6-12 眠れない夜を歩いて
二人は宿屋の主人に声をかけ、裏口の鍵と部屋の鍵を受け取ると、眠れない夜を歩いていく。
シンと静まり返ったコッツウォールの町。日中は、はちみつ色に包まれる穏やかな風景も、夜は一歩先もおぼろげなブルーブラックに沈む。
街灯と月明りが石灰で出来た外壁を照らせば、それはどうにも淡い金のようにきらめいて、この町ごと消えてしまいそうなほどに儚く見せた。
マークも、ユノも、あてもなくコッツウォールの町をさまよう。
ただ、テニスンから聞かされたこの町での出来事を持て余していた。
宿屋の主人が手渡してくれた、今の時代にはそぐわぬランタンが、マークの手で揺れる。頼りない明かりだがないよりはマシで、透明なガラスの檻の中で燃えるキャンドルの炎が、イングレスでもがく魔女たちの命のようだ。
「……ユノさん」
マークの声に、少し前を歩いていたユノがゆっくりと振り返る。美しい瞳を隠さねば生きてはいけぬ魔女は、ぎこちなく笑みを浮かべて見せた。
「どうして、うまくいかないんでしょうね」
夜風にさらわれて、消えてしまいそうな小さな声だ。
せっかく、出版社が決まり、印刷まで進んで……本の完成が目前に迫っていたというのに。その喜びに浸ることすらままならない。
それがまるで、この国に生まれた魔女の運命だとでもいうようで、ユノには悔しかった。
もちろん、あの場でテニスンが話してくれたことは、マークやユノを気にかけてのことだろう。本が完成してからでは、余計に水を差すような話だったからこそ、このタイミングだったのだろうということも分かる。
ユノは、まだ成人でもなく、大人でもないが、テニスンの優しさは分かっているつもりだ。
それでも、どうして今なのだろうか、どうしてこの町なのだろうか、と思わざるをえなかった。
テニスンが出版することを渋ったことも――魔女の存在を疑っていたことも、ブラックカースと呼ばれた流行り病に関係しているのだろう、と想像することだってこんなにも容易いのに。
「社長の、おばあさまのせいだと思いたくなくて……その存在を、信じていなかったのでしょうか」
ユノが想像していたことを口に出せば、マークは小さくうなずいた。
「そうかもしれません。僕らが、司法裁判官の死をアリーさん達のせいにしなかったように」
つい先日起きたばかりの事件を例に挙げれば、ユノは小さく息をつく。
「信じない、ということは……存在しない、ということにつながる、ということですか?」
「そういう人の数が増えれば増えるほど、その真実は消えてしまう。そうして、いろんなものが、存在しなくなっていくのかもしれません」
マークが、ユノと出会うまで、魔女という存在を意識しないようにしていたみたいに。
ランタンが揺らめき、ユノの姿が一瞬、闇夜に紛れ込む。マークの胸がやけにドキリと高鳴って、
「ユノさん」
と思わずその存在を確かめるように名前を呼んでしまう。
ユノは相変わらずマークの少し前にいて、不思議そうに首をかしげた。
「何かありましたか?」
「あ、いえ……」
マークを覗き込む瞳に、マークは一体今自分は何を、とその頭によぎった考えを無理やりに追い払う。
ユノがいなくなるなんてことは絶対にない。
(いや、そうはさせない。僕が、必ず)
マークは鬱屈とした空気を吐き出した。下ばかり向いて、ため息をついてはいけないと、頭上を見やって「あ」と声を漏らす。
家も、街灯も少ないコッツウォールでは、ロンドで見るよりも多くの星が見える。ユノの島で見た空も綺麗だったが、それがイングレスでも見れるとは思わなかった。
ごくごく小さな星の集まりも、煌々と輝く一等星も、細く弧を描く三日月も。そのどれもがあの秘密の楽園で見たものと同じ。
「綺麗、ですね」
マークの視線に気づいたのか、ユノもその足を止めて空を見上げる。
「ほんと……」
ユノも、マークと同じことを感じたのか少しだけ懐かしそうにその空を仰いだ。
