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万年筆と宝石  作者: 安井優
六つ目の扉 出版社

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94/139

6-16 名前のない、大切なもの

 宿屋の主人は快く二人にテラスを貸した。更には紅茶とスコーンまで、二人のもとへと運んできてくれたのだから、コッツウォールの住人は皆優しさにあふれていると言える。

 二人が主人に礼を言えば、宿屋の主人は二人の間に置かれていた絵本を興味深そうに眺めた。


「その絵本は?」

「先ほど、本屋の方にお譲りいただいたんです」

「なるほど。どうりで、ずいぶんと懐かしいものをお持ちだと思いました」

「ご存じなんですか」

「えぇ。我々の両親の世代から、言論統制がしかれるまでは人気の絵本でしたよ」


 知らなかった、と二人は顔を見合わせる。言論統制がしかれた後に生まれたマーク達の間では、この絵本の存在こそ、国の禁忌(きんき)に触れてしまうのだから。

 宿屋の主人もそのあたりはわきまえているのか「持ち帰られるのでしたら、気を付けた方がいい。大切になさってください」と付け加えて、宿の方へと戻っていく。


 宿屋の主人の背を見送って、マークは絵本へと視線を戻す。

「有名な絵本だったんですね」

 言論統制によって、いろんなものが失われているらしい。過去にあった様々なものが、なかったことになっている。この絵本だけではなく、きっと多くのものが。


 マークが感傷に浸った指で絵本の表紙を優しく撫でれば、ユノもまた、その指がなぞる文字を愛おしそうに見つめた。

 絵本に書かれた、魔法使いと竜のイラストが、遠い過去へと二人を連れ去ってくれる。

「懐かしいです」

 ユノの声に(うなが)されるように、マークはそっと、その一ページ目を開いた。



-・- ・・ -・ -・・ -・ ・ ・・・ ・・・



 絵本を読み終えた二人は、ぼんやりと夢うつつをさまよう。子供のころにワクワクした絵本は、大人になってから読んでも面白かった。

 魔法をうまく扱えない少年が、とある魔女と出会い、ドラゴンを倒すまでの物語。

 作家を目指しているマークの原点とも呼べるお話。


 ユノもまた、子供のころに感じたときめきを思い出し、自らも同じ魔法を使う者として、イングレスを何とか少しでも変えなければと使命をその身に灯す。

 この物語に登場する魔法使いたちのように強くはないが、何か出来ることがあるはずだ。


 テラスには夕暮れの柔らかな日差しが迫っていた。

 ジュリの魔法がかかったままとはいえ、元の髪色がそうさせているのか、マークの目に、決意を秘めたユノの、夕焼けとも夜空ともつかぬ朱や紺がきらめいて見えた。


 ユノのことを、どこか妹のように感じていた。彼女は、実の妹よりも年下で、本当の妹ではないとわかっているのに。

 彼女を見るたびにマークの胸を締め付けるこの感情は、妹を思う懐古でも、失ってしまった悲しみでもないことも、今はわかっている。


 命の恩人であり、作家としての恩人でもあり――世界を敵に回してでも共に生きてくれる彼女を、妹のような存在、という言葉で片付けられるはずがなかった。

 もちろん、恋人でも、家族でも、足りない。


 マークの視線に気づき、ユノがはにかむ。宿の外壁に反射するはちみつ色の石灰が、彼女の輪郭(りんかく)を柔らかに引き立てた。

「戻りましょうか」

 彼女もまた、マークと同じことを考え、彼と同じように言葉にすることは出来なかった。


 トーマスとメイの関係のように、アリーとシエテのように、ジュリと『彼』のように、言い表すことの出来ない関係。

 マークと、ユノも、そんな風になれているのだろうか。

 名前のない、大切なものに。


「夕食は、何でしょうね」

「ここのご飯は、どれもおいしいですよね」

 何気ないやり取りだけで、十分だと思える関係を、二人は()みしめた。



- ・・・・ ・ -・



 一週間が過ぎ、宿屋にテニスンが訪れた。彼はその老体にムチを打って走ってきてくれたようで、ゼェゼェと呼吸を荒げていた。

 テニスンの代わりにマーク達の部屋まで呼びに来てくれたのは宿屋の主人で、彼は

「食堂に、お茶をお持ちしますから」

 と二人を案内した。


 二人が食堂へと向かえば、テニスンは、子供のようにそわそわと、ひげを撫でたり、もごもごと口を動かしたりしながら、窓の外をたたく雨を見つめていた。

 コッツウォールは、ロンドに比べると雨が少ないのか、久しぶりの雨である。

 そんな雨の日にわざわざテニスンが来た理由は、聞かずとも推測できた。


 テニスンは、二人が席についたのを見て、さっそくとカバンの中から紙袋を取り出した。雨でも濡れないように、と気を使って運んできてくれたのだろう。紙袋にも一切の雨粒はなく、綺麗な折り目と新しい紙の匂いが二人の心を弾ませた。


