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第47話

 マーシャとポーラは昔からの友人のようにすぐに打ち解け、出会って数十分で連絡先の交換をしていた。一方でマーシャはレスターに視線を合わせようともせず、いつのまにか恋人付き合いを始めていたというケヴィンとポーラの意外なカップルが見せる甘く親密な雰囲気の隣で、そのよそよそしさは余計に際立った。レスターと共同調査をしていた頃にはどんなに喧嘩をしても当日中に関係を修復していたことから考えれば、マーシャがそんなにも激怒している、とレスターにも簡単に想像はついたが、そこまで彼女が怒る理由がみあたらない。レスターは自分の人付き合いをマーシャに指図されたのが面白くなかったし、彼女が機嫌を損ねた訳を自分からあれこれと尋ねる気もなかった。レスター側から折れることはなかったため、約一年ぶりの彼とマーシャとの再会は、お互いにろくに口もきかないで別れるという散々で意外な結末に終わった。

 そのうちいつものようにけろっとした様子でマーシャから連絡をしてくるだろうとレスターはたかをくくっていたが、それが二日、三日と過ぎていき、結局、彼女はいつまでもレスターに何の連絡もよこさなかった。そんな状況で数ヶ月があっという間に経過して、レスターは自分から彼女に連絡するタイミングをすっかり失っていた。

 そんなとき、人事部長からマーシャの入社決定のニュースを聞かされたレスターは、彼女が同じ場所で勤務することになると知って、心から安堵するとともに妙な焦燥感を覚えた。そして、そんな自分の反応に彼は少し苛立ちを覚える。人事部長はレスターの協力が彼女の入社に貢献したと一方的に誤解し、「いずれはあなたの部下になるかもしれないけれど、最初は別チームに彼女を所属させる」と、微妙に興奮した調子で続けた。

 チームのいる仕事場にレスターが戻ると他のメンバーは全員出払っていて、ポーラ一人が打ち合わせテーブルの前に座っていた。通路とエリアを仕切るパーテーションの向こうで彼女が作業をしていた手を休め、レスターを呼ぶ。レスターが彼女の隣に立つと、彼女は含み笑いをして小声で言った。

「レスター、あの子、うちに入社するんですってね」

 上司であるレスターがたった今聞いたばかりの報告なのに、ポーラは愉快そうに笑ってウインクする。

「・・・・・・どこで仕入れたネタだ?」

「ケヴィンが本人から直接に聞いたのよ。ね、あの子がきたら、ちょっと面白そうじゃない?」

 なおも笑うポーラにレスターは少し気分を害した。

「ここに配属されるとは限らないだろ」

「そうだけど。でも、いずれは来るんでしょ?」と、確信めいた口調で彼女は言う。

「さあね」

 レスターがうんざりして答えると、彼女は笑った。「やっぱり、面白くなりそ」


 マーシャの入社は、「新メンバー紹介」という件名で入った課内通知で、同期入社の数名の名前とともに知った。レスターは同じ技術課所属の者として歓迎の意を述べる意味で、マーシャを含め新入社員たちに簡素な挨拶文を送った。彼の名は全員が知っていたらしく、彼の挨拶にはマーシャを除く全員から丁寧な返信文が届いた。マーシャからはまた、連絡は来なかった。


 ◇ ◇


 盛夏からの短い恋がひとつ終わり、レスターはその日曜日の朝、めずらしく八時前に起床し自宅で一人ゆっくりと過ごしていた。空はどんよりと暗い灰色の雲におおわれ、今にも大粒の雨が落ちてきそうな雰囲気だ。家事ロボットがどこかで調達してきた、貴重な天然コーヒーの芳醇な香りがリビングにまで流れこんできている。その贅沢で中毒になりそうな味わいをレスターは時間をかけて堪能し、自動収集された業界ニュースに目を通して興味を引きそうな情報を探す。件数はそれなりにあったがどれも続報ばかりで、目新しいニュースは特に報告されていない。

 レスターはソファから身を起こし、動きやすい服装に着替えた。ここ数ヶ月の週末には利用しなかった、棟内にあるジムに出かけることにする。最近はもっぱら、平日の早朝か夜にしかジムには行っていない。まだ会ったことのない新しい入居者との出会いを期待し、レスターはロッカールームからジムに通じる廊下を抜けた。途中にあるプールでは数人が泳ぐ姿がある。ジムの入口ドアの横にある窓から中を見ると、そこには数ヶ月前に入居してきた同じ会社の広報課に所属するハイディが一人で黙々とマシンの上を走り、薄着になってますます貧弱に見える身体をさらしていた。

 レスターは、マーシャとは違う意味でハイディが苦手だ。彼女は一途で真面目なだけでなく、男慣れしていないため、会話する際に気を使う。どうやら彼女はレスターに気があるらしいが、彼女の方からは決して話しかけてこない。しかし、彼女は会社の役員の娘でむげにもできず、それに、彼女に誤解を与えないためにも必要以上に親密な接し方もできない。

