6-17 忘れないで
テニスンが見本を持ってきた日から一週間が過ぎたその日。
本の内容を全て確認し終えた二人は、コッツウォールを発つことになった。
ロンドよりも一足先に、春を感じさせる陽気がはちみつ色の町を包み込む。
「それじゃぁ、達者でな」
コッツウォールの駅で二人を見送るテニスンは、快晴の空にぴったりな表情だ。
二人が、鉄道の窓から身を乗り出して大きく手を振ると、ガランガランと出発を告げる鐘の音が鳴り、鉄道はロンドへと向かって走り出した。
マークの初めての本は、大量に刷られた後、コッツウォールの町からテニスンを通じて新聞社に配送されることとなる。
そこから先は、社長が何やら考えてくれているのだという。
コッツウォールの町の本屋にも置きたいと、本屋の主人は言っていたが、コッツウォールは検閲が他の町に比べて厳しく、結局、彼の店にはおけないことになった。
なんとも申し訳ないが、背に腹は代えられない。テニスンがそれとなく言っておく、と苦笑した。代わりといってはなんだが、マークがサインを入れた本を一冊、本屋の隠し扉、その内側へと忍ばせておいてくれるらしい。
「なんだか、あっという間でしたね」
鉄道の窓を閉めて、ユノが小さく息をつく。嬉しさと寂しさの混じる声が、コッツウォールでの出来事を思い起こさせた。
「また、来れるといいですね」
マークのそんな相槌も、過ぎ去った時間への思いをはらむ。
もう遠く、小さくなってしまったはちみつ色の町。その片隅にある小さな出版社。出迎えてくれたテニスンのしゃがれたダミ声も、ずっと忘れないでおこう。
マークは見えなくなっていく町並みを胸に焼き付ける。
「長居、したかったですね」
ユノがポツリとこぼした声に、マークも小さく同意する。
テニスンや、本屋の主人が言う通りに町を発ったが、本当にそこまでする必要があるのかは分からなかった。
コッツウォールの町の人々は皆優しかったし、あの様子ならば、マークの本のことを告げたって受け入れてくれそうな雰囲気だった。
だが、それも表向きだというのだろうか。魔女ではなく、人への扱いだと。
「本が出て……私たちが望む世界が作れたら……」
いくらだって来ることは出来るだろう。ユノがそれ以上口にしなかったのは、果たしてそこまでうまくいくのか、言い切れる自信がなかったからだ。
「大丈夫ですよ。きっと、また来ることが出来ます」
代わりにマークがそう言ってくれたことが、ユノにはたまらなく嬉しかった。
マークは、町が見えなくなったことで、視線を手元の本に戻した。マークが作った本ではなく『カテドラル・ベリーの歴史』だ。
物語ではなく歴史書だが、マークには関係がないらしい。読めればなんでもいいのだと彼は言って、ページをめくる。
ユノは、そんなマークを見つめて、それから、自らの手元にも同じく鎮座している本に視線を落とした。
まさか、本を作るお手伝いが出来るなんて。
スカイブルーの表紙は柔らかに輝いているようで、宝石のように美しい。
ユノは、内容を知っているはずのその本のページをそっとめくり、書かれている文字を一字一句、読み落とすことのないように指でなぞった。
マークの思いを、一つたりともこぼしてしまわないように。
生まれつき、ユノはいろんなことに興味を持つ子供だった。自らが持つ力も関係していただろう。脳内に描いたありとあらゆる空間を投影することの出来る力は特別だった。
両親を喜ばせたくて、その知識をつけたと言っても過言ではなかった。
知識を与えてくれる本は、ユノにとって宝物のようなもの。本は、様々な物の名前や生き物の名前だけでなく、存在しない世界でさえ作り出してくれるのだから。
ユノは、買い与えられた多くの本から学び、両親を喜ばせるために美しい景色を生んだ。
それだけが、ユノの世界だった。
両親がいなくなってしまった日のことを思い出しそうになって、ユノは目を伏せる。追いかけていたはずの文字は、指と共に動きを止めていた。
まだ読んでいなかった最後の物語――マークの物語から読み始めたのがいけなかった。
ユノは、食い入るように本を読むマークにばれないようそっと瞳をぬぐう。
マークから、過去の話は聞いていたけれど。
文字で読むと、その過去はより鮮やかにユノの前に姿を現すようだった。
マークの、裏表のない性格がそのまま文字に現れているせいか、その素朴さが、彼の心の機敏を繊細にとらえていて、読んでいるこちらが無性に切なくなる。
妹との思い出が多いのは、マークにとって、それほどまでに大切な存在だったということだろう。たった五年の、それも幼少期の五年の記憶をここまで詳細に綴れるのだから、思い入れの強さがうかがえる。
ユノは、マークの妹にも会ってみたかったな、と思う。
魔女裁判にかけられた人々が、死刑になることは知っている。多くの魔女が、過去そうして司法裁判官に裁かれたことも。
だから、おそらく……マークの家族も、ユノの家族も、そうだろうということは分かっていた。ただ、信じられないだけで。
読み進めていくうちに、マークの文章からは、そんな祈りが透けて見えた。ユノの気持ちが、そんな風に文章を解釈させているのかもしれない。
痛々しいほど切実で、最後を締めくくる手紙のような文体が、ユノの思いとシンクロする。
パタパタと、真新しい紙の上に出来たシミが、ユノの気持ちを現実に引き戻した。
(いけない!)
