聖女の魔獣訪問1・フィッサマイヤ(3)
聖女シュルヴィアフェスの凄惨な過去を聞き、思わず息を呑む。
何を言っても上っ面になってしまいそうで、残り少なくなった紅茶をゴクリと飲み干した。すっかり冷え、やや渋みを感じる液体が喉を伝っていく。
『ルヴィは森の奥深くに残されていた氷塊の仲間を炎で弔い――そのままディエールの森の奥へ奥へと歩き続けました』
マイヤ様が、木のカップを手でそっと撫でながら話を続ける。
『ルヴィは逃げたかったんですわ。“聖女”から』
「……」
絵本では、人間も魔物も選べずにフィッサマイヤの森に逃げ込んだ、と書いてあった気がする。
人間と魔物、どちらの味方にもなれない、と感じたということ?
『少し、違いますわね』
私の問いに、マイヤ様はゆっくりと首を横に振った。
『女神が癒しの力を持つ聖女を選んだことは、全世界に伝わりました。聖女を求める人間の思惑。その人間の思惑に憤る魔物の思念。それらがすべて流れ込んできて、もうウンザリだと。ただただ全てから逃れたいと歩き続けたのですわ』
そうして辿り着いたのは、フィッサマイヤの森。魔法が一切効かない、地上から閉ざされた領域。
ここならば何も聞こえない、届かない。
もう何も知りたくない、考えたくないのだと叫び、ルヴィは森の結界の前で倒れ込んだ。
見かねたフィッサマイヤ様は、そうしてルヴィ――聖女シュルヴィアフェスを匿ったのだけど。
『聖女の存在は、魔界をも揺るがしていたんですの』
「それは……人間の最後の希望となるべく生まれた『聖女』を警戒していた、ということでしょうか?」
『いいえ。我々魔獣が想像だにしなかったことを、魔王が言い出したからです』
「……???」
配下の魔獣すら驚いた、魔王の言葉?
首を捻る私を見て、マイヤ様が『ふふふ』と柔らかく笑う。
そしてお茶のお代わりを自分の分と私の分、両方のカップに注ぎながら、今度は魔界の話をし始めた。
◆ ◆ ◆
“――どうする、魔王よ?”
魔王城、謁見の間。黒く長い前髪で金の瞳を隠すように俯く、初代魔王。
玉座の隣に控えていた月光龍がそう話しかけたものの、魔王はひじ掛けに肘をつき、右手を顎にやって黙り込んだまま、ピクリとも動かなかった。
玉座の正面から向かって右側には、水の王獣アッシメニア、土の王獣マデラギガンダを筆頭とする水と土の魔獣達。
左側には、火の王獣フィッサマイヤ、風の王獣ブレフェデラを筆頭とする火と風の魔獣達。
地上に『聖女』が現れたことを受け、すべての魔獣が一堂に介していた。
ルヴィがフィッサマイヤの森に辿り着き、フィッサマイヤがとりあえず結界内に匿った直後の出来事である。
魔界への招集をかけられたフィッサマイヤは、魔王の意図を確認した上でルヴィをどうするか判断しよう、と考えていた。
初代魔王は、殆ど喋らない。
魔物の嘆きを受け
「殺れ」
と一言命じられれば、魔獣達は各地に現れ、人間を蹂躙する。
時には
「退屈だ」
という理由で、魔王自らが地上に降り立つ。
浅黒い肌に長い黒髪、金の瞳。人間の男性とほぼ変わらない自分の姿を隠し、時には魔物に、時には屈強な魔人に扮して。
魔物や魔獣達が地上をどれだけ荒らそうとも、全く気にも留めなかった。
“ロワーネの谷を我が物にせんと驕り高ぶった人間たちを、懲らしめてやりなさい”
この女神の命令のもと、際限なく殺戮を繰り返し――結果、逆に魔物たちが地上を荒らす事態となっていた。
このままではこの世界は終わりを迎える――そう女神が危惧したことによって生まれた『聖女』。
今度は人間たちの手で地上の平和を取り戻せ、と。
女神は単に、魔物と人間の争いを愉しんでいるだけなのかもしれない。
魔王は――はたしてどうするつもりなのか。
十三体の神獣、王獣、魔獣が見守る中、魔王がおもむろに口を開いた。
「わたしと対になる存在――わたしの伴侶、ということか」
“――――は?”
月光龍が思わず声を上げる。
その場に揃っていた魔獣達も、声には出さないものの呆気に取られていた。
魔王が何を言いたいのか全く理解できなかった。唖然として、ただただ魔王を見つめる。
しかし魔王は彼らの反応など意にも介さなかった。「フフフフ」と口の右端を上げて笑う。
そもそも魔王が大勢の前でこんなに長い台詞を喋るのも、この時が初めてだった。
「わたしの番だ。フフッ、フフフ……」
“……”
「地上の生物はすべて番となり、子孫を残すであろう」
『え、は……』
魔王の視線が、地上の事情に詳しいマデラギガンダについっと向けられる。
どうにか魔王の意図を掴もうとしたマデラギガンダだったがどうにもできず、やや困ったような相槌を打つしかなかった。
「お前たちも。わたしの力を分け与え、魔獣になる前――いや、そもそも魔物になる前は、そういうことがあったはずだ」
『無い、とは申しませんが……』
続いて言葉を投げかけられたアッシメニアが、かろうじて応える。
その言葉に気を良くしたのか、魔王はうんうんと頷いた。何かを妄想しているのか、うっすらと笑顔を浮かべている。
ずっと無気力で無表情だった魔王。その場にいた魔獣達は、今まで感じたことのない恐怖を味わっていた。
『しかし魔王、子孫を残すことは……』
「それはわかっている。魔王だからな、わたしは」
うむ、と一つ頷く。
とりあえず魔王たる最低限の知識はある、とホッと胸を撫で下ろした王獣たちだったが。
「聖女を探してこい。ここに連れてくるのだ」
続いて発せられた魔王のこの言葉に、その場にいた全員が声にならない悲鳴を上げた。互いに視線を交わし、一斉にざわつき始める。
(人間を魔界に……魔王の元に連れてくる!?)