 ジム内をぐるりと見渡してみたが、ハイディ以外に人の姿は見えない。何となく足が進まないな、とレスターが思ったのも一瞬で、彼女はすぐに彼の存在に気づいて足元から視線をあげた。そして、彼に驚いた彼女が動かしていた足を止め、マシンの上でバランスを崩しかけ、あたふたと慌てる。彼女らしいその反応もまた、彼女と接するのが面倒だ、とレスターに思わせるのだ。

 今さら引き返すのもヘンだ、と思い、レスターは仕方なくジムに入った。にこりと彼女に短く笑いかけ、軽く挨拶だけする。レスターに挨拶し返す彼女の顔が赤面した。

 レスターは室内の奥にあるベンチプレスのマシン前まで歩き、床に敷かれた黄色いマットに足を伸ばして座り、ストレッチを始める。背後ではハイディがランニングを再開し、彼女の走る足音と規則的な息づかいが聞こえてきた。レスターはハイディに背を向けてはいたが、彼女が自分の一挙手一投足に注目していることにはとっくに気づいていた。

 マシンに備え付けられた時計で秒数を見ながら、レスターは、今夜は久しぶりに夕食を作ろうと考えていた。彼は料理が嫌いじゃない。腕も悪いほうではない。たまに作る料理はいいストレス発散になる。

 膝の屈伸を済ませ、ベンチプレスの黒い機械にレスターが体を乗せようとしたところ、不意に後方にあるスカッシュコートの入口ドアが小さなうなり声のような音をあげた。

「ん?」

 レスターの振り返ったドアは揺れたり動いたりはしていない。一度視線を他に移したものの、レスターがまたドアを見ていると、それはまた“ブーン”と虫の羽音のような音を発した。

 どこが鳴ったのだろう? 

 気になってレスターがドアに近づこうとすると、今度は背後のハイディが消え入りそうな声で彼の名を呼ぶのが聞こえた。レスターが不思議に思って振り返ると、彼女はマシンから床に降りていて、いつもよりもさらに怯えた顔をしてレスターを見つめていた。

「呼んだ?」

 彼女は、ええ、と唇だけで返事をし、指でジムの入口をこわごわと指し示す。だが、ジムの出入口の白いドアは何の変わりもなさそうだ。誰か怪しい人が来た、というようでもない。

「どうしたって?」

「ドアが・・・・・・」

 再び、“ブーン”という音が響いた。さっきより大きな音量だが短く、レスターはスカッシュコートの入口を思わず振り返った。が、それとは別方向から小さなカタカタという継続した音が聞こえる。それから、その振動にかぶさるようにして、羽音のような音が連続して響く。

 まさか、と思い、レスターはハイディの指し示したジムの入口にまた振り返り、唖然とした。人間の体温を感知して開くドアが右に数センチほど動き、ドア枠とドアの間に隙間ができている。そしてそれが、不規則に小さく揺れている。

「こっちに!」

 レスターがハイディを急いで手招きすると、彼女は床を転がるようにして慌てて走ってきた。スカッシュコート入口とジムの入口のちょうど中間で彼女を抱きとめると、レスターはあたりを見わたしながら、彼女を床に座らせる。とっさに彼の頭に思い浮かんだのはマイクロ・ブラックホールの出現だが、その予兆現象としての空圧や室内の気温、照明の明るさの変化を確認しても、彼が見る限りでは特に異常はみとめられない。ただ、ドアの振動は続いている。スカッシュコートのドアも同じだ。

「あ、あの、あれって、何・・・・・・?」

 心細そうにハイディがレスターを見上げた。

「わからない」

 レスターは自分の携帯で外部に連絡をとろうとして、それが使いものにならなくなっていることに気づいた。

「きみ、携帯持ってる?」と、彼女の手首を見たレスターはがっかりして首を振った。彼女はそれを身に着けていなかった。

「あ、わたし、いつもロッカーに置いて――」彼女の返答を最後まで聞かず、レスターはジム内を見まわして固定電話を探した。窓の並ぶ壁面に赤色のそれが取り付けられていた。窓は、二つのドアと違って振動してはいなかった。それを目で確認すると、レスターは迷わずそこまで走る。


 マンション管理会社への直通電話で自分たちの置かれた現状を説明し対処を求め、レスターがハイディのいる場へ戻ると、彼女は憔悴しょうすいしきった表情で床に足を投げ出していた。レスターが隣に腰をおろすと彼女は無理に笑顔を見せたが、それも長続きしなかった。

「何かの故障みたいで、すぐに修理してくれるそうだ。もうしばらく辛抱して」

 レスターは、下の血管が透けて見えるぐらいに青白いハイディの顔を見た。頬の上部に、多くはないがそばかすが散らばっている。

「すぐに・・・・・・直る故障?」

「たぶん」

 身の危険を感じる現象は今も現われないため、レスター自身もほっとして、やっと笑みが出る。管理会社が「ああ、その入口ですか」とのんきな態度で言ったことは、普段ならレスターの機嫌を悪くする対応だが、今はむしろ安心できる。ハイディが頬を少し赤くして言った。

