6-15 貴重な本
「あの」
そろそろお暇しようかとユノに声をかけようと、マークが振り返った時だった。まさしくその彼女から声が上がる。
「その本は、どちらで?」
ユノが指をさしたのは、床の上に平積みにされていた蔵書。深緑色の表紙は、よくあるものだ。特別なものではないのに、ユノはそれを知っていると言わんばかりに凝視している。
主人は「あぁ」とその本を取り上げて、ユノの方へ差し出した。『カテドラル・ベリーの歴史』と書かれたタイトルには、さすがのマークでさえも見覚えがない。だが、ユノは見間違いではなかった、と改めて驚愕した。
「知ってるんですか?」
有名な本なら、マークにも分かりそうなものだが。
ユノはマークを手招きし、耳元で声を潜める。
「魔女協会にあった本です。以前、読むものがなくなった時に送ってもらったことがあって……」
「貴重なものなんですか?」
「貴重というか……そもそも、この本は非売品だったはずです」
ユノの言葉に、マークが「え?」と思わず声を上げる。
言論統制に関わらず、貴重な本というものは存在する。そもそもの冊数が少なく、市場に出回っていないもの。個人的につけられた著名人の手記。役職付きのものが管理するような書籍など。
ユノが持つ本も、そのうちの一冊らしい。
「セントベリー大聖堂の前身である、ベリー聖堂……今の、魔女協会がある場所の歴史について綴られた本なんです。これは、当時の司教様が書かれたものを写したもので、大聖堂で管理されることになっているはずです」
ユノが、どうしてここに、と本屋の主人を見やるのも仕方のないことだった。
本屋の主人は、ユノとマークのヒソヒソ話にただ首をかしげる。
「何かあったかい?」
この本の貴重さを知っているか、はたまた全く知らないか。どちらともとれる反応だ。
「あの、失礼ですが……」
マークがためらいがちに切り出すと
「なぜその本が、ここに? と思っているのかね」
と主人に先を越された。
「知っているんですか?」
ユノの驚きが、小さな部屋いっぱいに響く。ユノは自らの声が想像していた以上のボリュームになってしまったことに、慌てて口を抑えた。
「知っているも何も、セントベリー大聖堂からお借りしているんだから当然さ」
主人は「少し気になったことがあってね」と笑う。
「それにしても、お嬢さんのような若い子が知っているとは、そちらの方が驚いたな」
主人から指摘され、ユノはハッと口をつぐむ。
この本は、セントベリー大聖堂でのみ管理されている。聖職者に言って借りることは可能だが、そもそもこの本の存在を……もしくは、セントベリー大聖堂の下に眠る、ベリー聖堂の存在を知らなければ、それすら叶わない。
今、このイングレスの国でそのようなことを知っている人間は、限られている。
「先日、お前さん達のようにロンドからこの町へ来た客人がいてね」
まさか社長とマークが繋がっているとは知らぬ主人。珍しいこともあるもんだね、と笑い、ユノの持っている本を指さした。
「ロンドと聞いて、昔、妻と一緒にセントベリー大聖堂へ行ったことを思い出したんだ」
そうして、主人は木々の枝葉が繋がっているように、次から次へと昔のことを思い出した。セントベリー大聖堂で見た、美しいステンドグラス。そこに描かれていた女神の姿。聖職者の話。言論統制が敷かれる直前の、その物語がなんだったかということを。
「どうしても、物語の内容が思い出せなかった。どうにも、大切なことのように思えて、いてもたってもいられなくなってね。先日、ロンドへ行ってきたのさ。そして、その本を借りることになった。セントベリー大聖堂の過去を、教えてくれと言ったら、それを渡された」
不思議な縁があるものだな、と主人は笑う。ユノが魔女だとはまさか微塵にも思っていないが、ロンドから来た客人の話を聞いて、自分がロンドへ行った直後に、こうして再びロンドからの客人と知り合うことになったのだ。
それも、貴重な『カテドラル・ベリーの歴史』を知る少女と。
