聖女の魔獣訪問 番外・サルサ(後編)
サルサは自ら魔物になることで、妹と村を救った。
しかし同時に、帰る場所を失った。人間の心を失わなかったからこそ、生まれ故郷を去るしかなかった。
それから何百年の時を経て、サルサはミーアと出会った。
二人が一緒に過ごした時間は、そう長くはない。だけど少なくとも、サルサの人間だった頃の記憶と感情を鮮やかに呼び起こした。
そして、そんな話を私にしてくれたということ。
少しは、私に心を開いてくれたのではないかしら?
「で? あんたは何を望むの?」
両腕を胸の前で組み、サルサがどこか挑戦的な瞳を向ける。
しばし考え込んでいた私の様子に、何かを感じたらしい。
「あら、お見通しなの」
「伊達に人間たちを眺めてきてないわよ。ただお喋りするためだけにこの場所に来たわけじゃないでしょう」
「……そうね」
ああ、今こそ本気で魔物の感情値データが欲しいわ。
上手くいくかどうかはわからない。……だけど。
「――カイ=ト=サルサ。あなたと、取引したいと思って参りました」
これは、『魔物の聖女』としての取引。
姿勢を正し、気持ちを引き締めて、真っすぐにサルサを見つめる。
「あら、なぁに?」
空気が変わったことに気づいたサルサは、やや右の眉を上げ、ニンマリと笑った。
「ここから出るために――『魔物の聖女』である私に縛られていただけませんか?」
思い切ってそう告げると、サルサは一瞬だけポカンとし、
「…………はあっ!?」
と一オクターブ高い声を上げた。
あんぐりと口を開け、意味が分からないという風に何度も瞬きをしている。
「縛……ええっ?」
「私があなたに、『聖女マリアンセイユ』の輩下としての名前を授けます」
「名前?」
「ええ」
どれぐらいサルサを縛れるかはわからない。彼女が私にどれだけ心を開いてくれたか次第。
だけど……もし彼女を縛ることができたなら、少なくとも私の意に反することはできなくなるはず。
何しろ魔王の配下であるはずのリプレは、『聖女が命令するなら魔王の命令に逆らえる』と言ったのだから。
そしてフェルワンドは、ハティとスコルに対して
「多少、魔界由来の魔精力を取り込んでも歪みは抑えられる」
と断言していた。今なら聖女に縛られている、だからその間に鍛え上げるのだ、と。
同じことがサルサに言えるのでは? サルサは能力はとても高いけれど、魔獣として考えた場合にあまりにも防御が弱い。セルフィスが魔界の風から守っているのは、そのため。
「もしあなたが私を信頼して心を預けてくれるのなら、私はあなたを聖女の輩下である聖獣にしたいと考えています。そうすれば、少なくともあなたは私を裏切れなくなり、あなたを閉じ込める必要はなくなります」
「自由になれるってこと?」
「先に言っておきますが、完全な自由ではありません。あくまであなたは私の輩下。ひとまず、私がいま住んでいる聖女の領域に来てもらいます」
「……」
「そして時折、私の代わりに地上へ降りる役目を与えようと思っています」
「!」
サルサの瞳が急に大きく見開いた。
恐らく察した。『ミーアに会うことも不可能ではない』と。
「勿論、魔界や魔王、魔物の聖女である私の情報を漏らすのは禁止です。あなたの役目は、情報を与えることではなく入手すること」
「……」
「どうでしょう?」
「――いいわ」
思いのほか早く、サルサが了承した。
「ここも悪くはないけど、何もすることが無いしね。飼い殺しにされるくらいなら、そっちの方がマシだわ」
「そう言って頂けると嬉しいです」
あとは……私にそれだけの力があるかどうか、ということ。
王獣と魔獣をすべて訪ねて回り、聖女として認められた。
魔界を渡り歩き、自分の目で見て、考えて。
――そうして、私は真に『魔物の聖女』としての一歩を踏み出す。
死神メイスを床に置き、両手を頭にやる。二連の銀の環となっていたうちの一本をそっと取ると、ベールを押さえる役割を果たしていた片方が無くなり、ふわりと外側に広がった。
魔獣訪問をする際、ずっと額にはめていた銀の環。アッシメニア様の元へ訪れたときも、この銀の環だけは身につけていた。
十三体の神獣・王獣・魔獣に聖女と認められた証。
すべては、このときのためだったのかもしれない。これを触媒として、カイ=ト=サルサを縛る。
そのしっとりとした感触を味わいながら、体の中を巡る魔精力すべてを胸の一番奥へと集める。凝縮させて、磨いて、ひときわ美しく輝く一つの珠に。
「【聖女マリアンセイユが命じる。彷徨の聖獣≪ミーア=カイ=ト=サルサ≫よ、われと共に】」
私の口から発せられた文言が力となって銀の環を包み、ふわりと私の手から浮き上がった。中央に光の珠を掲げ、サルサの方へと飛んでいく。
「――……ああっ!」