(生かしたままか!?)
(そりゃそうだろ! 番とか言ってるんだぞ!)
(恐らく傷一つ付けただけでオシマイだ!)
(そんなことは不可能だろう!)
『――どうかお待ちを、魔王!』
フィッサマイヤが慌てて一歩前に出る。
『人間を無理に魔界に連れてくることはできません。肉体も精神も歪み、やがて魔物となってしまいます』
「……む?」
『心と体を蝕み、人間ではいられなくなってしまうのです』
仮に魔王が聖女を守ろうとしたとしても、聖女が魔王自身を受け入れられなければ魔王の魔精力が聖女を蝕む。
それは女神の意図とは違うのではないか……それこそ、この世界の終焉を迎えてしまうのではないか。
『魔物たちも、元を辿れば地上の生物。しかし形も大きさも魔精力も違いましょう? 考えることも違います。それと同じ事です。人間も、人の思考ではなくなり、人の形ではなくなってしまうのです』
日頃から魔王の守り役のような役割を果たしていたフィッサマイヤが、言葉を尽くし魔王を宥める。
『それはすなわち――聖女ではなくなる、ということでございます』
『……でしょうな。ただ連れてきても……』
フィッサマイヤの言葉に、アッシメニアが同調した。
恐らく女神はそろそろ魔物と人間の争いに決着をつけさせたいのだろう、とアッシメニアは推測していた。
終焉を迎えたくなければ、魔王と聖女の間で何らかの和解にこぎつけなければならない。
それがまさか……伴侶にしたいと言い出すとは。ある種の和解であることは確かだが、無理矢理では成立しない。
ましてや、人間から最後の希望の『聖女』を奪ったとなれば、どちらかが絶滅するまで――いや、人間が滅亡するまで戦いは終わらないだろう。それは、魔物側の本意ではない。
どうしたものか、とアッシメニアは頭を悩ませた。
「……どうしろと言うのだ」
魔王がボスンと玉座の背にもたれかかり、ブスッと不貞腐れたような顔をする。
今までは、空虚な瞳のまま何も考えずに短い言葉を発し、ただただ殺戮を繰り返していた魔王。
『聖女』が現れたことで、ようやく自我が芽生えたようだった。
『それは……やはり、聖女に“その気”になってもらわねばならないのではないでしょうか』
「その気?」
『魔王の伴侶になる気、といいますか……』
なぜワシはこんなことを説明しているんだろう、とマデラギガンダはやや混乱していた。
しかし当の魔王はというと、そんな苦悩も知らずキョトンとした顔をしている。
「無いのか? 聖女は?」
『恐らく、は……』
むしろ魔王と敵対する気ではないだろうか、と言いたいのを、マデラギガンダはグッと堪えた。
思わず口がおぼつかなくなり、必然的にその言葉尻はかき消えそうなほど小さいものとなる。
幸い、魔王は機嫌を損ねた訳ではないようだった。
しかし相変わらず、魔獣達の様子には一切お構いなしである。ポン、と膝を打ち、
「よし、まずは探しに行こう」
とすっくと立ち上がった。
『す、少しお待ちを、魔王!』
聖女の所在を唯一知っているフィッサマイヤが、慌てて止めに入った。
何としても魔王を押しとどめなければならない。
『魔王が目の前に現れれば、当然殺されるものと思うでしょう』
「伴侶を殺すわけがない」
『いえ、ですから……』
これまでの行いではどうしてもそう捉えられてしまうでしょう!
と言ったところで、魔王には解るまい……。
ぐぐぐ、と言葉を呑み込み、フィッサマイヤは冷や汗をだらだらと流した。
とにかくこの場では結論を出さずにどうにか収め、後で四大王獣で相談しよう。
自分の領域でこっそり会わせることなら、多分どうにか……。
“魔王よ。ひとまず――すべての魔獣に地上を見張ってもらってはどうか”
フィッサマイヤの様子に何かを感じた月光龍が、真横から声をかける。
魔王は「ん?」と呟いて首を捻った。意味がわからないようだ。
“聖女が生まれたことで人間はどうするのか。様子を見なければなるまい”
「様子? 面倒だ」
“魔王自ら地上に現れたら、魔物は活気づき、人間どもは混乱する。聖女に何をするかわからんぞ”
「むぅ……」
魔王も、その様子は覚えている。
力が漲り、ひときわ激しく暴れる魔物たち。
そんな魔物から我先にと逃げ出し、他人を踏みつけてでも自分だけは助かろうと足掻く人間ども。
ひどい場合は、動けなくなったものを囮や餌にして。
“聖女を傷つけるようなことがあってはならない。かと言って、人間をのさばらせるわけにもいかない”
「……」
“人間にバレぬよう、魔獣に探させてはどうだ”
「……む、わかった」
子供のようにコクンと頷き、魔王が正面を向く。
「聖女を探し、護れ。見つけ次第、わたしに報せろ」
『『――ははっ』』
その場にいた十二の魔獣が一斉に頭を垂れる。
しかしその心中はというと――魔王の突然の変貌に、混乱を極めていた。




