6-11 コッツウォールの真実
チリン、と静かに鳴らされたグラスの音は、控えめながらも美しかった。
祝福の鈴と呼ばれているらしいコッツウォールの職人が作ったワイングラスは、確かにその名に相応しい音を立てた。
印刷所から戻ってきたテニスンとユノ、そして最後の物語を書き終えたマークは、テニスンに誘われて、彼の家で祝杯をあげた。
祝杯というにはいささか厳かとも、シンプルともいえる質素な食卓。
だが、テニスンの表情は和らいでいたし、ユノとマークも、本の完成が近づいてきたと肩の荷を下ろす。
「おめでとう」
これまたコッツウォールの名産、はちみつを使ったワインを揺らしながら、開口一番にテニスンはしゃがれた声で、目の前の二人を祝う。
コッツウォールでの滞在時間はすでに一週間を超えていて、その間に、二人は音を上げることなく、仕事に真摯に向き合った。それを称えずして、何になろう。
テニスンの祝福は、二人の顔をほころばせるには十分すぎるほどだった。
少なくとも、ユノはともかく、マークはそれまでテニスンに労われたことも、褒められたこともない。
そんな彼が、確かに「おめでとう」と言った。
「後は、印刷所から戻ってきたものをチェックして完成だ」
テニスンは、照れ隠しか、ワインを一気にあおる。どうやら、酒にはかなり強いらしい。
「正直なところ――本当に、わしもびっくりしておる」
食卓の中心に置かれたバゲットへと手を伸ばしながら、彼はふっとまなじりを下げた。
もごもごと口を動かすたびに、立派に蓄えられたヒゲがもぞもぞと動く。
初めて見たころは、それがまた彼の厳格さを物語っているようだったが、今はなんだかそういう生き物のようにも見えて、少し愛らしかった。
ワインボトルが空になったころ。
祝いの席で言うことではないが、と前置きをしたテニスンが、グラスに残った最後のワインを大切そうに見つめながらマークとユノを見つめる。
「本が完成したら、お前さんたちはすぐにコッツウォールを去った方が良い」
低いダミ声から発された言葉が、酷くマークの胸を打った。
「どうして、ですか?」
酒の飲み過ぎで、幻聴が聞こえているのだろうか。
マークがそんな風に自分を疑ってしまうのも無理はない。テニスンの言葉はそれほど突拍子もなかった。
「コッツウォールの歴史を、知っているかね」
話を切り出したテニスンは、マークとは対照的に、酔っていなければこんなことは話せないとばかりに最後のワインをあおる。
「いや、イングレスの歴史でもいい。ブラックカースと呼ばれた流行り病を、お前さんたちは知っているか」
ブラックカース。
耳慣れないその言葉に、マークもユノも首をかしげた。
イングレスの歴史として、有名な流行り病の名前なのかもしれないが――あいにくと二人とも、学校には通っていない。
二人が知っている歴史といえば、魔女裁判と、言論統制。それから、先の戦争と……本当か嘘か分からないいくつかの噂話程度のものだ。
二人の出自を知らぬテニスンは、「あぁ」とヒゲを撫でた。
「言論統制の最中で、ずいぶんとこの言葉も消えてしまったのか」
ブラックカースについて知らずとも、その口ぶりから魔女に関わることなのだろう、と二人は息を飲む。
「魔女裁判を制定するきっかけとなった流行り病だ。百二十年ほど前……まだ、魔女と人々が共に暮らしていたころ、その病は広がった」
「それと、コッツウォールを出ていくことと、何の関係が……」
「コッツウォールは、その最初の感染者が出た村だ」
テニスンは深く息を吐き出して、声を潜めた。
「感染力が高く、大勢の人が死んだらしい。コッツウォールは壊滅的だったそうだ。魔女の呪いだ、と騒がれ、当時の国王はそうして魔女裁判を制定した」
ユノに向けられたまなざしには、悲哀の色が浮かんでいる。
「コッツウォールには、ある一人の魔女がいた。魔女の名は、エマ・クリストファー・ベイリー」
「エマ・クリストファー……ベイリー……?」
「それってもしかして……」
