呟いた瞬間、部屋の扉が勢いよく開き、三人のメイドが現れた。


「ミーア様……ええっ!?」

「どうなされたんです!?」

「何か不都合がございましたか!?」


 頬には幾重もの白い筋がつき、口紅も一部剥がれてしまったミーアの顔を見て、メイドたちが慌てふためく。

 誰が見ても、ミーアが独りで泣いていたことは明らかだった。


「違うの、何でもないんです」

「でも……」

「ただ……いろいろ思い出して、ちょっと感極まってしまって。ごめんなさい」

「え……」

「これは嬉しくて流した、温かい涙なんです。でも……お化粧をやり直さないといけなくなって、ごめんなさい」


 ほろ、と最後の一粒がこぼれた。それでもミーアの幸せそうな柔らかい微笑みに、三人のメイドはホッと胸を撫でおろした。まずはお化粧を直しましょうといい、ミーアを鏡台へと案内する。


 ――もう、繭ったら。絶妙なタイミングで、なんてお祝いを寄越すのよ。


 ミーアには詳しくは分からないし、知る術もないが。

 マユが『自分はさておき他人を』というタイプでないことはよく知っていた。良くも悪くも、自分が楽しむことを最優先するのがマユである。

 だからきっと、魔界でやりたいことを見つけたし、好きな人にも会えたのだろう。

 そしてサルサのことを思い出し、こうして会わせてくれたのだろう、とミーアは考えた。


 ――ありがとう、繭。でも……繭のコイバナが聞けないことが、本当に残念だわ。


 ミーアの中の美玖は心の中でそう呟き、窓の向こうのどこまで広がる青い空を見上げた。




   ◆ ◆ ◆




「上手く会えたみたいね」


 私の目に、大公宮の一室から黒いカラスが飛び立つのが見えた。

 その姿はやがて真っ白な鳩に変わり、大公宮のドームの頂上に降り立ちピタリと止まる。

 これから始まるバルコニーでの『聖妃ミーアのお披露目』を、民衆と共に祝うつもりなのだろう。


「どうやら不義理を働いてはいないようですね」


 私の隣にいた魔王セルフィスが、いつものように嫌味っぽく言葉を添える。


 私達はムーンの背中に乗って大公宮の上空を飛んでいた。ムーンの結界により、地上から私達の姿は見えない。


 私が魔界に来てから四か月余り。

 リンドブロム大公国にも春が訪れ、ミーアとディオン様の結婚式がいよいよ行われると知って、

「見てみたいな、結婚式。……それに、サルサをミーアに会わせたいわ」

と言うと、セルフィスが

「まぁ、いいでしょう。わたしも一緒に行きます」

と、珍しくすんなり了承してくれたのだ。



「え、ひょっとしてサルサを見張るために一緒に来たの?」

「それはありますね」

「ええー? 見たでしょう、『聖女の匣迷宮』でのサルサの奮闘ぶり。ハッチー達やカバロン達とも上手くやってくれてるし」


 地上に詳しいサルサは、匣迷宮ではメイド長みたいなポジションに就いていた。

 昔ながらのやり方をずっと続けている彼らに対し、良いところは残しつつ、より便利になるよう、無理のない程度に新しいことを教えてくれている。


「マユの聖女としての力を信用していない訳ではありませんが、念のためです」


 わたしは魔王ですから、とセルフィスがすました顔で言う。

 何よ、その上から目線……と文句を言いかけたところで、下からひときわ大きな歓声が聞こえた。


 見ると、大公宮の正面の一番大きなバルコニーに、大公殿下と大公妃殿下、そしてディオン様とミーアが並んでいた。

 ふわりと広がる真っ白なウェディングドレスを着て長いベールを靡かせるミーアはとても幸せそうに微笑んでいて、綺麗で、可愛かった。

 でも、少し瘦せたかな。ただでさえ小柄なのに。妃教育が大変だったのかしら。


 そんな大公宮の面々の頭上を、白い鳩が円を描くように飛んでいる。それに気づいたミーアが空を見上げ、にっこりと微笑んだ。


 その白い鳩がサルサだと気づいたのかもしれない。その向こうの私には、さすがに気づかないだろうけど。

 でも、胸の奥がぎゅうっとなって、喉がきゅっと詰まった。温かいものがこみ上げてきて、目頭に伝わる。

 うるる、と涙が溢れてきた。ポタ、と白いレースの手袋をした手の甲に落ちる。


 今日の私は、聖なる者の装いではなく、匣迷宮で来ているカラフルなドレスでもなく、オフホワイトのスレンダーラインのドレスを着ていた。

 装飾は控え目だけど、きちんと髪も結って、白いリボンをあしらって。フィンガーレスタイプのレースの手袋をして、小さな花束を持って。

 いわゆる花嫁付添人ブライズメイドの出で立ちだ。今朝になって、急にサルサがこのドレスを持って私の部屋に現れたのだ。


「ありがとう……セルフィス」


 キュッと右手で花束を握り、左手でセルフィスの右手を握る。

 多分、指示をしたのはセルフィスなんだろう。春になったら結婚式をするらしい、どんな感じかしら、と話題にした覚えがある。