するり、とその環がサルサの額を締め付けた瞬間、サルサがひときわ大きな声を上げた。一瞬だけ大きく目を見開き、わなわなと震える。
しばらくして震えが治まると、サルサはゆっくりと瞳を閉じた。フッと体全体から力が抜けたように首がガクン、と落ちる。
「……サルサ?」
そっと声をかけると、サルサがハッとしたように顔を上げ、両手を上に挙げた。蒼い髪につけられた銀の環に触れ、
「はああああ……」
と大きく息をつく。
「……気分は、どう?」
ありったけの魔精力を練り上げて放出したから、少し目の前が霞む。
それでも、サルサをちゃんと縛ることができたのかどうか見届けなければ。
ゆらりと崩れ落ちそうな身体をどうにか支え、やっとの思いで声をかける。
「……悪いわ」
「え?」
失敗したのかしら、と眩暈を感じていると、サルサが少しだけ右の口角を上げた。
「あたしの半身……蝶の部分が、銀の環に込められたマリアンセイユの力に吸い寄せられている。抗おうにも、無理ね」
「……それじゃ……」
すっとハンモックから立ち上がったサルサが、私の方へと右手を差し出す。
小首を傾げ、薄く微笑んだ。
「よろしく、マリアンセイユ。あたしの聖女」
「……」
よかった、上手くいった。ちゃんとサルサを聖獣にできた。
これで、私は地上と繋がることができる。そして、サルサとミーアも……。
ほうっと安堵の吐息が漏れた瞬間、全身から力が抜けて――サルサの手を取る前に、私の視界は真っ白に染まった。
◆ ◆ ◆
マユの身体がぐらりと傾いだ瞬間、サルサの目の前を黒い影が横切る。
肝が冷えるような気配を感じ、サルサは咄嗟に後方へと飛びすさり、ハンモックを支えていた樹の後ろに逃げ込んだ。
そして恐る恐る覗き込むと……魔王セルフィスがマユを両腕に抱え、溜息をついていた。
「まったく……無茶をする」
「……ま、魔王……」
サルサの呟きに、セルフィスが横目で視線を投げかけた。その金の瞳がすっと細くなり、サルサの銀の瞳に怯えたような色が宿る。
「“ミーア=カイ=ト=サルサ”」
「!」
新しく付けられたばかりの『真の名』を呼ばれ、サルサの肩がビクリと震えた。ぞわり、と体中の毛が逆立つ感覚。
契約を交わさずとも、真の名を呼ばれることは主従関係を想起させる。
しかも相手は魔界の長、この世界の頂点である魔王なのだから。
「……確かに、名がその身に刻まれたようですね」
「……」
「どうか、わたしを……そして聖女マリアンセイユを裏切ることのないように」
――でなければ、やはりわたしはあなたを始末しなければならないので。
急所をナイフで抉るような鋭い口撃に、サルサは言葉を失い、すくみ上った。踵から膝の裏を通って背中まで、冷たい痺れが駆け抜ける。
それと同時に、自分の立場がいかに危ういものだったかを思い知った。
魔王は自分の存在を好ましくは思っていない。これまでも、自分を試すような言動はいくつかあった。そのどこかで少しでも歯向かう素振りを見せれば、容赦なく殺されていたに違いない。
だが恐らく、聖女マリアンセイユのために生かされていたのだ。彼女がいつか、魔物サルサを必要とするかもしれない、と考えたから。
「聖女は、どうしてあたしを……」
「ミーアのためです」
「え?」
予想外のことを言われ、ますますサルサの頭の中が混乱する。
ミーア? ミーアとマリアンセイユは、敵だったのでは?
いや……違う。マリアンセイユは、ミーアの未来を救った。彼女のために、あのリンドブロム闘技場で全身全霊をこめた演説をした。
そして、ミーアも。
どうしてそんなことになったのかは分からないが、あのとき確かに、ミーアはマリアンセイユと心を通じ合わせていた。
魔界へ独り向かう彼女を、本気で心配していた。
「同士、だそうですよ。『人が想像以上の力を発揮するときは、たいていは自分のためじゃない』。聖女の言葉、まさにその通りですね」
あのときの光景を思い返しながらも未だ腑に落ちないサルサに、魔王が言葉を付け加える。
まさか本当にカイ=ト=サルサを縛るとは思いませんでした、と言い、魔王セルフィスは苦い笑みを浮かべた。
――本意ではない。だが、他ならぬ聖女が望んだことだから。
そういう、諦めのようなそれでいて憂慮のようなものが見え隠れする。
「彼女に免じて、あなたを見逃すことにします。そのことは、肝に銘じておいてください」
再び凍てつくような眼差しをサルサに向け、冷たく言い放つ。
そして魔王セルフィスは、マントを翻して忽然と姿を消した。
その場に残されたサルサは、魔王の言葉と聖女の言葉、そしてミーアのことを思い返し――しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
次回、後日談の最終話です。




