第26話
「友だちって・・・・・・どれ?」
レスターは七人の患者の上に視線をめぐらせ、祖母に囁いた。
「あれだよ、あそこのペイゼラって男・・・・・・!」
かすれた声で彼女が答えてレスターの腕に頼りなくしがみついてきて、彼は彼女の肩を両手で支えた。
レスターが祖母の細い肩を抱いて近くのベンチに座らせていると、「関係者以外立入厳禁」と書いてある銀色のドアが開き、そこから白衣を着た初老の医師が一人出てきた。同じ室内にいた中年の男女がその医師に走り寄って、レスターが理解できない現地語で医師に激しい口調でまくしたて始める。祖母は彼らの会話に注意を払っていたらしく、医師がしゃべっているのをしばらく無言で見つめていた後、唇を噛んで俯いてしまった。
普段、おしゃべりではないけれども明るい彼女が沈む表情を見せることはあまりない。
レスターは、重苦しくまとわりつく空気が「対面室」にひしひしと押し寄せてくるのを感じた。
「ソフィー」
レスターは友人に接するような態度で祖母の名を呼んだ。祖母が気落ちしている時は名前で呼べ、と、彼は父親、つまり、彼女の息子からそう教えられていた。
「ソフィー?」
部屋に繋がる通路の先から誰かの切羽詰った足音が近づいてきた。それほど広くない室内にその足音だけが大きく響く。祖母ソフィーと同じ、患者の危篤を知った近親者だろう。
レスターは後ろをちらっと振り返ったが、無反応な祖母の方が心配だった。
「――大丈夫、ソフィー?」
足音の主である女が、室内に飛び込んで入るなり、息を切らして室内をきょろきょろと目的物を探し、ガラスの壁を見て息をのんだ。
「おじいちゃん!?」
ベンチに座らせた祖母の前にしゃがみ、祖母を見上げていたレスターの視界に、見覚えのある女の顔がいきなり現れた。レスターは、彼女の顔にくぎづけとなった。
彼の視線に気づいたのか、青ざめた彼女の顔がレスターに留まり、面食らったように揺れた。「――助教授?」
レスターがさっきまで思い出していた、マーシャ・オブライエンだった。
「・・・・・・やあ」
彼は、テックの事務局長に彼女と接触するなと言われた件を思い出して警戒し、硬い笑顔を返した。
「もう、助教授ではないよ」
「あ・・・・・・あの、なぜここに?」
「ああ、それは――」
レスターは目の前の祖母を一瞥した後、マーシャの横につきそっている日に焼けた中年の男性の存在に気づいて思わず立ち上がった。レスターはその男を今までに見たことはなかったが、マーシャや彼女の兄と鼻や眉の部分がよく似た顔立ちをし、髪はマーシャと同じ濃い茶色をしていた。父親か親族だ。レスターの視線に出会うと彼が感じよく微笑んだ。
「――もしかして、フレッドマンさん? こんなところでお会いするとは・・・・・・」
彼は一歩前へ出て、レスターに握手を求めて手を差し出した。レスターもあわててその手を握り返す。
「マーシャの父親のジェフリーです。初めまして」
「こちらこそ。ご挨拶が遅れまして・・・・・・レスター・フレッドマンです」
レスターを見る彼の視線が少し鋭くなり、レスターの口から言葉が自然について出た。「先日の事故の件では――」
「いえ、フレッドマンさん」マーシャの父親が手を振って彼の先を遮った。「娘からはあなたも被害者だと聞いていますよ。お互いに、災難でした。その件は・・・・・・ここではやめましょうか」
彼の目線がレスターの後ろに並ぶ患者たちに行って不安そうに揺れ、レスターに戻って小さく微笑んだ。レスターが彼の斜め後ろにいるマーシャを見ると、彼女も父親と同じように弱々しく微笑んでいた。
祖母の友人ペイゼラ――彼は友人ではなくて恋人だと彼女から告げられたが――彼が亡くなったと確認されても、祖母は涙ひとつ流さなかった。治療方法のない急性感染症だという事前説明があって彼の死を覚悟していたのかもしれないし、病気の症状で顔が変形して黒く変わりはててしまう前にガラス壁が白いスクリーンで塞がれ、彼の最期を目で確認できなかったせいかもしれない。彼が危篤だと聞いて病院に駆けつけた時に彼女がレスターに見せた気弱さとは、大違いだ。
その彼女とは対照的に、患者には手のほどこしようがなく、最期の瞬間を看取れないと医師から聞いたマーシャは、医師に喧嘩腰で詰め寄った。泣きながら大声で医師に文句を言い続ける娘を彼女の父親は何とかなだめようとしていたが、感染症患者の遺体は特殊施設で焼却処理されると彼女が知るなり、彼女の怒りなのか悲しみなのかが爆発し、その叫ぶ声で対面室の天井が高く軽い音をたてて細かく振動した。彼女は興奮し過ぎていて誰も手をつけられなかった。レスターが同情して何度か彼女を見ると、その度に彼女は怒ったように彼をにらみ返した。
レスターと祖母はマーシャ親子よりもひと足先に「対面室」をあとにした。レスターが部屋を出る時、最後に目に映ったのは、ベンチに腰を落として泣きじゃくるマーシャと、彼女の体を覆うようにして抱きしめ、涙のにじんだ瞳を伏せて悲しみに耐えている彼女の父ジェフリーの姿だ。退室する際に彼らに挨拶をしていこうとちらりとは思ったが、レスターは、二人に声を掛けるタイミングを逃してしまった。
日付が変わったばかりで外は濃紺の月夜だったが、レスターたちが病院の玄関を出ると、駐車場全体にやわらかな光線が入ってきた。照明に照らされた病院の駐車場を囲むように薄い緑色のバラが咲き誇っている。垣根に顔を出す大柄のバラの花はどれもが似たような色をしていたが、車の通り抜ける出入口の付近にある一部だけがなぜか茶色く変色していた。せっかくの見事なバラの生垣がもったいない、と、レスターはそれを見て思った。
助手席に祖母を乗せ、無口で青ざめた彼女の顔をさりげなく見ながら、レスターは車のエンジンをかけた。
「家に行く前にどこかに寄ろうか、ソフィー?」
レスターが気遣うように声をかけると、彼女の乾いた手が彼の手の甲の上に置かれた。
「いいえ。・・・・・・自宅に」
彼女が何とか微笑んだのでレスターも黙って微笑み返した。
二人を乗せて発進した車が駐車場を横切って正門に向かう途中、レスターはマーシャと父親が寄り添って駐車場を歩いている姿をバックミラーの中に見つけた。