「お嬢さんは、ずいぶんとその本に詳しいようだ。読んだことがあるのかね?」
「え、えぇ……その、本が好きでしたし……この国の、歴史に興味があって」
嘘の苦手なユノが、しどろもどろに言葉を紡ぐ。本が好きだということも、国の歴史に興味があるということも、嘘ではないけれど。
「それは素晴らしい。もしかして、本を書く作家さんに付き合ってここまで来ているのも、そのためかね?」
「お、お手伝いです。大したことは出来ていませんが」
「ははぁ。それは良い人を捕まえたもんだ。お前さん、この子を大事にするんだよ」
主人にバシバシと肩をたたかれ、マークも作り笑いを浮かべた。
「そうだ。もしよかったら一つ、頼まれてくれないかい?」
主人は、秘密を打ち明け、またユノと貴重な本のことを話せたことでずいぶんと気が緩んだようだ。先ほど見せた警戒心はどこへやら。すっかり上機嫌で二人に話しかける。
「知りたかったことはそこには載っていなかったから、ちょうど返しに行こうと思ってたところだったんだ。お客様にこんなことを頼むのは申し訳ないが、もしよかったら、代わりに返しておいてくれないか」
主人に頼まれ、ユノはもちろんと首を振る。
おそらく、主人が知りたかったこと、というのははじまりの魔女についてだろう。だが、それをマークとユノが簡単に話すことは出来なかった。少なくとも、この主人が魔女を敵と思っていないことは確かだが、話せば、どうしてその話を、と勘繰られることには違いない。
ユノを魔女だと明かすには脆すぎる客と主人の関係。それを壊す勇気は、まだ二人にはなかった。
だが、主人はユノが気に入った様子で、好々爺らしい笑みを浮かべたまま。
ならば、今はこのままの関係の方が良い。残り少ないコッツウォールでの滞在。無理にその居心地を悪くする必要はないのだから。
「すまないね。良ければ、ここにある本の中で好きな物を一冊持って行ってくれ。駄賃くらいにはなるだろう」
悪い提案ではないはずだ、と主人が言うよりも早く、ユノとマークは破願した。
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ユノは「マークさんが欲しい本を」と言ったが、毎度お馴染み、マークは「ユノさんが」と譲る。
結局、小一時間ほど悩んで二人が選んだ本は、本棚の隅で埃をかぶっていた可愛らしい絵本だった。
「本当にそれでいいのかね?」
主人が何度もそう尋ねるのも意に介さず、これがいいんです、と二人はその絵本と『カテドラル・ベリーの歴史』を袋に包んでもらう。
「本当にありがとうございます!」
「いやいや、こちらこそ。二人の本が完成するのを、楽しみに待っているよ!」
本屋の主人に見送られ、マーク達は再びはちみつ色の町を、宿屋に向かって歩き出す。ユノは紙袋に包まれた本を大事そうに両手で抱え、軽やかな足取りで前を行く。
二人で選んだ絵本は、マーク自身が好きで良く読んでいた絵本でもあったし、マークが妹に良く読み聞かせていた絵本でもあった。
今考えれば、言論統制が敷かれていた時代に、自らの家にこの絵本があったのだから、本屋の主人が言っていたように、仕立て屋にも隠し扉があったのだろう。
「良かったですね」
どちらともなくそんな風に言葉を交わす。
マークからすれば、再会できるとは思ってもみなかった絵本。ユノにも、何やら思い出があるらしい。
ユノはくるりとコートをひるがえして、満面の笑みを見せる。後ろ向きでも器用に歩く彼女は、この上なく幸せそうだ。
ユノの周りだけ、花が舞っているかのように見えるほど。
「マークさんも、この絵本を知ってたんですね」
「昔、好きでよく読んでいました」
「私も、このお話が大好きなんですよ」
ユノの言葉に、意味もなくマークの胸は高鳴った。鼓動につられて歩調も速くなる。
「カテドラル・ベリーの歴史も読んでみたいんですが」
ごまかすように付け足した言葉。
ユノの隣に追いついたマークに、ユノはくるりと再び体を回転させて、もちろんです、とうなずいた。




