第89話.本当の化け物か
寒い冬の中……安定した日々が続いていた。
仕事に少し余裕ができて、俺は1人で北の山を登ることにした。たまには自分を鍛えておきたい。ここ最近、軍隊の訓練や都市の経営ばかりで自分自身の鍛錬を疎かにしていたのだ。
「ふう」
真冬の山を登っていると、厳しい寒さが身に染みて来る。赤い化け物とか言われている俺だけど……過酷な自然の前では1人の人間に過ぎないのだ。
だが俺にはその事実が嬉しい。過酷な自然への挑戦をしていると、まるで戦場に立っているような高揚感に包まれる。
俺は戦場の高揚感がたまらないほど好きだ。強敵と命をかけて戦っている時こそ、生きている実感が湧いてくる。以前レイモンが言った通り……俺は戦うために生まれてきたのかも知れない。
やがて俺は山の頂上付近で足を止め、周りを見渡した。広大な南の都市も……ここからだと小さく見える。そして果てしない海と地平線が俺の闘志に火をつける。
頂上付近には針葉樹の森があった。俺は一番大きい木に近づいて目を瞑り、拳を握りしめた。
「ふう」
ただ体の潜在能力を引き出すだけでは足りない。精神の活動を極限まで高めて、己の体を隅々までコントロールする。すると全身の筋肉や骨格が一つの目的のために動いて……俺自身が『ただ一撃を出すための生き物』と化す。
「ぐおおおお!」
俺の拳が木とぶつかり、雄叫びと轟音が交差する。しばらく後……大きい針葉樹が倒れ始める。『全身全霊の一撃』が完成されたのだ。
「もうそれができるようになったのか」
いきなり声が聞こえてきたが、俺は驚くことなく声の主を見つめた。
「戻ってきたのか、爺」
手に杖を持っている、みすぼらしい老人が立っていた。顔はまるで鼠みたいで、威厳なんてまったく感じられない。だが……この鼠の爺は俺が今まで見てきた人間の中で間違いなく最強だ。
「お前ももう気付いているだろう?」
爺が一歩近づいて口を開く。
「『心魂功』は、ただ筋肉を効率的に動かすための技ではない」
心魂功……俺が『全身全霊の動き』と呼んでいる技だ。
「その実体は、肉体と精神を極限まで鍛錬し……人間を超越することだ」
「人間を……超越?」
「ああ」
爺が顔を歪ませて笑った。
「人間は誰しも、『集中』を通じて自分自身の限界を超えることができる。雑念、恐れ、不安などを捨てて一つのことに極限まで集中すれば……誰でも『限界を超える力』を発揮できるわけだ」
俺は爺の声に耳を傾けた。
「だが普通の人間は『限界を超える力』に耐えられない。極大化されたストレスに耐えられず肉体と精神が崩壊してしまう」
爺は岩に座って話を続けた。
「『心魂功』に真髄は、肉体と精神を極限まで鍛錬して『限界を超えた状態を常に維持する』ことだ。それができれば、やがて人間を超越するようになる」
「へっ、とんでもない話だな」
俺は笑ったが、爺は真面目だった。
「お前はもう何度もその瞬間を体験したはずだ。まず感情が無くなり、周りの全てがまるで止まったかのように見える。そして自分の体を完璧に思い通りに動かせるようになって……自然に『一番効率的な動作』ができる」
それは戦場で俺が経験したこととまったく同じだった。
「普通の人間が一瞬だけ発揮できる『限界を超える力』を、自由自在に使えるわけだ。もちろん立ち向かえる敵など存在しなく……もう誰がどう見ても化け物としか言い様がない」
俺が奮戦すると、敵兵士たちはまるで『異質的な何か』に追われるように逃げ出した。それは……俺が本当に化け物になっていたからなんだろうか。
「……安心しろ」
「ん?」
「お前は本当の化け物にはなれない」
爺が鋭い眼差しで俺を見上げる。
「心魂功を完成させるためには、1つ以外の感情を全て捨てなければならない。純粋でなければならない。しかしお前にはそれができないんだよ」
頭の中に少女の笑顔が思い浮かんだ。一生忘れられない笑顔だ。
「……爺は俺が弱くなったと思っているんだな」
「さあな」
爺は肩をすくめた。
「それは私にも分からない。ただ……今のお前には、私を超えることなど不可能だ」
俺と爺は互いを見つめた。しばらく沈黙が流れ……俺たちは同時に笑った。
「へっ、久しぶりに会ったのに水臭いことばかり言うんだな」
「まったくだ」
一緒に笑ってから、爺は俺に何かを渡した。それは……指輪だった。
「これは何だ?」
俺は眉をひそめて指輪を観察した。剣の形に細工された赤い宝石がついている。結構貴重なものに見えるけど……。
「持っていろ。お前の力になれる代物だ」
「力? これが?」
「ああ、いずれ分かる」
爺はそれ以上の説明はしなかった。
「しかしレッド……お前結構暇そうだな。こんなところで木なんか叩いていて」
「へっ」
「もう降りよう。紹介したい人もいる」
「分かった」
俺と爺は一緒に山を降りて南の都市に向かった。その途中、爺と初めて出会った日のことが思い浮かんで……俺は思わず苦笑した。




