6-9 休息と良いアイデア
マークとユノは、ひとまず、と仕事道具を抱えて宿へ向かう。
社長が手配してくれた宿は、コッツウォール唯一の宿。活発とは言えないが、そこそこ往来のある表通りにかまえていて、赤い屋根が可愛らしい。
宿自体の賑わいはといえば……残念ながら、コッツウォールへ訪れる人が少ないのか、たった一つしかないというのに、マークとユノしか宿泊していない。
そんなわけで、ここ数日、出版社と宿を行き来している二人は、もはや宿屋の主人にとってはなじみ客だった。
「今日は随分とはやいお帰りですねぇ」
のんびりとした口調で話しかけられ、二人は曖昧に笑う。
「テニスンさんは働きすぎるでしょう? 休息と良いアイデアは結びついていると知っているはずなんですがねぇ」
小さな町だからか、皆知り合いのようだ。
かたやロンドで、かたや孤島で暮らしてきた二人には、この皆が知り合い、という感覚は奇妙なものだったが、あたたかな雰囲気は心地が良かった。
家族のようにも、友人のようにも接してくれる町の人々の優しさが身に染みる。
「そうだ、チョコレート屋はまだやってますか?」
テニスンからお使いを頼まれていると付け足せば、主人は朗らかにうなずく。
「この時間なら大丈夫でしょう。いくらか売り切れている品もあるかもしれませんが」
ユノがキラキラと瞳を輝かせたのを主人は見逃さず、
「満足するほどには、まだ残っていると思いますよ」
と笑った。
マークとユノは宿を後にして、早速チョコレート屋へと向かう。コッツウォールのチョコレートはおいしい、と来る前から知っていたのに、二人はまだ一度とてその店に足を運べていなかった。
あまりにも目の前のことに夢中で、すっかり忘れていたことにさえ今更気づく。
「マンディアンは残ってるでしょうか」
スキップを踏むような軽やかなユノの足取り。ローブ代わりのオフホワイトのコートがふわりふわりと舞う。
ユノは、よほどマンディアンが気に入っているらしい。かくいうマークも、あのドライフルーツとナッツが大量にのったチョコレートの絶妙な甘みと酸味のバランスは、一度食べれば忘れられない、と思っているが。
「きっと大丈夫ですよ。他にも色々商品はありますし、売り切れることはないと思います」
マークがすでに楽しそうなユノの後ろ姿に声をかければ、ユノはますます愛らしい笑みで振り返る。コートの裾がぱっと広がって美しい。
「早くいきましょう!」
そんな風に笑う彼女が、この国では生まれながらに死を宣告されるほどの罪を追っているなどと、一体だれが思えよう。
マークはただ、見惚れるようにその一瞬を目に焼き付けて息を飲む。
――あぁ、僕は。
「マークさんなら、こういう気持ちに、なんと名前をつけますか?」
そう言った彼女の答えを、マークはそっと胸の奥にしまう。
ただ一言。自らの気持ちにありきたりな名前を付けるには陳腐すぎるから。
マークはユノの背中を追いかけて、はちみつ色の町をのんびりと歩く。
裏路地へと続く小さな脇道から、猫やカモが顔を出すこともあって、なるほど絵本の町というのもうなずける。
植物の緑、木々の深いブラウン、屋根の赤や青。そのどれをとっても、申し分ない。
「マークさん!」
いつの間にか、通り一つ分ほど前を歩いていたユノがブンブンと大きく手を振る。
彼女の後ろには、『チョコレート』と書かれた黒の看板がぶら下がっていた。
「先に入ってますよぉ!」
待ちきれないのか、ユノはそんな風に笑って、扉を押し開ける。チリン、と澄んだ鈴の音が聞こえ、マークの心も自然と弾む。少し遅れて、鼻をくすぐる甘い香りが立ち込めれば、マークの口の中にチョコレートの味が広がった。
「いらっしゃい」
マークがユノに遅れて扉を開けると、中から恰幅の良い女性の声が出迎えた。
「って、あら。あなた、テニスンさんのところの!」
マークを見るなり、女性はたっと駆け寄ってくる。
どこから出してきたのか、手にペンを持って。
「作家さんなんでしょう! 今度本を出すんですって? 今のうちにサインをもらわなくちゃいけない、と思って。ほら、ここよ! エプロンのここ、店名の下にサインくださらない?」