 見に行きたいと言い出すのはわかっていただろうから、密かにハッチー達に作らせていたのね。


「まだ礼を言うのは早いです」


 そう言うと、セルフィスは自分の右手に載せられた私の手をそっと左手で掴んだ。そして自由になった右手を軽く振ると、その指先に何かが現れる。


「あ……」


 黒い輪と白銀の輪と金の輪が重なり捻じれたリング。その頂点にはひと際大きなダイヤモンドがあり、周囲を金の光を放つ黄水晶が取り囲んでいる。

 まるで魔界と魔王、セルフィスの瞳を体現したかのような意匠。


「防御魔法を施しておきました。わたしが毎回かけなくても済むように」

「え……」

「とはいえ、勝手にあちこち出かけられるのは困りますけど」


 ――マユは、聖女の前にわたしのものなので。


 そう言い、セルフィスが今日は何もはめていない左手の薬指にその指輪をはめる。


「……ありがとう、セルフィス」


 鼻の奥がツーンとして、さっきとは違う涙がこぼれた。

 さっきよりずっと熱くて、その涙が頬を伝うにしたがって顔が上気する。胸がドキドキと高鳴って、視界のセルフィスがゆらゆらと揺らぐ。


 セルフィスにそっと抱き寄せられて口づけられた。目を閉じると、目尻からまた一粒、涙がこぼれたのが分かる。


 ああ、そうか。これはセルフィスが用意してくれた、私のための結婚式なのか。


 そう気づくとますます気持ちが高鳴って、あとからあとから涙が溢れた。

 魔界には……魔王には、およそ必要のないものだ。魔獣たちを全員集めて謁見してしまえばそれで充分でしょう、とか言ってたくらいなのに。



 地上ではバルコニーでの祝福が終わり、ミーアたちの姿が消えていた。

 橋の門が開かれているところ見ると、いよいよ大公宮からの婚礼パレードが始まるのだろう。


「……帰りましょう、セルフィス」


 いつの間にかまた膝の上に乗せられていたことに気づいて少し慌てたけれど、今はとても幸せな気持ちだから、まぁいいわ。


「もういいのですか?」

「ええ。ミーアの幸せそうな姿も見れて安心できたし……それに私の居場所は、魔界だから。魔王や聖女シュルヴィアフェス、魔獣のみんな、そしてセルフィスが作ってくれた、あの場所だから」


 私の言葉に、セルフィスの金の瞳がぐにゃりと曲がる。滅多に見ることができない、心の底から嬉しそうな笑顔。


 私達がもう一度軽く口づけを交わすと、それを合図にしたかのようにムーンが大きく翼をはためかせ、魔界へと飛び立った。

 リンドブロムの青い空は今日も素晴らしく晴れ渡っていて、大公宮の人達や貴族、民衆だけでなく私達をも包み込むように広がっていた。



 

 ……と、ここで終われば美しかったのだけど。

 魔王城に戻ると、十二体の王獣・魔獣が勢ぞろいしていて、すでに飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎになっていてズッコケそうになった。

 ハティとスコルもハッチー達が用意したご馳走にガフガフかぶりついているし、お調子者のトラスタが飛んだり跳ねたりして場を盛り上げている。


 これ、私のための披露宴じゃなかったの?と思ったけれど、形にこだわらず、みんなが好き勝手やりながらもどこか楽しそうにしているのが、魔の者らしくていいのかもしれない。


 開かれた謁見の間の大きな扉から覗く、黒と銀と金で彩られた魔界の宙。

 今日も美しく、漆黒の魔王城を照らしていた。







                                - Fin -





 この、おまけである後日談にまでお付き合いしてくださった方々。

 本当にありがとうございました。

 これで、マユの物語は完全に完結です。


 こうしてFinマークをつけることができたのは、連載終了後も興味を持って読んでくださった方々がいらっしゃったおかげです。

 とても感謝しております。


 マユの物語は終わりですが……実は、『舞台裏』が存在します。

 この世界の存在する意味、そしてなぜマユはこの世界にやってきたのか……といったようなことが明らかになるお話。


 まさに『舞台裏』。ベニヤ板丸見え、釘も出ちゃってますけどー、みたいな感じです。

 マユが主人公ではないですが、ちょこっと待って頂ければちゃんと出ます! 「彼」視点で!


 この世界の裏側について語っていく予定ですので、できましたら更新通知はそのままで。

 「いや裏とか別にいいや」という方々も、できましたらそのままそっと本棚の片隅に。

 ……なーんてね。 d( ̄▽ ̄;)(←ちょっと苦しい)


 いずれにしても。

 長い間、この『収監令嬢』の世界に触れて下さり、ありがとうございました。


                   2022年6月14日 加瀬優妃


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