せっかくの本なのに、汚してしまうなんて。
ユノは、慌ててポケットからハンカチを取り出して、紙を軽くたたく。ユノの出来る最大限の速さで処理をしたにも関わらず、忘れないで、というように、涙の痕はそこに残った。
「ユノさん?」
タイミングが良いのか、悪いのか。目の前に座る人物が突如何やら動きを見せれば、いくら本に集中していていも気になるものだろう。
ユノは、小さくため息をついて「ごめんなさい。本を汚してしまって」とマークにそのページを見せた。
そんなこと、と言いかけて、マークも差し出されたページが最後のものだとわかると口をつぐむ。
ユノが泣いてくれたことを嬉しいと思うべきか、それとも――
「どう、でしたか」
作者としては、感想が気になるところで。そのために物語を書いたわけではないとはいえ、マークの口からはそんな質問がこぼれ出てしまう。まして、魔女に聞くような質問ではなかっただろうに。
ユノは、その質問の答えを持ち合わせていないのか、二、三度首を横に振った。
「その……今は、まだ、うまく言葉に出来なくて」
涙が出ていたことにも、本が濡れている、ということに気づいてからだ。それほどまでに、ユノの気持ちはマークの綴った物語に吸い込まれていた。
「ただ、本を、汚してしまって本当にごめんなさい」
「そんなことは、いいんです。きっと、嫌というほど新聞社にも届きますし。僕だって、自分のために何冊も持っておきたい」
「……自分のために?」
「この本は、見つかったらきっとすぐに燃やされてしまうでしょうから」
マークは、言葉の意図をごまかすように本へと視線を戻した。
「僕も、感想を聞いてしまって、すみません」
少なくとも、最後の物語の感想を、当事者であるユノに求めるべきではなかった。
投げかけられたユノも、その言葉に答えることは出来なかった。
二人の会話はそこで途切れ、代わりに、次の駅へと到着した鉄道のベルがけたたましく鳴り響く。
ロンド行きの鉄道ということもあり、乗り込んでくる人は多い。コッツウォールに向かった時とは反対に、鉄道が進むにつれてだんだんと人が増えていく。
ユノは、周りの人の視線に気を使いながらも、再び本のページをめくる。最後の物語を読み終えても、まだ後ろにページが残っていた。あとがきがあるらしい。
ユノは、これ以上は汚さないように、と少し体から本を離して、ページの文字を目で追いかけた。
あとがきを読み終えて、最後にたどり着き――ユノの手が止まる。そして、再び涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。
震える指で、そっと文字をなぞる。
『ユノさんに、この本を贈ります。あなたは僕の宝石です』
裏表紙を彩る、すっかり見慣れてしまったマークの直筆。
夜のように深いブルーブラックのインクが、鉄道の窓から差し込んだ春の日差しにきらめいていた。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます!
マークとユノが本を完成させるまでの第六章、少しでも楽しんでいただけておりましたら幸いです*
次回から、第七章! 完成した本をロンドへと普及させるため、まだまだマーク達も頑張ります。
暖かく見守っていただけましたら幸いです*
本当にいつも、ありがとうございます。