圧倒的な熱量でまくしたてられ、マークは目をパチパチとしばたたかせた。
「え、えっと……」
「テニスンさんから聞いてるわよぉ! こないだ、ロンドの方から新聞社の方がこられて、挨拶までしてったんだから! 新人さんなんですってね。でも、こういうのは売れてからじゃ遅いのよ! 売れる前に、サインをもらうからこそ価値があるの!」
もはや脅迫にも近い勢いでペンを握らされ、マークは眉を下げる。
「どんなお話を書かれているの?」
「それは、ちょっと……出てからの、お楽しみです」
「やだわぁ! そんな、もったいぶっちゃって。でも、そうよね。発売前のことは教えられないわよね! テニスンさんですら、教えてくださらないのよ。でもいいの。必ず本は買うわ。だから、先にサインしてちょうだい!」
マークは弱ったな、と内心で嘆息する。サインなど、荷物の預かりか、何かの契約書に書いたくらいで……作家としてのサインを書いたことは一度もない。ましてや、考えたこともなかった。
どうしたものか、と考えていると、女性はさらに早口でまくし立てる。
「いいのよぉ! そんな気にしなくて! この店のエプロンなんて、何着でもあるし、間違えても大丈夫だから! さ、ドン! と書いてちょうだい!」
押し付けるようにエプロンの布を目の前に差し出され、マークは仕方なくそのエプロンに即席のサインを走らせた。
マーク・テイラー。
筆記体で書けば、一応それらしい。そうだ、と最後のスペルを飾り文字にして、万年筆のペン先らしきイラストを描けば、女性は満足したのか
「素敵じゃない!」
と声を上げた。
「もう絶対、買うわね! 発売されたら教えてちょうだい!」
マークがペンを返せば、今からテニスンさんに言っておかなくちゃ、と女性は満足そうに店の奥へと戻っていく。
これでは、どちらが客か分からない。
マークはそんな背中を見送って、隣にいたユノと視線を交わす。
ユノはチョコレート……ではなく、マークが先ほどまでサインをしていた場所、今はすっかり何もない空間をただじっと見つめて何かを考え込んでいた。
「ユノさん?」
マークが彼女の眼前でひらひらと手を振る。ユノはそこでようやく我に返ったのか、ハッとマークの手に焦点を合わせた。
「あの! 表紙なんですけど!」
・・ -・・ ・ ・-
店で大量のマンディアンを買い、トリュフといくらかのチョコレートボンボンをおまけとして受け取って、二人は足早に宿へと引き返していた。
ユノが、表紙のアイデアを思い付いたというのだ。アイデアを忘れないうちにメモしたい、という欲求は、マークと同じらしい。
きっと、テニスンも休ませるために「今日は帰れ」と指示しただろうに、結局仕事をしてしまっている。もちろん、そのことに二人とも気づくはずもなく。
つい先ほど出発したばかりの宿に、もう戻ることになろうとは。
宿屋の主人も、二人が戻ってきた姿に不思議そうな顔をした。
「おや、早かったねぇ」
接客業ゆえ、態度は柔らかに隠したが、言葉尻にその驚きが現れている。
「少し、仕事のアイデアが浮かびまして。良ければどこか、場所を貸してはいただけませんか?」
かつては同じ屋根の下で――しかも、ユノのベッドで眠ったことのあるマークとはいえ、どちらかの部屋に押しかけて二人きり、というのははばかられた。
「あぁ、それなら外のテラスを使ってください。気持ちがいいですよ。後でお茶をお持ちしましょう」
主人の心遣いに頭を下げて、二人は「それじゃぁ、また」と手短にそれぞれの部屋へ戻っていく。
互いに大した準備があるわけでもなく、必要なものを持ち寄って、宿屋の主人に言われたテラスに出たのは、ほんの少し後。
宿屋の裏庭を兼ねているらしい。葉っぱ一つ落ちていない芝生も、小さな噴水と丁寧に剪定された生垣も美しかった。
これならはかどりそうですね、とマークが言えば、ユノは満面の笑みでうなずく。
穏やかな冬の日差しを受けて、ユノが広げた紙に、二人は顔を寄せた。