 宿屋の主人がお茶を出すことを待ちもせず、「開けてくれ」とテニスンは紙袋を二人の方へ押しやった。

 よく見る本のサイズと分厚さ。

 伸ばした手が震えてしまうのは、その中身が分かっているからだろうか。


「……はよせんか」

 テニスンが急かしたくなる気持ちも分かる。マークは、それほどまでにためらいがちに手を伸ばしていたのだ。テニスンが言っていなければ、ユノが言っていた。

 皆が、待ち望んでいた本。一秒でも早く、その本を見たい。


 マークはごくりと生唾を飲み込んで、覚悟を決めたように、勢いよく紙袋から手を抜き出す。

 さわやかな、スカイブルーの表紙が目に飛び込んで、マークとユノはその瞬間、ピタリと息を止めた。


 真珠の光沢をもった箔押しで、宝石と万年筆のイラストが表紙の上の方に鎮座している。ささやかながら、目を引くその美しいシンボルは、銀で(つづ)られた『万年筆と宝石』という本のタイトルにもピッタリだ。

 ユノが考えた、繊細で、優しく、それでいてつい手を取ってしまうような美しい表紙。


 無地のスカイブルーも、明るく、品がある。

「ディーチェちゃんと同じ瞳の色にしてもらったんです。アパタイトって宝石の色で、調和を意味するんですよ」

 この本にぴったりでしょう、とユノはどこか誇らし気だ。


 とはいえ、表紙をデザインしたユノも、実物を見るのはこれが初めて。想像していた以上に美しいその表紙に、感動を覚える。

「なんだか、泣いちゃいそうです」

 この本に詰め込まれたたくさんの魔法のような物語を思えば、それも無理はない。


 僕もです、とマークが相槌(あいづち)を打とうとしたときにはすでに、彼の瞳から一粒の涙がポロリと(こぼ)れ落ちていた。

「マークさん、それは」

 ずるいです、とユノの声が消え、代わりにユノの瞳からもポロポロと真珠のように美しい雫が落ちる。


 テニスンはふっとまなじりを下げて、視線を外へと移した。先ほどまではあれほど鬱陶(うっとう)しいと感じていた雨粒も、目の前に座る二人の涙と同じように美しく見えるだなんて。

 都合がよすぎるな、とテニスンは思う。自らも、つられて泣いてしまわないように。


 本を濡らしてしまわないように、とマークは本をテーブルに戻して、ただただ静かに頭を下げた。

「ありがとうございます」

 テニスンと、ユノに、伝えきれないお礼を述べる。言葉と共に、再び涙が瞳からあふれて、それ以上は言葉にすらならなかった。


 ユノもまた、テニスンとマークにお礼を述べて、そっと涙をぬぐう。

「本当に、嬉しいです。マークさんのお話が、また読めるなんて」

「お嬢さんの本でもあるだろうに」

 テニスンが付け加えれば、ユノはまた、一度止めたはずの涙をこぼした。


 二人の涙がようやく止まったのは、そっと宿屋の主人がお茶を置いて去ったころ。

 テニスンはティーカップに口をつけ、二人の言葉を待った。マークとユノも、泣きつかれたとでもいうように、ティーカップをすすり、その優しい味にほっと息をつく。


「本当に、ありがとうございました」

 マークのお礼はもう聞き飽きたというように、テニスンは首を振る。

「中も見てくれ。確認して、問題なければそのまま刷ってもらおう」


 表紙を開けると、ブワ、と真新しい紙と、印刷したばかりのインクの匂いが鼻に抜ける。テニスンの出版社を訪れた時と同じ、マークの胸をいっぱいに満たす香り。


「テニスンさんは、もう、確認してくださらないんですか」

 マークが冗談めかして言えば、

「わしは、もう、感情抜きでその本を読むことは出来んからな」

 とテニスンが笑った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 94/94 ・紅茶にスコーンをそえるセンスですよ。なぜかスターバックス、を思い出しましたね。 [気になる点] Kindness Then さすがのセンス [一言] マ、マママ、マークき…
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