「あの、丘の方まで行ってみましょうか。もう少し、空に近づけそうですし」
広々とした場所を探してしまうのは、窮屈さを感じているからだろうか。マークは提案した自らの案に、後から理由を探してしまう。
相槌をうったユノは、さも当たり前のように、緩やかな坂道を上る。
ユノの背中を見るたびに、ユノの考え方に触れるたびに、マークは思うことがある。
(難しく考えて、何かと理由をつけて、誰かのせいにして……この国をこんな風にしてしまったのは、僕らなんだろうな)
目の前の少女の純粋さは、マークがいつか、どこかで失くしてしまったもの。マーク達人間が、きっとこの百年で失ってしまったものだ。
丘へと続いていく坂道は、しばらくすると蛇行して小さな川と合流した。出版社の手前に流れていた小川と同じものかもしれない。
日中よりも、さらに静かに感じる水音は、穏やかに星空を映し出してどこまでも続く。
歴史や時間が人の営みに関わらず流れていくように、自然もまたそうしてめぐっているのだ、とマークは感じてポケットからメモと万年筆を取り出す。器用にランタンを抱えながら、詩にもならない言葉を少し書き出した。
ユノは、マークの足取りを背中で感じながら、ゆっくりと丘を目指す。
ずっとあの島にいたせいか、自然が恋しくなっていたところで、コッツウォールの町は居心地が良かった。
ロンドの都会らしい、華やかな雰囲気も憧れてはいたものの、この町の時間の流れ方が身の丈に合っている。
社長の祖母エマが、この町に住んだ理由もなんとなくわかるような気がした。コッツウォールの町の歴史を知らなければ、ユノだって、この町に住んでいたかもしれない。
知った今では、町の人々の優しさを失いたくなくて、魔女だとばれないように息を潜めるしかないが。
(もう少し、ゆっくりしていたかったな)
ユノはコッツウォールの町並みを目に焼き付けながら、感慨にふける。マークが、何かを感じた時にメモをする意味が、今少し分かるような気がした。
忘れてしまうもの。失われてしまうもの。一瞬の自らの気持ちでさえあやふやで、明日には消えてしまうようなもの。
それらをとどめておくことが、どれほど大切か。
コッツウォールに来られて良かったと思うこんな当たり前の感情でさえ、薄れてしまわないようにしたい。
ユノを追いかけるように走ってきたマークに、ユノは「あの」と声をかける。
「万年筆と、メモを貸してはいただけませんか」
ユノが頼めば、マークは「もちろん」と嬉しそうにそれを差し出した。
「この町を去る時に、後悔したくないんです。もうきっと、二度とここには来られないでしょうから」
ユノがそんな気持ちをメモ帳に綴れば、マークは少しだけ悲し気に微笑んだ。
マークは人間で、この町へはこれから先、来ようと思えばいくらでも来ることが出来るだろう。だが、ユノには難しい。
ユノが万年筆とメモを返すと、マークはそのメモをページから切り離してユノの方へ差し出した。
「これは、ユノさんが持っていてください。ユノさんの思いは、ユノさんが大切に保管しておかなくちゃ」
マークのこういう律儀なところが、ユノに対して丁寧に敬意を払ってくれていると感じられる青年の行為が、ユノをどれほど喜ばせているか、彼は知らない。
「マークさん」
頼りなさげな青年の、おぼろげな影に声をかける。
「ありがとうございます」
いつだって伝えられるはずの感謝の言葉を改めて伝えれば、マークは泣きそうな顔で笑った。
こちらこそ、と言われた声がかすれていたのは、どうしてか。
その理由を詮索するほど、ユノは子供ではない。コッツウォールの真実を知ったからこそ、この町を歩く魔女の姿にマークが何も思わないはずがない、と知っている。
それだけで、十分嬉しかった。たとえ、この町の人々が、真実を忘れ去っても。
「もうすぐですね」
分かれ道に建てられた木製の古びた看板。その文字を読んでマークの歩調は少しだけ速まる。
空に近づいていくように、最後の坂道の傾斜はきつくなっていた。