社長と同じファミリーネームだ、とマークが目を見開いた瞬間、テニスンはうなずいた。
「ヘンリーの祖母だ」
社長の祖母が魔女だという話は知っていたが、まさかこんな繋がりがあるとは。
マークもユノも、思わず互いに顔を見合わせる。
テニスンの瞳に物憂げな影が落ちる。グレーの瞳は、すっかり暗く、黒く沈んだ。
「もちろん、この町に住む人々は、彼女のせいだとは思っていなかった。だが、歴史の中ではそう謳われた。コッツウォールの真実は、そう塗り替えられてしまった。コッツウォールはそういう村で……次第にここに住む人々も、そんな歴史を疑わなくなってしまった」
だからこそ、社長は新聞社で「客観的に、正しく事実だけを書きなさい」とマークに指導してきたのか。マークは不意に、社長の言葉がストンと胸に落ちていくのを感じる。
伝統と歴史を守る、その意味も。
「どうして、エマさんがブラックカースの……その、流行り病の発端だと?」
同じ魔女として、ユノは黙っていられなかったのだろう。今にも泣きそうな表情で、テニスンを見つめる。
「たまたま、コッツウォールに魔女がいただけのことでしょう?」
「そうだ。たまたま、彼女はコッツウォールにいた。そして、偶然コッツウォールの人間が、ブラックカースの最初の一人に選ばれた」
テニスンはやるせない、と小さく呟く。
「ブラックカースは、肌が壊死していく病でな、死ぬころには全身が黒くなることからつけられたものだが……彼女は、偶然にも黒い瞳と黒い髪を持っていた。それだけだ」
ユノはただ目を伏せただけで、それ以上は何も言わなかった。マークも、彼女の頬を静かに涙が濡らしていく様を見つめることしか出来なかった。
テニスンはテーブルの上に広げられていたマンディアンを口へと放り込む。
「だからこそ、魔女であるお嬢さんがいつまでもここにいるのは危険だ。魔女の物語を書いているお前さんもな」
慰めるようでいて、寂しさと切なさのこもった声質が、鼓膜を揺らして胸を締め付ける。
「コッツウォールは小さな村。全員が知り合いだ。だが、だからと言って、皆同じ考えを持っているわけではない。良い噂も悪い噂も、平等に、そしてロンドよりも早く広がっていく。気をつけなさい」
テニスンは「飲み過ぎてしまった」と、ゆっくりイスを引く。
「さ、今日はもう遅い。帰りなさい。刷り上がるまで出来ることもない、明日は休みだ」
いつもはゆったりとした口調の彼が、珍しく口早にそういうものだから、マークもユノも、それに従う以外に気の利いた言葉も出てこなかった。
もっとも、頑固なテニスンには、何を言っても同じ返答しか得られないだろうが。
二人はテニスンに見送られ、仕方なく彼の家を後にする。
好きなのだろう、と余ったマンディアンをテニスンから手渡されたユノも、その顔に作り笑いを浮かべるだけで精一杯だった。
おとぎ話のように可愛らしい町だ、と思っていたコッツウォールの風景も、閑散とした雰囲気ばかりが目立つように感じられた。
「人が少ないのも……そういうことなんでしょうか」
ユノの姿は、静かな闇夜に紛れてしまいそうだった。
そういうこと、と濁された言葉の裏側を想像して、マークは「そうかもしれませんね」と肯定せざるを得ない。
仮に、そうでなかったとしても――そう思っている人間の方が、イングレスにははるかに多いのだろう。
「本が完成したら」
ユノは言葉と共に足を止めた。宿屋の明かりが見えているにも関わらず、まだ、今日と言う日を終わらせたくない、とでもいうように。
「この町も、きっと少しは変わりますよね」
祈りのような、そんな少女のささやきが町に響く。
マークが想像しているよりもはるかに彼女は純粋で、前向きで、まぶしかった。
夜明けの魔女が告げるのならば。
きっと、この町の長い長い夜だって、明ける日が来るはずなのだ。
「ユノさんが、そう思うのなら、必ず」
マークの返事に、ユノは困ったように微笑んだ。
「それは、少しずるいですね」




