6-7 噓偽りではなく、ここに
ユノの瞳に、先ほどまでの怯えや疑念はなかった。
「一つだけ、お約束してくださいませんか」
はっきりと、目の前のテニスンに向かって話す彼女は、凛としていて美しい。
「なんだね」
テニスンは、そんなユノをじっと見つめる。刻みこまれたしわがより深くなり、見る者が見れば、怒っているのではと勘違いしてしまいそうな雰囲気だ。
だが、ユノはその視線には負けない。
「必ず、この本を出版していただけるとお約束してください」
ユノの口調に、テニスンはふっと小さく笑みをこぼした。ヒゲが微かに揺れ、再び口角が見える。
「それほどの魔法を見せてくれる、ということかね」
「はい。必ず」
挑発するような物言いにも、ユノは毅然とした態度で答えた。間髪も空けず。
「良いだろう」
テニスンがうなずいたのを、ユノはしかと見つめて頭を下げる。
「ありがとうございます」
マークも慌てて、頭を下げた。
マークは、自らの本だというのに、ユノばかりに重荷を背負わせている、とユノを盗み見る。
彼女の横顔には、自信というよりは、覚悟そのものが垣間見えた。
それが、また美しくて……マークはやはり、何があってもユノを守ろうと決意した。
「それじゃぁ、テニスンさん。好きな景色を一つ、教えていただけませんか?」
「景色?」
「えぇ。海でも、町でも、なんでもいいのですが」
突飛なユノの質問に、テニスンは、ふむとヒゲを撫でる。
「それが、魔法と何か関係があるのか」
「私の魔法は、空間の中に景色を作り出すんです」
「ほぉ。魔法ならなんでもできる、というわけじゃないのだな」
「残念ながら、そんなに便利なものじゃないんですよ」
ユノの苦笑に、テニスンは再びヒゲをいじる。どうやら、それが彼の癖らしい。
「そうじゃな……」
テニスンは長い息を吐き出して、原稿用紙に目を落とす。
「架空の景色でも良いのかい」
彼の言いたいことが分かった、とでもいうように、ユノはニコリと微笑んだ。
テニスンは、原稿用紙の一文を指さした。
マークが、ユノと共に夕日を見たあの日に書いた物語だった。
――これなら。
ユノも瞳をキラキラとさせて、「やります!」とむしろせがむような形でテニスンに迫った。
マークはある程度事情を説明し、テニスンと共に出版社の外へ出る。
コッツウォールを照らす太陽はまだ空の頂上にあり、これから本当に夕暮れが見れるのか、とテニスンはいぶかしんだ。
「それじゃぁ、いきますね」
一緒に外へ出たユノが、そっと出版社のドアノブに手をかける。
目を閉じ、深呼吸を繰り返すユノは、あの景色を再現しているのだろう。今頃、出版社の中にはじわじわとその景色が広がっているはずだ。
テニスンはただ、不思議そうにユノを見つめるだけ。
「これで魔法がかかるとでも」
「えぇ。もう少しですよ」
ユノに代わってマークが答えたが、テニスンは疑いのまなざしをユノに向け続けた。
ゆっくりとユノが息を吐き出す。
ついこの間までは、見慣れていた景色だ。マークにも作ってみせたことがある景色。
それでも、マークの本の出版をかけて作り出すのは初めて。緊張もしたし、いつも以上に気合をいれて丁寧に作り上げた。
「オープンセサミ」
ユノの口から紡がれた呪文と共に、カチャン、とドアノブが一人でに回る。
「終わりましたよ」
同じ呪文を唱えて開けてみてください、とユノはテニスンに視線を向ける。
「ドアノブを握って、ゆっくり、はっきりと」
マークは、魔法をかけ終えたユノがこんなにも緊張しているのを初めて見た。手が震えているのを必死に隠す彼女は、マークの視線に気づいて照れたように笑った。
「最後まで、かっこよくやってみたかったんですけどね」
憧れている、アリーや、ジュリ達のように。ユノは、そんな風に目を細めた。
テニスンが「いいかね」とユノの方へ視線を送る。テニスンの手はしっかりとドアノブにかけられていて、今にも開けんとする勢いだ。