「そうならいいけど・・・・・・。あなたがすごく必死な顔をしてたから、ものすごく大変な何かが起きてるのかと思って・・・・・・こわかった」

 そう言われて初めて、レスターは彼女の腕が細かく震えているのに気づいた。

「ああ――ごめん」とレスターが答えても彼女の表情は硬い。「以前、これと似たような状況でひどいめにあったことがあって――マイクロ・ブラックホールだったんだ、それを疑った。でも、今回のはそれとは違う」

 彼女はマイクロ・ブラックホールと聞いて顔をひきつらせたが、レスターがそれを否定すると、ようやく頬をゆるめた。

「ほんと?」

「ほんと。少しここで待てば、大丈夫だと思う」

 レスターが頷くと、彼女の頬に広がる、うすいそばかすが横にのび、笑顔に変わった。薄い青色の瞳に生気が戻る。今日の彼女は化粧っ気がなくて幼く見えたが、笑えばずいぶんとチャーミングだ。彼に見つめられているのを自覚し、ハイディが照れたようにまつ毛を伏せた。

「化粧、してないんだね」

「えっ? あ、ええ、ここに来るときはいつもしてなくて・・・・・・してくればよかった」

 レスターは微笑む。

「しなくてもいいよ、きみ、美人だから」

 ハイディが驚いたように口を開き、顔をますます赤らめた。

「そんなこと、誰も言わないけど・・・・・・」

「みんな、きみが美人なのは知ってるさ。きみの父親の目を気にして直接言わないだけで」

 彼女はレスターの返答を聞いて心底驚いた顔をし、言葉を失って彼を見つめる。


 レスターとハイディが管理会社の社員に誘導されてマンションの非常口から外に出てみると、同じように建物から退避させられた入居者たちが隣の棟の前に集まっていた。ほとんどが二十代か三十代の男女で総勢二十名くらいだ。ある者は不安そうに、他のある者は不満そうに自分たちの棟を見上げ、休日の朝寝坊を楽しんでいたらしき何人かは寝起きの格好だった。その異様な光景に興味を抱いた近隣の住民たち何人かが、人の輪に加わっている。管理会社の制服を着用した男が数人に詰め寄られ、焦った顔で彼らに必死の説明をしていた。 

 ハイディが人々の中に知人を見つけたらしく、レスターにひとこと断りを言って彼から離れていく。その女性もハイディのように堅実そうな雰囲気で、スーツのような服を着ていた。二人はレスターをちらちらと盗み見ながら会話をしている。閉じ込められた空間でレスターと話ができたことは、ハイディにとって思わぬ収穫だったはずだ、その話をしているのだろう。

 おそらく、レスターたちを含むほぼ全員が自分たちの住むマンションに何が起こったのかを把握できていない。エレベーターや共有の自動ドアが故障して使用不可になったぐらいで避難させられるなど、普通ではありえない。エレベーターの故障と聞くとレスターはどうしてもマイクロ・ブラックホールと関連づけたくなるが、科学救助隊が動員されていないことからそれが理由ではないはずだ。

 そこに集っているほとんどがレスターの知らない顔ぶれだった。レスターがハイディの周囲にいる人たちを何気なく見たとき、レスターははっとした。彼女の右後方にレスターの見知った男が立っており、その隣に濃い茶色の髪を持った、ほっそりとした若い女がいる。男が硬い表情をたたえる彼女に話しかけている。前より少し大人びた印象となったマーシャだった。男の態度と仕草から、彼がマーシャと今ここで顔を会わせたばかりの関係ではないことが読み取れた。

 マーシャがなぜここに?

 彼女が父親の持つ家から通勤していることはレスターも把握している。

 苛立ちと恐怖のようなものに背を押され、レスターはマーシャに一直線に向かっていった。ハイディが戸惑ったように自分を見つめるのが視界に入る。犬を抱いた男の脇をすり抜けたとき、マーシャがはたとレスターの方に視線を動かした。彼女が目を丸くしてレスターを見る。

「やあ」

 マーシャの前に立つと、レスターは男と彼女に声をかけた。男はレスターやマーシャと同じ会社の人間で、機器管理関連のフロアで何度か見かけたことのある顔だ。名前は知らない。マーシャが警戒した様子でレスターを見上げた。

「あ――フレッドマンさん?」

 男は驚きつつもにこやかに笑い、握手を求めて手を差し出したが、レスターはその手を無視してマーシャの腕をつかんだ。

「何よ?」

 レスターは彼女の瞳の奥をのぞきこんだ。

「話がある」

 男の手前、レスターはあくまでにこやかにマーシャに答えたが、彼女の手首にくいこませた手の力をゆるめなかった。マーシャは反抗的な態度を見せたが、隣の男をちらりと見た後、渋々と頷いた。

前回の更新から少し間があいてしまいましたが、

今後もゆったりめなペースで更新していくつもりです。

気長に楽しんでもらえれば嬉しいです☆

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