6-10 最後の物語、その結末を
ユノが提出した表紙に、テニスンはどこか満足そうにうなずいた。
「ふむ。これなら良いだろう。普段、わしが頼んでおる印刷所でも出来そうだな」
ユノは、テニスンの言葉にパッと目を輝かせる。
「本当ですか!?」
「わしは、一度言ったことを取り下げたりはせん」
テニスンは、表紙とマークの原稿用紙をいくつかカバンにしまいこんで立ち上がる。
「どこかへ行かれるんですか?」
ユノがきょとんと首をかしげると、テニスンはしゃがれた声で「印刷所だ」とうなずいた。
「「印刷所!」」
ユノとマークの声が重なって、テニスンはふんと鼻を鳴らす。
「お嬢さんはついてきなさい。お前さんは留守番だ」
テニスンの厳しい視線に、マークは思わずしゅんと目を伏せてしまう。だが、それがテニスンの意地悪ではないとわかっているだけに、「はい」と素直に答えるしかなかった。
テニスンに指示された原稿用紙の枚数の内、まだ三分の二しか埋まっていないのだ。
最後の物語、その結末をまだマークは決め切れないでいる。
ユノは少し戸惑ったように、テニスンとマークをオロオロと見つめる。
印刷所には行きたいが、テニスンと二人では不安。ユノの表情にはありありとそう書かれていた。
一方、テニスンの顔には、表紙を考えた人間なのだから当然、ユノはついてくるべきだ、と書かれている。
マークは二人の心の内を読みつつも、自らはついていくことを許されていないのだから、と、目の前の原稿用紙を見つめる。
「そ、その……マークさんは」
小さく問いただされたが、彼女の方は見ずにただ首を横に振った。
「ほら、お嬢さん。のんびりもしておれん。行くぞ」
善は急げ、と言わんばかり。テニスンが出版社の扉を開けるギィという蝶番の軋んだ音が無情に響く。
「気を付けて行ってきてください」
マークのその言葉がダメ押しとなったのだろう。ユノは、覚悟を決めたようにうなずいて「わかりました」と頭を下げた。
二人分の足音が、バタン、と扉の閉められた音で遮断される。
独りきりの出版社。時計の針が進む音すら響かない。
マークはガランとした出版社を見回さずにはいられず、思わず独り言をこぼした。
「一人になるのも久しぶりだな……」
思えば、ここ一か月は、マークの周囲には誰かしらがいて、そうでなくても人の気配はすぐそばに感じられた。
それまでは、新聞社という環境にいてもコミュニケーションはほとんどとらず、孤独を抱えていたというのに。
マークは、しばし息を吐き出して、床に散らばった原稿用紙を拾い上げた。
いくら言葉にしようとも腑に落ちない過去の記憶をもう一度広げて見れば、そこには痛々しいばかりのしわが寄っている。
紙の凹凸に合わせて、歪な影と光が文字を照らしだした。
マークはぼんやりと、自らが綴った思いの丈を読み返しながら、家族との出来事、失われてからの日々を思い返した。
悲しいこともたくさんあったし、やるせないこともたくさんあった。
それでも――
あの一件がなければ、マークは作家を志すことも、新聞社に勤めることも、そしてユノと出会い、本を作ることもきっとなかった。
何の疑問も持たずに、両親の店を手伝い、仕立て屋として生きてきただろう。
イングレスの国に、今の王政に、魔女が迫害されているという現実に、何も感じることすらせず。
両親が……妹が、魔女裁判にかけられたことを正当化するわけではないが、そんな風にとらえれば、いくらか家族の無念も晴れるのだろうか。
両親を追いかけることすら許されなかった無力な少年時代の自分を、少しは許すことが出来ようか。
マークは、しっかりと万年筆を握りしめて、今まで以上に細心の注意を払う。
じわりと原稿用紙にインクが滲み、消えないシミとして確かにそこに存在していることを教えてくれる。
マークの家族は、両親と妹は、物語の中で永遠に生き続ける。
「みんなを幸せにしなくちゃ。僕を、育ててくれた……愛してくれたみんなに」
マークは無意識のうちにあふれそうになった涙を手の甲でぬぐって、家族とのあたたかな時間を、どれほど愛していたかということを、丁寧に書きだしていく。
それまでに書いていた原稿用紙はすべて、綺麗にそろえてゴミ箱の中へと突っ込んだ。
一から全てを書き直すために。
ロンドの郊外に、小さな仕立て屋があったこと。それは、代々続く仕立て屋で、名前として受け継がれるほどには自慢の店であった。
真新しい生地の匂い、質感、柄。体形に合わせた見立て、採寸。道具の名前。それらはすべて、教えられたわけではなく、自然とマークが覚えたもの。
もちろん、幼いころはよく分からずに店の物にいたずらをして怒られたこともあった。お客様の大切なスーツをカットしてしまったこともある。母親の手伝いをしたくて、縫い付けている最中のボタンをこっそり縫ってあげようとしたことも。もちろん、ばれて後から叱られた。
妹が生まれてからは、とにかく妹が可愛くて仕方がなかった。両親を取られるだなんて、考えも浮かばないほどに愛らしい妹。
毎日のように、やはり妹の世話をしようとして叱られたり、褒められたりしたのだったか。
妹が二歳になったころ、マークは一人で店の留守番を任されるようになった。
それが、嬉しくも誇らしくもあり、子供ながらに、偉そうなうんちくを客相手に披露した日もある。
母親が妹の世話で忙しく、父親が配達に行ってしまう日は、マークが店主だったのだ。
他愛もない会話でさえ、明確に思い出せる。
特に、夜眠る前のベッドの中で交わした会話の数々は、いまだに一言一句暗唱できそうだ。
優しくあること。強さをはき違えないこと。正しさを知ること。愛する心を忘れないこと。
今思えばあれは、魔女裁判や言論統制を強いている国への、両親なりの考えだったのかもしれない。
もちろん、両親は一度とて、魔女裁判も言論統制も否定したことはなかった。
彼らは彼らなりに、色々と思うところがあったのかもしれない。
妹に読み聞かせた絵本。妹の笑い声。
それから、それから……マークは家族との思い出を書き記していきながら、
「そうか」
と不意に手を止めた。
これから先も、思い出す限り家族の思い出は続いていく。
年を取って、思い出せないことが増えて――けれど、思い出は増えなくて。
それでも、マークが家族を思い続ける限りは、けっして失われることのないもの。
――この物語に、結末などないのだ。
司法裁判官に連行され、その後の消息は分からない。だが、物語はそこで終わってなどいない。
この本が出版され、誰かの記憶に物語が残り続ける限り、マークと家族の物語はどこかで語り継がれていく。
両親がマークに絵本を読み聞かせてくれたように。マークが妹に、絵本を読み聞かせたように。
マークは、
『家族を乗せた司法裁判官のガソリン車が、ロンドの煤煙にかすんで消えた』
と一文を書き記し、そこで物語を締めくくると、新たな原稿用紙を広げて、こう続けた。
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父さん、母さん、そして、僕の親愛なる妹へ。
僕らはずっと、家族です。たとえ、命の灯が消え、その身が朽ち果てようとも。
イングレスという国の、ロンドの街に刻まれた歴史の数々……記憶、思い、僕のこの体に流れる血は、永遠に続いてゆきます。
そうして、この物語もまた――人々の手に渡り、山や野や海を越えて、人々の胸の内で永遠に続いてゆくのでしょう。
時をも、超えてしまえるかもしれません。
ですからどうか、忘れないで。
僕らはずっと、家族です。