魔法を信じていない、と言った彼の頑固さはそんな態度にもよく表れている。
「オープンセサミ」
しわがれた声がヒゲの隙間から漏れ出ると同時に、カチャン、とドアノブの回る音がする。
自らの意志とは関係なく、突如として回ったドアノブに、テニスンは驚きの色を隠さなかった。
「……まさか」
小さいが、明朗。マークの耳にも、ユノの耳にも、驚きと期待が混ざったそんな彼の言葉が届いた。
テニスンは、恐る恐るその扉を開く。
――目を見張った。
彼の眼前に広がる、海と、反射する夕焼け。コッツウォールの夕暮れにも負けないほど、とろけるようなはちみつ色に染まる景色。
息を飲むほど、それは美しい。
「これは……」
「実は、架空の場所ではないんですよ。私のお気に入りの場所です。物語の舞台になるなんて、思ってもみませんでしたが」
「僕も、お気に入りの場所ですから」
驚くテニスンの隣に並んで、二人が嬉しそうに口角を上げる。
テニスンは、言葉を失ったかのように目をしばたたかせ、しきりに顎下のヒゲを撫でた。
「わしも……これは、気に入った」
たった一言、そう伝えるのが精いっぱいだった。
テニスンは、隣で懐かしそうに夕日を見つめる少女を改めて凝視する。
魔女特有のジュエルアイとやらではない。確かに愛らしい容姿ではあるものの、コーヒー色の瞳は、ロンドでもよく見るものだ。
それなのに――
彼女の瞳は、目の前の夕日に透けるとチラチラと同じ色を反射しているように見えた。
魔女は存在したのだ。
おとぎ話でも、国王の妄言でもなかった。
なにより、そんな魔女を受け入れ、あのヘンリーをも変えてしまった青年も、嘘偽りではなく、ここに存在している。
それこそ、普通の青年だ。取り立てて特徴もなく、一言で言えばパッとしない青年。
だが、彼こそが魔女と共にこの国を変えるのだろう、とテニスンは直感的に思う。
魔女はゆっくりとテニスンへ、その美しい、夜空とも夕暮れともつかぬ色合いを瞳に反射させたまま笑う。
「気に入っていただけましたか?」
テニスンは、申し訳なさそうに眉を下げて、ゆっくりと頭を下げた。
「疑って、すまなかったな」
魔女など、存在しないと思っていた。魔女裁判が横行してはいたものの、テニスン自身が魔法を見たことがあるわけではない。唯一、ヘンリーの祖母がそうらしい、とは聞いたことがある程度で、それも定かではなかった。
しかも、ここ、コッツウォールで魔女の話はご法度――国全土にしかれている言論統制よりもさらにそれは厳しいものだ。
魔女という存在に心を躍らせたこともなければ、鉄道やガソリン車のような近代的なものが登場していくうち、魔法なんてものは非科学的だとさえ思っていた。
科学とは似て非なるものだからこそ、それは魔法と呼ばれるのか、とテニスンは一人納得する。わざわざ名前を付けているのだ。科学と区別するために。
「まったく、本当に困った仕事を押し付けられたもんだな」
テニスンが苦々しくも、口角を持ち上げる。
「それって……」
テニスンの言葉に、マークとユノは顔をゆっくりと見合わせた。仕事を受けてもいい、ということだろうか、と。
「受けていただける、ということですか?」
ユノが念押しするように尋ねれば、テニスンはしゃがれた声を震わせて笑う。
「最初から、そういう話だったからな」
マークがキラリと瞳を輝かせると、テニスンは
「忙しくなるぞ。覚悟しておきなさい」
と仏頂面に戻してくぎを刺す。
「だいたい、お前さんはまだ最後の物語もまだじゃと聞いたぞ」
テニスンの厳しい一言に、マークは思わず顔をしかめてたじろいだ。
「頑張ります!」
マークが声を上げてぴしりと姿勢を正せば、当たり前だと視線で返される。
「頑張ってもどうにもならないと思うときに、あきらめなければそれでいい。後は、なんとかしてやろう」
テニスンはその時初めて、ヒゲの間からニカリと歯をのぞかせて笑った。




